第29話 古都の不協和音
京都駅で新幹線を降りて、在来線に乗り換えて奈良へ。さらに駅からバスへ乗り込み、最初の目的地である東大寺に着いた頃には、もう昼近かった。
「うわーっ! でっけえな、南大門!」
目の前に現れた巨大な門を見上げ、良樹は思わず声を上げた。教科書で見たことはあったけれど、実物は想像以上の迫力だった。
しかし、その感動を分かち合おうと隣を見ても、誰も彼の興奮に応えてはくれなかった。
藤原は「あの金剛力士像は運慶・快慶が中心となって……」と、しおりに書かれた説明を真面目に読み上げ、志保は……。
「ねえ、すごいね!」
「うん、すごい……なんか、圧倒されちゃうね」
志保は良樹ではなく、美咲の袖をそっと引きながら小さな声でそう呟いた。
大仏殿の中は、ひんやりとした空気に満ちていた。見上げるほど巨大な盧舎那仏像。その荘厳な姿の前に立てば、自分の悩み事がちっぽけなものに思えてくる……なんてことは全くなく、四人の間の気まずい空気は、大仏の慈悲をもってしても、和らぐことはなかった。
「すごい迫力だね。写真で見るのとは、全然違う」
藤原が、感心したように呟く。
「そうだね。本当に大きい……神々しいっていうか、あ、仏様だから神々しいはおかしいのかな?」
志保が目の前の大仏を見上げながら、そう言った。その横顔を藤原が、どこか切なげな、しかし、慈しむような優しい目で見つめていることに良樹は気づいてしまった。
そして、そんな藤原の視線に気づいた美咲が、眉をひそめながら鋭い視線を良樹へと突き刺してくる。
(……なんだよ、この空気は!)
たまらなくなった良樹は、一人その場から逃げるように、足早に離れた。
昼食は、班ごとに決められた店での釜飯だった。四人掛けのテーブルで、黙々と箸を動かす。会話の口火を切ったのは、やはりこのグループの良心である藤原だった。
「午後は法隆寺だけど、その前に少し時間があるみたいだね。どこか、寄りたいところはあるかな?」
「あたし、鹿せんべいあげたい!」
美咲が、努めて明るい声でそう言った。
「いいんじゃないか。俺も鹿、見てえし」
良樹が賛成すると、藤原は、当然のように志保へと視線を移した。
「槇原さんは、どうかな?」
「……うん。私も、鹿、見たいな」
志保がそう言うと、藤原は、本当に嬉しそうに「決まりだね」と笑った。
その、あまりにも自然なやり取り。まるで、自分がそこにいないかのように進んでいく会話。
(……なんだよ、それ)
無性に、イライラする。ムカムカする。
藤原が、志保の意見を尊重するのは、当たり前のことだ。わかっている。だが、その**「当たり前」**が、今の良樹には自分のテリトリーを侵されているかのように感じられて、どうにもこうにも不快だった。
店を出ると、ちょうど鹿の群れが目の前を通り過ぎていった。美咲は「うわ、めっちゃいる!」と、子供のようにはしゃいでいる。
「槇原さんも、やってみたら?」
藤原が、売店で買ってきた鹿せんべいを一枚、志保に差し出した。
「え、いいの?」
「うん。ほら、怖くないから」
志保がおずおずとせんべいを受け取ると、一頭の子鹿がそれに気づいて、クリクリした黒い瞳で近寄ってきた。
志保は、最初は少しだけ怖がっていたが、子鹿がおとなしくせんべいを食べる様子に、ふわりと花のつぼみが開くようにその表情を和らげた。
「……かわいい」
それは、久しぶりに見る、志保の心からの笑顔だった。
良樹が知っている、でも、ずいぶん長い間、見ていなかった笑顔。その笑顔を見た瞬間、良樹の胸の奥が、チクリと、鋭く痛んだ。
なぜだか、わからない。
でも、志保のこの笑顔が、自分ではない別の男によって引き出されたものだという事実。それが無性に、どうしようもなく、腹立たしかった。
(……あれ?)
不意に、良樹は思った。
午後の陽に照らされた、志保の横顔。子鹿を見つめる、優しい瞳。少しだけはにかむように緩んだ、唇の形。
(あいつ……こんな可愛い顔、してたっけ……?)
それは彼が、生まれて初めて槇原志保という少女を、一人の女の子として明確に意識した瞬間だった。
「……何ボサッとしてんのよ、川島」
いつの間にか隣に来ていた美咲が、良樹の脇腹を肘でつついた。その目は、全く笑っていない。
「アンタの役目はね、とっくに他の誰かがやってるのよ。もういい加減、気づいたら?」
そのナイフのように冷たい言葉の意味を、良樹は、まだ完全には理解できなかった。
ただ志保と藤原と、そして子鹿が作り出す穏やかで完璧な、自分の入り込む隙間がどこにもない光景を呆然と眺めていることしかできなかった。
一日の見学を終え、良樹たちはホテルへと戻った。一日中歩き回って、身体は鉛のように重かった。
「じゃあ、また夕食の時に」
藤原がそう言って、男子の部屋の方へ消えていく。
「志保、部屋行こ」
美咲が志保の腕を引いて、女子の部屋へ向かおうとした、その時だった。
「あ、槇原さん」
一人の男子が、少し照れたように志保に声をかけた。良樹も知っている、別のクラスの爽やかで人気のある男だ。
「もしよかったら、この後、売店とか一緒に見に行かない?」
「え……」
志保が戸惑っていると、美咲がまるでガードマンのように、すかさず前に出た。
「ごめん、志保は疲れてるから。また今度にしてくれる?」
そう言ってピシャリと断り、志保を連れてさっさと行ってしまった。
その一部始終を、良樹は、少し離れた場所から、見ていた。
(……江藤が言ってたこと、本当だったんだな)
美咲が言っていたことは本当だったのだ。
自分以外の男が、当たり前のように彼女を誘う光景を目の当たりにした瞬間、昼間に感じた胸の痛みとはまた違う種類の、もっと黒くてザラザラした何かが、腹の底からゆっくり湧き上がってくるのを良樹は感じていた。
それは、自分の宝物が知らない誰かに土足で踏み荒らされるのを見ているかのような、不快で、そして暴力的な感情だった。
「川島くーん! お疲れ様ー!」
渡辺が、ニコニコしながら駆け寄ってくる。
「今日の夜、部屋に来てくれるよね? 待ってるから!」
「……お、おう。絶対、行くよ」
渡辺が、目の前にいるのに。カノジョが、自分だけを見てくれているのに。それなのに良樹の頭の中は、さっきの光景でいっぱいだった。
楽しくなるはずだった修学旅行の初日。
それは良樹がこれまで一度も知らなかった、自分自身の醜い独占欲を無理やり抉り出されるだけの、最悪の一日だった。
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