4話 祈りは怯えの向こうに

 街道をしばらく進むと、湿った風が肌を撫でた。

 丘の向こうに灰色の影がのぞいている。崩れかけた石の建物。尖塔は途中で折れ、屋根は瓦が崩れ落ち、壁は黒い蔦に覆われている。かつて旅人が祈りを捧げた教会――その名残だった。


 だが今は、窓という窓から黒い靄が滲み出し、空に垂れ込めていた。鐘楼の鐘は割れ、風に鳴ることもない。静寂は不気味で、耳の奥を圧迫する。


「……教会だな」ガイルが低く言った。

「昔は、旅人が立ち寄る安らぎの場所だったはず」ミアが祈るように視線を落とした。

「いまは瘴の巣窟だね」ヴァルドが肩をすくめる。


 足を進めるごとに、靄の密度が増す。石畳の亀裂からも黒い糸のようなものが這い出していて、まるで地面そのものが呼吸しているようだった。カイは喉がひりつくのを覚え、剣の柄に自然と手を置いた。


 この光景……知っている気がする。

 胸の奥に、ふと浮かんだ既視感。

 廃墟となった教会、誰かが祈っている声。けれど、その場で剣を握っていたのは自分ではなかった。背中を追い、ただ怯えて袖をつまんでいた――そんな曖昧な記憶。

 まただ。俺はここで、別の立場にいた。


 教会の扉は開きっぱなしで、軋んだ音を立てて揺れている。

 その奥に、小さな影がうずくまっていた。


「誰か……」

 震える声。カイたちが近づくと、それは十六ほどの少女だった。白い法衣は泥に汚れ、両手を固く合わせて祈っている。青白い顔に汗が滲み、肩が小刻みに震えていた。


「……助けて、ください……でも……怖くて……」


  言葉が途切れた瞬間、床から黒い影がずるりと現れた。

 人の形を歪めた異形が三体。腕は骨のない布切れのようで、爪は長く、引っかくたびに床石を削り火花を散らす。黒い靄が金属の錆びた匂いを漂わせ、教会の中に満ちていく。


「来る!」ガイルが大剣を抜き、前に立つ。

 ヴァルドはナイフを指の間で回し、影の動きを射抜くように目を細めた。

 ミルトは腰の袋を漁り、慌てた声で言う。「ひっ、ひどい歓迎だな! ま、まあ“あとで”役立つものが――あった!」


 丸い筒を引き抜き、慌てて火を移す。

「目を瞑って!」

 投げ込まれた閃光玉が白い稲妻を裂き、広間を一瞬昼に変えた。


 異形が呻き、赤い目を覆うようにのたうつ。

「今だ!」ガイルが踏み込み、大剣で一体を真っ二つにした。石床が揺れ、破片が飛ぶ。


 カイは左から回り込み、もう一体の肩へ刃を置く。肉はぬめりとした抵抗を見せたが、力を預けると自ら裂けていった。黒い血が飛び散り、頬を濡らす。


「うわっ! や、やめろ!」ミルトが慌てて音玉を投げ込む。

 爆ぜる高音が広間を叩き、最後の一体の動きが鈍る。

 すかさずヴァルドのナイフが眉間を射抜き、影はぐらりと崩れた。


 戦いが終わったわけではなかった。

 広間の奥からさらに靄が押し出され、影の残骸を覆い隠すように渦巻く。瘴に汚れた風が唸り、石壁の聖像を侵食していく。


 ――その時だった。


「靄を…散らし続けて…ください…、私の祈りが、届くように…」


彼女が本を開くと、風の流れが一瞬だけ変わる。古代語の響きが石畳に沁み込み、耳には理解できないのに胸の奥に訴えかけてきた。言葉は縫い針であり、声は糸。世界をもう一度織り直すための作業が始まっていた。

 祈っていた少女の周囲に淡い光が舞い上がった。粒は花びらのように広がり、仲間たちの体を包み込む。

 カイの腕の切り傷がじんわりと熱を帯び、痛みが和らぐ。

「これ……癒やしだ」

「……すごい」ミアが息を呑む。


 少女は涙を流しながらも、必死に手を合わせ続けていた。恐怖に震えながら、それでも祈りをやめない。その姿は儚げで、それでいて強かった。


 やがて最後の異形をカイが斬り払った時、教会は静まり返った。

 少女は膝をつき、肩で息をしていた。


「大丈夫か?」カイが声をかけると、彼女は顔を上げた。

「わたし……エリナ。逃げることもできなくて……でも、祈ることしかできなくて……」


 ミルトが笑みを浮かべて近寄る。「いやいや、その祈りで助かったんだ。ありがたいお布施だと思ってくれ!」

 ヴァルドは皮肉げに口を歪めた。「英雄様も助けてもらったな」


 ――英雄様。


 その言葉に、カイの胸が刺された。仲間の視線が自然と彼に向く。ミアの袖が静かに震えた。


「……俺は英雄じゃない」

 カイははっきり言った。

「英雄なんて呼ばないでくれ。俺は……俺はカイだ。名前で呼んでほしい」


 沈黙が広がる。

 ミアが袖をつまみ、小さく頷いた。「……うん。カイ」

 ガイルは短く、「了解した、カイ」と答える。

 ヴァルドは肩をすくめて笑い、「まあ、英雄様よりは呼びやすいな」と言った。

 ミルトも安心したように笑い、「英雄よりカイの方が商談しやすいよ!」と冗談めかした。


 エリナは祈りの手を胸に当て、小さく微笑んだ。

「……カイさん。わたしも、呼んでいいですか?」

「もちろんだ」


 その瞬間、胸のざわめきが一拍だけ静まった。

 けれど心の奥には、まだ別の拍が残っている。――前のループで、英雄と呼ばれていたのは本当に自分だったのか?


 カイは視線を教会の窓に向ける。黒い靄は晴れたが、夜は必ずまた訪れる。

「進もう。まだ答えは遠い」


 仲間は頷き、エリナも震える足で立ち上がった。

 祈りは怯えの向こうにあった。

 そしてその祈りは、確かに彼らを一つにしたのだった。

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