眠り姫は小さな家から出られない
黒須 夜雨子
第1話 小さな家でのルーチンワーク
キィ、と小さな音を立てて、外に繋がるドアが開く。
そこから身を滑り込ませるようにしてイヴリンは外に出た。
イヴリンの立っている場所から家の囲いの向こうまでは3m程。
その距離がとてつもなく遠い気がするのは、きっと気のせいではないだろう。
気持ちは心の距離だ。今のイヴリンには数歩の距離にそう感じるだけ理由があるのだから。
歩き始めた石畳の隙間から、控えめな丈の雑草が見え始めている。
つい先日にも引き抜いたはずだが、春の最中とあれば植物の成長は目覚ましい。
それなのに横を見れば、小さな植木鉢が行儀よく待機しているが、芽吹いているものはといえば慎ましく端にいる雑草ぐらい。
忙しいからと家主が言っていたが、本当に仕事が忙しいのか、それとも興味がないからかは知らない。
ただ、イヴリンがここに住み始めて三ヵ月経った今も、未だ種一つ植えられることはないままだ。
柵の向こう側では、白とピンクのアザレアが頭を覗かせていた。
あのぐらいのサイズになるには何年かかるだろうか。
少し考えてみて、イヴリンが植えないものを考える必要もないと、すぐに考えを振り払う。
雑草はまた数日後にまとめて抜いてしまおうと思いながら、腰の高さほどの柵の扉を開くことはないまま、ポストから顔を出している新聞を引き抜いた。
続けてポストの投函口の反対側を開いて、手紙がないかを確認する。
昼間は直接玄関口まで届けてくれるが、朝一番は新聞と一緒に放り込まれている可能性があるからだ。
今日は新聞だけのようだった。
家主からは手紙があるかどうかを、わざわざ確認しなくていいと言われている。
イヴリンとしては新聞を取りに行くついででしかないのに、家主は非常に過保護といえるだろう。
「おはよう、イヴリン」
不意に声がかかった。
顔を上げれば、柵の向こう側に隣人が立っている。
20代後半から30歳かといったところの女性は、溌溂とした笑顔を浮かべていた。
「おはようございます、メアリーさん」
「今日も囚われのイヴリン姫は、外に出ることがないのね」
言われて苦笑するだけに留める。
「ロイスさんが、一人で外出は駄目だって言うので」
家主の名前が出ると、メアリーの片眉が上がった。
「まあ、相変わらずの過保護っぷりねえ。
イヴリンだってお年頃の女の子だっていうのに」
困ったものだと腕を組み、そうしてから意味ありげに笑う。
「もっと外に出て、同じ年ぐらいの女の子と買い物に行ったり、気になる男の子を見つけて、恋をしたりするものだっていうのに。
親戚だというだけで、いくらなんでも口煩くないかしら?」
それはイヴリンだって思うことなのだが、事情が事情なだけに仕方ないところもある。
それをメアリーには説明できないだけだ。
メアリーは左隣の家の住人で、以前は職業婦人として働いていたらしい。
務め先の活版印刷所が倒産し、今は家主が長期の旅行で留守にする家を管理をするために、住み込みで働いているとのことだった。
ここに住むことになったときに挨拶して以来、柵越しではあるが話し相手になってもらっている。
よくイヴリン自身でも過保護と思える家主の態度を、家の中まで届きそうな大きな声で非難することもあるが、基本的には良き隣人ではある。
それに週末となれば、神殿に祈りを捧げに行くぐらいには信心深い。
メアリーがイヴリンを気にかけてくれるのは、神殿が慈愛と慈悲の心を諭しているからだろう。
敬虔深い彼女ならあり得る話だ。
今も襟の詰まった深緑の一揃えを着込んでいるので、今日も神殿に向かうようだった。
そんなメアリーから土産話として語られる、異世界から召喚されたという聖女様の話は、いつ聞いてもワクワクする。
特に聖女様が慣れぬ世界で、心優しい少年と出会い恋に落ちたのに、お互いを想いながらも今は離れ離れになったという物語のような展開に、続きを聞きたくてソワソワしていた。
この辺りに住んでいる人たちは一人暮らしや年配の人が多く、イヴリンと年の合いそうな子どもは少ない。
それに、最近の流行なんてさっぱりわからずにいるから、家の外に出られないイヴリンは彼女達に声をかけることを躊躇ってしまう。
ちょっと年の離れたお姉さんくらいが、今のイヴリンにはちょうどいいのだ。
また明日以降に会ったときにでも、立ち話ついでに聖女様の聞かせてもらおうと考える。
こういった女の子が好きそうな恋愛絡みのお話を、家主には絶対聞けないのだから。
メアリーと別れ、開けたままにしてた玄関扉から再び中に戻る。
入ってすぐは外の眩しさと対照的な、小さなエントランスの薄暗さに、瞬きを繰り返しながら目が慣れるのを待つこと少し。
すぐに普段通りの暗さに慣れた目は、階段脇に廊下と呼ぶにはおこがましいスペースの奥、扉を開けばダイニングに辿り着く。
キッチンと一緒になったそこでは、一人の青年が思い詰めた顔をして鉄製のフライパンを見つめていた。
手にした木ベラがなんとも勇ましくも、逆に情けなくも見える姿だ。
フライパンをお皿へと寄せ、手にした木ベラが目玉焼きとフライパンの間に差し込まれる。
その手つきはどこまでも慎重だ。
ゆっくりと木ベラで目玉焼きを持ち上げ、不意にベチャリと音を立てて皿へと落下していく事故を見送りながら、のろのろとした動きでイヴリンを見た。
「だから手伝うって言ってるのに」
「……すまない」
傾いたフライパンから、もう一つの目玉焼きも落ちていった。
いつも目玉焼きが上手に焼けない彼、ロイス・ウィスクリフ。
そんな彼がイヴリンの同居人だった。
* * *
「僕は、食事の前に神への祈りを捧げない。」
それは、この家で最初の食事を共にしたとき、ロイスが言った言葉だ。
まるで神という存在を受け入れないといわんばかりに、蒼い瞳を伏せて淡々と口にしていた。
生活の中に信仰があるこの国では、珍しいタイプの人だろう。
イヴリンも、イヴリンの家族だって熱心な信者とは言えないが、家では食事の前に祈りを捧げるのが当たり前だったし、それは信仰というよりも生活習慣に近かった。
イヴリンを預かってくれている、遠縁だというロイスは破天荒な人間でもなければ、よく人々が馬鹿にする無神論者気取りという風にも見えない。
けれど、祈りを捧げないという点において、彼はどこまでも頑固で譲らなかった。
ロイスに促されて席に着く。
目の前に置かれたお皿には、落下によって黄身の潰れた目玉焼きと、焼いたソーセージとトマト、焦げ付く間際のパンが盛りつけられていた。
それからお茶が一杯ずつ。
イヴリンのカップにはミルクを淹れたのか、淡い茶色へと変化している。きっとお砂糖も加えられているのだろう。
今日は週末ということで、小さめのリンゴも一緒に置かれている。
イヴリンの向かいに座るロイスの行儀はとってもいい。
お上品という言葉がいいのだろうけど、ロイスのフォークを持つ手一つにしても丁寧で、優雅で、綺麗だと思った。
一体どういった繋がりの親戚なのかと、一緒に住み始めてからも考えてしまう。
イヴリンの中にある過去12年間の記憶の中で、ロイスと会ったこともなければ、名前を聞いた覚えだってない。
そんな縁遠い親戚が一人住む家に、娘をたった一人で預けるなんて、父親は一体どういうつもりなのか。
父親から暫く遠縁に預けるつもりだと聞かされた時には驚いたものだが、あっという間に身支度をさせられて、普段なら向かわない商業地区から少し外れた住宅地に向かう乗合馬車に乗せられたのだ。
着いた先が花も木もない寂れた一軒家、ロイス・ウィスクリフの家だった。
家の外で待っていた彼を見て、とても若いから驚いたし、ちょっと格好良い気がしたから目を合わせられなかったし、一緒に住んで問題無いのかを不安になったものだ。
とはいえ、イヴリン自身も暫く静かな場所で過ごすことは必要だと思ってはいたから、ロイスの家で過ごせるのは丁度よかった。
家族と住んでいた家の近所の人達は、親切だがとてつもなく好奇心旺盛で、我慢なんかできずにイヴリンから話を聞きたがるだろうから。
何にせよ、医者からは静養を勧められているので、父親の選択は間違ってなどいない。
なにせイヴリンには、五年間の記憶がないのだから。
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