第19話 初めてのデート

 「槙原さん、あの、槙原さんは映画とか見たりする?」

 ある日、藤原が志保にそう尋ねた。

 映画はもちろん見たことがある。近所の映画館に何回か見に行ったことがあるし、電車で新宿まで行って見たこともある。ただ、それほど好きというほどでもないので回数は大したことがなかった。

「うーん、キライじゃあないけど、それほど好きっていうほどでもないかなぁ。どうして?」

「あー、いや、実は映画の無料招待券を貰ったんだ。それが2枚あってさ。だから、よかったら一緒に行かない? って誘おうと思ったんだけど」

「えっ!? それって……」

 言いかけてから志保は慌てて口を閉じた。

(それって、もしかしてデートっていうものなんじゃ?)

 藤原は自分にそういった感情を持っているのだろうか? 志保は、どう返事をすればいいか考え込んだ。

「あ、いやその、そんな大層なもんじゃなくってさ。1人で観るのも味気ないっていうか、誰かと観るほうがより楽しめるっていうか、その、せっかく2枚貰ったから無駄にするのも勿体無い気がするしさ。だからその、どうかな?」

 良樹以外の男の子と2人っきりで遊びに出かけたことなんて、もちろん一度もない。ただ、良樹とも遠くへ遊びに行ったわけではないし、映画だって見に行ったことはなかった。

(どうしようかな……)

 藤原のことがキライなわけではないけれど、だからといって2人きりで遊びに行くほど仲が良いわけではない。少なくとも今はまだ。

(でもせっかく誘ってくれているのを断るのも悪い気がするし、それに気が紛れるかもしれないし、でもデートなんてちょっと恥かしい気もするし。でも、でも、でも……)

 志保が返事に困っていると感じたのか、藤原は慌てて言葉を繋いだ。

「あ、いや、別に気乗りしないんだったら無理に付き合ってくれなくてもいいんだ。ゴメンね、無理言って」

 藤原はそう言って話を終わらせようとした。

「ううん、違うの。別にイヤなわけじゃないんだけど……ただ私、男の子と2人きりで遊びに行ったことないから、何だか緊張しちゃって」

「えっ? 川島くんと遊びに行ったりしてるんじゃないの?」

「よしくんと2人で出かけたことはあるけど、別に遠くに行ったわけじゃないし……」

 あらためて考えてみるとそうなのだ。良樹志保は一緒に買物へ行ったりはしたけれど、デートと言われるようなことはしたことがない。

(よしくんにとっての私って、どんな存在なんだろう)

 藤原が返事を待っているのが痛いほど伝わってくるけれど、志保はすぐに答えが出せなかった。

(一緒に映画を見に行くってことは、よしくんのことを少しだけ忘れるってことになっちゃうのかな? )

 でも、良樹はもう渡辺と……自分だけがずっと立ち止まっているのは、おかしいのかもしれない。そうも思える。

「うん、いいよ。一緒に映画、見に行きたい」

 志保は結局そう答えた。自分でも少し驚くくらい、その言葉はすんなりと口から出ていた。藤原は一瞬キョトンとした顔をした後、志保が今まで見たことがないくらい嬉しそうに、そしてはにかんだ笑顔を見せた。

「ほ、ほんと? よかった……断られるかと思った」

「ううん。私も、見てみたいって思ったから」

 それは半分本当で半分は自分に言い聞かせるためのウソだった。ただ、藤原の純粋な喜びように、志保の心も少しだけ軽くなった気がした。

 「じゃあ、今度の日曜日なんてどうかな?」

 具体的な話が進むにつれて、志保は自分の胸の中の重たい澱のようなものが、少しずつ溶けていくのを感じた。良樹のいない夏休み。何もすることがなく、ただ時間だけが過ぎていくと思っていたこの夏に、初めて「楽しみなこと」ができた瞬間だった。


 日曜日。志保は待ち合わせ時間より少しだけ早く駅に着いていた。クローゼットの奥から引っ張り出した、水色のワンピース。薫子に昔買ってもらったお気に入りで、袖を通すのは久しぶりだった。

 鏡の前で何度も髪を整えたのは、藤原にどう思われるかを意識したのもあるが、こんな風に誰かのために準備をする自分がなんだか新鮮で、少しだけ誇らしかったからかもしれない。

「槙原さん、ごめん、待った?」

 声のする方を見ると、藤原が少し息を切らしながら駆け寄ってくるところだった。彼はいつもの制服姿とは違う、白いシャツにベージュのパンツという出で立ちで、なんだか少し大人びて見えた。


 映画館の薄暗い空間で、隣に座る藤原の気配をすぐ近くに感じて、志保はまた少し緊張していた。良樹の隣りは、もう当たり前すぎて何も感じなかったのに。

 ふいに、ポップコーンを取ろうとした手が触れそうになって、心臓がドキリと跳ねる。慌てて手を引っ込めると、藤原が「ご、ごめん」と小さな声で謝った。そのやり取りが、なんだかおかしくて、恥ずかしくて、志保は俯いて小さく笑ってしまった。

 映画は、家族の絆を描いた感動的な物語だった。隣の藤原が、時々メガネの奥の涙をそっと拭っているのが横目に見えて、志保はなんだか微笑ましくなった。

(藤原くん、意外と涙もろいんだね……)

 

 映画が終わって、駅前のカフェでお茶をしながら感想を話し合っていると、時間はあっという間に過ぎていく。

「僕はあのお父さんの気持ち、少しわかる気がするな。不器用だけど、本当はすごく娘のことを想ってるっていう……」

「うん、私も。最後のシーン、すごく良かった。言葉にしなくても伝わるものって、あるんだね」

 藤原は、志保が気づかなかったような映画の細部までよく見ていて、彼の話を聞いているだけで、もう一度映画を楽しめているような気分になる。彼の穏やかな声、真剣な眼差し。その心地よさに身を委ねていると、胸の奥でずっと燻っていたモヤモヤとした痛みが、少しだけ和らいでいることに志保は気づいた。

(楽しい……。私、今、楽しいって思ってる)

 その時、彼女の頭の中に、良樹の顔はなかった。


 映画の感想を語る志保の笑顔は、図書館で見た時よりも、ずっと自然で、明るかったと藤原は思っていた。

 しかしその笑顔の奥に、時折ふっと影が差すことにも彼は気づいていた。それは、癒えきらない傷痕のように見えた。

(今は、これでいい。僕と一緒にいる時間だけでも、彼女が心から笑ってくれるなら……)

 彼は、彼女の心の奥の闇に、無理に踏み込もうとは思わなかった。ただ、この穏やかな時間が、少しでも長く続けばいいと、心から願うだけだった。


 藤原と駅で別れ、志保は少し浮き立つような気持ちで家のドアを開けた。もう夕暮れ時で、家の中は静かだ。

「ただいまー」

 居間を覗くと、寝転がって漫画を読んでいる良樹の姿が目に入った。

(珍しいな)

 いつもなら、この時間はまだ渡辺と一緒にいるはずなのに。

「おー、おかえり。遅いじゃん。どこほっつき歩いてたんだよ」

 良樹は、漫画から目を離さずに、ぶっきらぼうにそう言った。その、あまりにもいつも通りの口調に、志保の心臓がトクンと嫌な音を立てます。さっきまでの軽やかだった気持ちが、急速に重くなっていくのを感じた。

「……友達と、ちょっと出かけてたの」

 嘘はついていない。でも、「藤原くんと」という一番大事な部分を、志保は言えなかった。言ったら、このいつも通りの空気が壊れてしまうような気がして。

「ふーん。どうせ江藤とかとだろ?」

「……うん、まあね」

 悪意のない、決めつけ。良樹の中で、志保の交友関係はそこから少しも広がっていないようだ。それが当たり前で、疑うことすらない。その事実に、志保の胸の奥がチクリと痛んだ。

「今日は渡辺さんと一緒じゃなかったの?」

 聞きたくないのに、聞いてしまう。志保の声が少しだけ震えているのに、良樹は気づかない。

「あー? ああ。今日はアイツ、家の用事があるんだと。ったく、おかげでヒマ過ぎて死ぬかと思ったぜ」

 そう言って、良樹は初めて漫画から顔を上げて志保を見た。そして、ニッと笑って言う。

「ま、明日また会えるけどな」

 本当に屈託のない幸せそうな笑顔だった。さっきまで藤原と過ごしていた穏やかな時間も、映画の感動も、すべてが遠い昔の出来事のように色褪せていくのを感じる。

「そっか……良かったね」

 そう答えるのが精一杯だった。彼女は逃げるように居間を後にして、自分の部屋のドアを閉めた。楽しかったはずの一日。少しだけ前に一歩、進めたはずだったのに……。

(……ダメだ)

 ベッドに倒れ込みながら、志保は小さくため息をついた。

(よしくんの一言で、全部元に戻っちゃう……どうして?)

 楽しかったのに。本当に楽しかったのに。それはウソではないのに……。志保は出口の見えないトンネルの中を、ただ一人で歩いているような気分だった。

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