元カノ転生~未練はないって、言ったはずだったのに~
ゆうきちひろ
プロローグ 終わったはずの物語
白い天井を見つめながら、奏太は決意を固めていた。
「あの子には言わないでください」
点滴の管に視線を落としながら、彼は静かにそう告げた。ベッドの傍らに立つ看護師は、優しくも少し困ったような表情を浮かべる。
「本当にいいんですか?」
看護師は声のトーンを落として問いかけた。
「汐見さんはきっと、知りたいと思いますよ」
奏太は無言で首を横に振った。ただでさえ自分のせいで留学話がストップしていた。ピアニストなら誰でも憧れる世界有数の国際音楽学校。才能豊かな彼女にふさわしい場所だ。それが自分のせいで台無しになるかも知れないなんて――。
「彼女には自分の道を歩いてほしいんです」
その言葉を口にした瞬間、窓の外の桜が風に揺れた。先週、この病院の中庭で二人で見た桜だ。あの日、結月は自分のピアノリサイタルのチケットを手渡してくれた。
「必ず聴きに来てね」
その笑顔が、今も瞼の裏に焼きついている。
「奏太くん、ちょっといい?」
昼下がりの病室。結月が訪ねてきたのは3時頃だった。白いワンピースに、藤色のカーディガンを羽織っている。病院の蛍光灯の下でも、彼女の黒髪は上品な艶を放っていた。
「リサイタルの練習、休憩中にちょっと抜け出してきたよ。どう、調子は?」
奏太はベッドに腰掛けたまま、精一杯の平静さを装った。
「あぁ、そろそろ退院できそうだよ」
嘘だった。
医師からはついさっき、残された時間はせいぜい1ヶ月と告げられたばかりだった。
「そっか、よかった!」
彼女の笑顔が、なぜかいつもより眩しく見えた。窓から差し込む春の光が、彼女の黒髪に反射して、不思議な輝きを放っている。今このまま時間が止まればいいのに、と奏太は思った。
「実は、結月に言いたいことがあるんだ」
彼の言葉に、結月は首を傾げた。
「なに?」
「俺たち、別れよう」
彼は自分でも驚くほど冷静な声で言った。
「え……?」
結月の表情が凍りついた。一瞬、彼女の瞳に映る自分の姿が、無性に哀れに思えた。
「どうして……急に……」
奏太は彼女の目を見ることができなかった。見てしまったら、きっと全てを話してしまう。そうしたら彼女は自分の夢を投げ出してここに残ろうとするだろう。そんなことは絶対に許せなかった。
「理由はない。ただ……もう終わりにしたいんだ」
「嘘……なんで急に……何かあったの?」
言葉に詰まる彼女を前に、奏太は己の心を無理やり閉ざした。
「もう無理なんだ。ごめん」
「どうして……」
彼女の表情から血の気が引くのがわかった。涙が彼女の頬を伝い落ちる。それ以上見ていられなくて、奏太は顔を背けた。
「…………」
二人の間に永遠とも思える沈黙が流れた。
「……わかった」
結月は小さな声で言った。
「でも、きっといつか理由を教えてほしい」
ドアの閉まる音がした後、奏太は初めて涙を流した。どれだけ泣いても、胸の奥の痛みは消えなかった。
「ギターを弾いてるの?」
夜勤の看護師が部屋に入ってきて、ベッドで楽譜を広げている奏太に声をかけた。消音器を付けたギターを膝の上に乗せ、左手で弦を押さえながら、右手でメモをとっている。
「ええ、ちょっと曲を作ってるんです」
「へぇ、素敵ね。誰かのために書いてるの?」
「もう会えない人のため……です」
奏太はそう言って微笑んだ。その笑顔が、どれほど切なく見えたことか、後に看護師は同僚に語ることになる。
「『エターナル・モメント』……永遠の瞬間、かぁ。素敵なタイトルだね」
「ありがとうございます」
看護師が部屋を出た後、奏太はまたギターを爪弾いた。メロディラインとギターパートは書けたが、ピアノ伴奏部分はどうしても完成できない。本当は彼女に弾いてほしい部分なのに。
でも、これでいい。彼女はきっと、自分の夢を叶えるだろう。国際的なピアニストとして輝く姿が、目に浮かぶようだった。
楽譜を枕元に置き、奏太は静かに目を閉じた。
「さようなら、結月」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます