第26話 修学旅行前夜

 志保は少々浮かれていた。理由は他でもない、修学旅行で良樹と同じグループになったからだ。

(神様っているんだな)

 彼女はくじ引きでグループ分けが決まった時に、本気でそう思った。

 志保と良樹との接点は、この頃にはもうほとんど無くなっていた。以前はいつも一緒だった学校への行き帰りも、朝は先に行ってしまうし帰りも途中までは渡辺と一緒に帰ってくる。そして帰って来てから着替えて、また2人で遊びに行ったりしているようだ。

 学校でも、同じクラスなのに話すことはほとんどなくなってしまった。

(だって、よしくんはいつも渡辺さんと話してるから……)

 もちろん挨拶程度に二言三言は喋るけれど、ただそれだけだ。

(今から思うと、秋祭りの時は夢みたいだったなぁ)

 帰り道でバッタリ出くわしたあの夜。あの夜だけが特別だった。

 いま、良樹の隣りにはいつも渡辺がいる。ちょっと前までその場所に居たのは間違いなく彼女だったのに、今ではそこに自分が入り込むスキなんて全然無い。あれほど近い存在だった良樹が、もう手の届かない遠いところに行ってしまったような、そんな寂しさで志保の胸は一杯になっていた。それは藤原との仲を深めつつある今も完全には消すことのできない、心の奥底に灯っている小さな火だ。


 ――それが修学旅行で同じグループなんだもん。神様、本当にありがとう!



 グループ分けが決まってから修学旅行までの間、クラス全体がどこか浮き足立った空気に包まれていた。授業中も先生の目を盗んでは小声で旅の計画を話し合ったり、しおりの地図を眺めたりしている者がそこかしこにいた。

 もちろん良樹たちのグループも例外ではない。昼休みになると藤原がテキパキと仕切って、見学コースの計画を立て始める。

 皆の手元には先生たちが作った修学旅行のしおりがある。ペラペラの安っぽい紙をホッチキスで綴じただけのものだが、それが今の志保には、未来からの招待状のように輝いて見えていた。

「初日は奈良だから、東大寺と法隆寺は外せないと思うんだ。移動時間を考えると、この2か所に絞るのが現実的だと思うんだけど、どうかな?」

 藤原は、地図と時刻表を広げながら、真面目な顔で皆に問いかける。

「俺はそれでいいぜ。藤原に任せるよ」

 良樹がそう答えると、美咲がすかさずチクリと釘を刺してきた。

「川島はそれでいいだろうけどさぁ、志保はどうなの?  どこか行きたいところとかある?」

「う、うん。私も、それでいいと思う。東大寺の大仏さま、見てみたいし」

 志保は良樹の顔を一度も見ず、美咲にだけ話しかけるようにそう答えた。その声は小さくて、本当に楽しみにしてるのかどうかよくわからない。藤原はそんな志保の様子を、少しだけ心配そうな目で見ている。

 「槇原さん、もし行きたいところがあるなら遠慮せずに言ってよ。そのための話し合いなんだし、自由時間だってあるんだしさ」

「うん、ありがとう。そうするね」

 志保は、そう言って微笑んだ。その笑顔が誰に向けられたものなのか良樹にはわからない。ただ、最近藤原と志保が妙に仲が良いことだけは、彼の目にも明らかだった。

(……なんだかなぁ)

 ああ、くそ。それにしても、やっぱり面倒くせえ。良樹は内心でそう毒づいた。

(たった数分の話し合いでさえ、この息苦しさだ。江藤はいちいち俺に噛みついてくるし、志保は俺と目を合わせないし、藤原はまるで志保の保護者みたいに振る舞っているし……)

 これが、修学旅行の最終日まで続くのかと思うと、良樹は胃がキリリと痛むのを感じた。

(渡辺と同じ班だったら、今頃どんだけ楽しかっただろうなぁ……)

 良樹は、一人、そんな不満を心の中で募らせていた。

 しかし、彼だけが、気づいていなかった。この息苦しさの原因が、自分自身にあることにも、美咲の棘が親友を想うがゆえの怒りであることにも。そして藤原の気遣いが、答えを待つ男の痛切なまでの優しさであることにも。

 そして何より、志保が広げている、あのしおり。それが彼女にとって未来からの招待状のように輝いて見えていることなど、良樹が気づくはずもなかった。

 

 出発前夜、良樹は自分の部屋で荷造りをしていた。と言っても、着替えやら何やらをただボストンバッグに詰め込んでいるだけだ。

 隣の部屋からは、志保と瑞樹の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。瑞樹は自分が行くわけでもないのに、姉の旅行が楽しみで仕方ないらしい。

「志保ねえ、お土産忘れないでね!  八つ橋がいい!」

「はいはい、わかってるよぉ。美味しいの買ってくるからね」

 楽しそうな志保の声がする。昼間のあの沈んだ声とは全然違う。

(俺といる時とそうじゃない時、どうしてこんなに違うんだろう)

 美咲の「アンタのその無自覚さが、一番あの子を傷つけてるんだよ」という言葉が、不意に良樹の頭をよぎった。

(……俺が、志保を傷つけてる?)

 意味がわからない。自分はただ、渡辺を好きになって、付き合っているだけだ。それがどうして志保を傷つけることになるんだろう。

「……わけわかんねえ」

 良樹はTシャツをバッグに叩きつけるように押し込み、無理やり思考を打ち切った。そうだ、渡辺のことを考えよう。夜、部屋へ遊びに行く約束のこと。それだけを考えればいいさ。


 修学旅行の前日、志保が部屋で荷造りをしていると、瑞樹が「志保ねえ、髪の毛乾かしてぇ」と言ってドライヤー片手に部屋へ入ってきた。

「志保ねえ、明日から修学旅行だね。楽しみ?」

「うん、そうだね。京都も奈良も初めてだから楽しみだなぁ」

「新幹線で行くんでしょ? いいなぁ、私も新幹線乗ってみたい!」

「瑞樹ちゃんも中学生になったら修学旅行で乗れるよ。それまで我慢だね」

「志保ねえ、お土産忘れないでね! 八つ橋がいい!」

「はいはい、わかってるよ。美味しいの買ってくるからね」

 瑞樹の乾かした髪をクシで梳かしてあげていると、薫子が「あらあら、2人とも楽しそうね」と言いながら部屋に入ってきた。

「志保ちゃん、準備は終わったの?」

「はい、もうほとんど終わってます」

 薫子は志保のバッグの中を覗き込んで「ハンカチは?  ティッシュは入れた? 忘れてるものはない?」と矢継ぎ早に問いかけた。それはまさに娘を心配するお母さんそのものだった。

「大丈夫ですよ。ちゃんとリストを見ながら入れましたから」

 志保がそう言うと薫子は「そう。それなら大丈夫ね」と言って、それからふいに真面目な顔になった。

 「……良樹と、同じ班なのよね?」

 その名前が出た時、志保は一瞬身体がピクッと強張った。

 「……はい」

 「あの子。最近少しどうかしてるから。もし何かイヤなことがあったら我慢しないで、江藤さんや先生にちゃんと言うのよ? あなたは、もう何も我慢しなくていいんだからね」

 薫子はそれ以上何も言わないで、黙ってただ志保の頭を優しく撫でてくれた。その手の温かさに、志保はちょっとだけ泣きそうになった。

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