8話 黒潮の戦い、義賊の誓い
朝の海は最初、機嫌が良かった。風が帆を丸く膨らませ、船首が波を割る音は軽やかで、陽光は甲板の上で跳ねていた。リサンドラは舵輪に片手をかけ、もう片方で索を指先で弾いては、風のご機嫌を確かめる。彼女の指は海の脈をなぞるように動き、舵の切り幅は最小で美しい。
「境目、もうすぐだ」ヴァルドが眉を上げて指差した。沖合に、色の違う一帯が横たわっている。海が墨で洗われたように鈍く、波頭の白が急に少なくなる帯。そこから黒い靄が低く立ち上がり、空の色を曇らせている。
ミルトは樽を開け、布袋にくるんだ火薬玉を慎重に出した。
「目潰しと耳潰し、十分。……“あとで”びびっても投げる」
「祈りは厚く」エリナがうなずき、声を低く響かせる。言葉は波に混じり、光の薄い膜が船体に沿って滑った。カイは胸の鼓動を数えた。小瓶の軋みが一拍ごとに弱く強く返って来る。合っている。合ってしまっている。
「入るぞ」リサンドラが舵を切り、帆の角度を変えた。船は黒い帯の縁で一瞬ふわりと軽くなり、次の瞬間、重く沈む。空気の味が変わった。潮の匂いに、鍵の錆を舐めたような薄い鉄の味が混ざる。音が一つ減った。鳥の声が消え、波と帆と索の音だけが残る。
最初の影は、小さなものだった。海面からするりと頭を出し、陽の光を嫌うように甲板へ跳ね上がった。鰻のように長い身体に煤の粉をまぶしたみたいな鱗。目は塗り潰したように黒い。口の中は空っぽの穴で、そこから黒い水が垂れた。
「来る!」ガイルが盾で弾き、ヴァルドの刃が背を割る。黒い水が板の上でじゅ、と音を立て、木が白く痩せた。
「甲板を腐らせる。注意」ガイルが短く告げる。
次は群れだった。霧の縁から一斉に飛び出し、舷を叩き、帆縄に絡み、籠のように船を覆う。ミルトが音玉を投げ、甲板の上で白い閃光が弾け、金属の悲鳴のような音が海の内臓を震わせる。影が一拍遅れで体勢を崩した隙に、ヴァルドが二体を連続で落とし、ガイルが一体を盾で甲板に押し潰す。
カイは霧の奥を見ていた。そこに、縫い目がある。水の地図に細い白が走り、波紋の下で皮膚が寄せ集められたような継ぎ目が伸びている。その中央――影がもっとも濃く、黒の重さが海を凹ませている焦点。胸の奥がそこへ引かれ、手が勝手に柄を握り直した。
「中心はあっちだ!」カイの声に、リサンドラが舵を大きく切る。船首が霧の厚みに突っ込み、世界が一瞬、暗くなった。エリナの祈りがひと段階高くなり、光の膜が船を包む。膜に触れた霧はざらりと削れ、黒い粉になって海に落ちた。
大きな影が来た。黒い鯨の骨だけを縫い合わせたような形――背骨のアーチに棘、口は裂け、目の位置には煤が集まって渦を巻く。うねり一つで船が傾ぐ。ガイルが踏ん張り、舵輪のリサンドラの肩に筋が浮く。ヴァルドは索を足に巻き付け、高い位置から棘の根本へ刃を落とした。
「ミルト!」カイが叫ぶ。
「帆の上、左!」
「投げる! “あとで”じゃない!」ミルトの閃光が空で咲き、影の渦が縮む。ガイルがその隙に盾で頭をいなし、カイの刃が喉元を掠める。骨の隙間がほんの一瞬柔らかくなり、ヴァルドの刃がそこを縫うように通った。黒い水が噴き、甲板が悲鳴を上げる。
「エリナ!」
「守る!」光が板を覆い、腐食を食い止める。彼女の額から汗が滴り、唇は硬く結ばれている。祈りの節が少し乱れて、すぐ戻る。強い。
霧が波より早く動き、船の右舷が闇に沈む。視界の端に、黒い球体が現れた。水面に浮く瘴核。内部で煤の雪が逆回転し、拍に合わせて光を飲んでは吐き出す。近づくほど、カイの鼓動と同期し、胸がきしんだ。小瓶が腹の底で求愛するように鳴る。
「……来る」カイの声と核の拍が重なった。リサンドラが舵を切り、船首を核に正対させる。
「引き寄せる。銛、準備」彼女は背中の鉤を抜き、紐を腰に結わえ、足で踏ん張る。
「落ちたら拾わなくていい。船を守れ」
「落ちないで」ミアが掠れた声で言う。リサンドラは片目で笑い、「任せろ」と短く返した。
核は海の呼吸を無視して近づいてくる。波が下がっても核はそこにあり、上がっても距離は縮まる。エリナの祈りが風を曲げ、光の網が核と船の間に張られる。網が触れると核は泡立つが、すぐに滑ってくぐろうとする。賢い。いや、悪いのではない。生まれの本能だ。黒は、広がるために生まれている。
「合わせるぞ!」ガイルが低く吠え、カイとヴァルドが左右に散って影の群れを寄せ付けない。ミルトは音玉で核の周りの水を震わせて流れを乱す。核が一瞬、進路を迷った――そこだ。
「今!」カイが叫ぶと同時に、リサンドラの銛が放たれた。鉤が核の表面を噛み、火花のような黒い粒が四散した。紐がきしみ、彼女の身体が甲板の上で弾かれる。足裏に力を込め、腰を落とし、腕で衝撃を殺す。銛は抜けない。核が暴れ、渦が強くなり、船が引かれる。舷が水をかむ。
「持つ!」リサンドラの歯が光った。背中の筋が張り、彼女の全体重と意思が一本の線にまとめられて核を繋ぎ止める。
「エリナ、小瓶を!」
「ここに!」光の網が狭まり、核の動線を一本にする。カイは一歩前へ出て、瘴気の薄い筋を探す――身体が先に見つける。その筋に合わせて剣を下ろし、核の進行をほんの刹那ずらす。ヴァルドがその隙に索を投げ、核の裏側へ回して抵抗を増やす。ガイルが盾で波を受け、船首を立て直す。ミルトの閃光が核の表面で爆ぜ、回転が一瞬崩れた。
「今!」エリナの声が甲板を震わせた。小瓶の口が開く。光の網が核をすべり込ませるように傾き、リサンドラの銛が最後の一押しになる。
「入れ!」彼女が吠えた。核はためらった。ほんの一拍。次の一拍で、落ちた。
薄い蓋の音。世界が一度だけ息を吐いた。霧が裂け、空に陽が戻る。黒い魚影は潮のほつれ目へ吸い込まれ、波は静かな拍に戻った。風が帆を膨らませ、船は霧の帯を抜けた。港の方向に青が広がる。
甲板の上で、誰もすぐには声を出さなかった。リサンドラが銛を回収し、紐を解いて息を吐く。
「……いいね。あんたら、やるじゃないか」
「あなたも」エリナが微笑み、小瓶を胸に抱え直す。
「あなたの腕がなければ間に合わなかった」
「腕だけじゃない。根性もだ」ヴァルドが片眉を上げる。
「あと二本、銛があれば楽だった」ガイルは真顔で言い、リサンドラが吹き出す。
「“あとで”用意しよう!」ミルトがすかさず言葉をかぶせ、「今は帰りの風に乗ろう」と舵手に顎をしゃくった。
船は港へ向き直る。霧の外で風は素直になり、帆が気持ちよく鳴る。甲板のあちこちで、黒に侵された木が白く乾いていた。エリナの光がそこを薄く覆い、腐食を止める。ミアはカイの袖をつまみ、「大丈夫?」と囁く。カイは頷く。胸の拍はまだ小瓶と半分ほど合っていたが、距離が開くにつれて少しずつずれていく。ずれるたび、彼は現実の重さを取り戻す。
港が近づくにつれ、人々の顔が変わった。遠くから見守る目は恐れだけではなく、期待の色を帯びる。桟橋に足をつけると、最初に駆け寄ってきたのは小舟の少年だった。
「戻った! 霧の中から!」少年は叫び、誰かが「戻ったぞ!」と繰り返した。噂は波のように岸壁を伝い、倉庫の影からも人が出て来た。
リサンドラは船縁から軽やかに下り、腰の刃を叩いた。「どうやら、港はまだ息をしてる。あんたらが肺を開いたんだ」
「私たちだけじゃない。あなたが舵を切ったから」カイは素直に言った。言葉に嘘がないことが自分でも分かる。
彼女は碧い眼を細め、顔を近づける。
「ねえ、旅人。あんたは海の匂いが似合う。波の上で、目が生きてる。……私も行くよ。港が腐るのはごめんだし、この黒い糸を陸の奥まで辿るなら、海の端から縫い目をほどくのを手伝いたい」
ガイルが頷く。「歓迎する」
ヴァルドは肩をすくめ、「賑やかなほうが退屈しない」と笑い、ミルトは「では“あとで”取り分の話を」と財布を叩いてウィンクした。エリナは小瓶を持ったまま手を差し出す。「一緒に来て。祈りだけでは足りない場所が、これからいくつも出てくるから」
リサンドラはその手を包み、強く握った。「よろしく、神官。よろしく、旅人たち」
夕陽が港の屋根を赤く染め、波の目に光の縫い目が一瞬だけ走った。世界の皮膚は縫い合わせられている。どこかは解け、どこかは縮れ、どこかは切れかけている。羊皮紙の地図を広げると、港の黒点の先に、内陸へ伸びる線が見えた。石の街道と川の曲がりが重なるあたり――古い都。交易の心臓に、黒い点がいくつも重なっている。
「次は、ここです」エリナが指で示す。
「内陸の古都。神殿の分院と、古記録庫がある」ミアが地図を押さえ、「“縫い目”の記述がきっと残ってる」と囁く。
「川を遡るか、陸路か」ガイルが現実的に問う。
「川だ」リサンドラが即答する。
「水は道だ。瘴は道を好む。なら、先回りができる」
「商談も川沿いで回るしな」ミルトが笑い、ヴァルドは「なら舟賃を“あとで”に」と肩を竦める。リサンドラは「その“あとで”はすぐ来る」と指で弾き、甲板の傷をもう一度撫でた。彼女の指先が、白く乾いた箇所の上で止まる。
「これも、直そうな。船は仲間だ」
カイは港の外れを振り返る。倉庫の壁に、朝見たのと同じ縫い目が淡く浮かぶ。空の端にも、白い糸のような線がひと筋だけ走った。気のせいかもしれない。だが彼は目をそらさなかった。見なければ、ほどけない。ほどかない限り、誰かがどこかで溺れる。
その夜、一行は短い眠りを分け合った。ミアは袖をつまみ、手の温かさを確かめるように握った。エリナは小瓶の鼓動と自分の鼓動がずれていくのを確かめ、安堵の祈りを小さく落とした。ミルトは火薬の残りを数え、ガイルは刃をもう一度磨き、ヴァルドは星の位置を覚え、リサンドラは潮汐表を頭の中でめくった。
翌朝、一行は川筋へ向かう荷馬車に便乗し、港に別れを告げた。潮の匂いは背に回り、代わりに湿った土と草の匂いが鼻を満たす。羊皮紙の黒点は次の街を指し、縫い目はそこでもう一度、顔を出すだろう。
「行こう」カイが言い、誰もが頷いた。
旅は続く。ほどくべき縫い目は、海から陸へ、線を変えながら彼らを導く。封じるべき核は、まだいくつも鼓動している。未来は、まだ遠い。だが、その分だけ――歩く理由は、確かだ。
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