第12話 忘れられた約束
「ごめん志保! 今日、日直の仕事が残っててさ……ひとりで帰れる?」
帰り支度をしていた志保に、美咲がそう言って申し訳なさそうに手を合わせた。彼女は相変わらず志保が極力ひとりにならないように気を遣っていた。
「そうなんだ……ううん、気にしないで。うん、大丈夫だよ。ひとりで帰れるから」
作り笑顔で志保はそう言ったけれど、美咲が教室を出て行った瞬間に小さく息を吐いた。
(今日は、ホントにひとりぼっちかぁ……)
大丈夫なわけがなかった。ひとりで歩く通学路は、良樹と渡辺一美の楽しそうな幻がちらついて、胸が締め付けられるように痛い。二人が仲良さそうにクレープを食べていたところを見てしまったから。
「志保! 待って!」
志保がトボトボと校門を出たところで、後ろから声がした。振り返ると、美咲が小走りで追いついてきた。
「あれ? 美咲ちゃん? 日直は?」
「ジュースおごる約束で代わってもらった。やっぱりアンタを一人にしとけないもん」
わざと明るい声を出してそう言った美咲は、そのまま志保の隣に並んで歩きだした。
「それにしてもさ、川島のやつ、マジで鈍いよね。アンタがこんなに元気ないのに、全然気づかないんだから」
「……ううん、私が隠してるだけだから。よしくんは悪くないよ」
「アンタはすぐそうやって川島を庇うんだから……ねえ、前から聞きたかったんだけどさ」
美咲は少し歩調を緩めて、志保の顔をじっと見つめた。
「アンタって、いつからそんなに川島のこと好きだったの?」
そのあまりにも真っ直ぐな質問に対して、志保は言葉に詰まった。夕暮れの光が、美咲の真剣な横顔をオレンジ色に染めている。
(いつから……?)
それはひとつのきっかけじゃない。たくさんの、数え切れないくらいの「よしくんの優しさ」が降り積もって、志保の気持ちは形作られていったのだから。でも、今は話したくない。
「……そんなの、聞かないでよ」
「なんで?」
「だって……思い出すと、また苦しくなるから。美咲ちゃんに、そんな顔させたくないし……」
俯く志保の肩を、美咲はそっと掴んだ。
「志保、あのさ、アタシはアンタのことを親友だと思ってるよ。アンタはどう? アタシのことをどう思ってる?」
「そんなの……そんなの、私だって同じだよ! 私だって美咲ちゃんのことを親友だって思ってるよ! 当たり前じゃない!」
「ありがとう、でもね、だったらアンタが苦しいなら、アタシも半分もらう。楽しいことは倍になって、悲しいことは半分になる。それが親友だってアタシは思ってるよ」
「美咲ちゃん……」
「いいから話しなさい。アンタがどれだけあいつのこと大事に想ってきたか、アタシに全部教えて」
美咲の強い眼差しに、志保は小さく頷いた。
「……きっかけは、たくさんありすぎるかなぁ……」
志保はぽつりぽつりと、記憶の扉を開けていった。体育の授業で足を挫いた時、黙って自分をおんぶしてくれた小さくて温かい背中のこと。風邪で寝込んだ日、他に誰もいないからと慣れない手つきで一生懸命作ってくれた、ちょっとしょっぱいお粥のこと。逆上がりができなくて泣きそうだった自分に一生懸命教えてくれて、出来るまで練習に付き合ってくれた放課後のこと。まだまだいっぱいある。
「それ、全部覚えてるんだ……」
「うん。だって、全部私の宝物だから……」
けれど志保は、まだ一番大きな出来事を話していなかった。彼女の心を本当に救ってくれた、あの日のことを。
「でもね、私が本当によしくんを好きになったのは……たぶん、あの日からかなぁ」
志保は、転校して間もない頃にクラスの男の子たちから意地悪をされた日のことを話した。親がいないことをからかわれ、侮辱され、それでも俯いて唇を噛み締めることしかできなかった彼女の前に、颯爽とヒーローが立ちはだかってくれたことを。
あの日の放課後の空気も、志保は今でも鮮やかに思い出せる。少し埃っぽい教室の匂い。ハラハラしながら成り行きを見守る同級生たちの視線。そして自分の心を抉る、同級生の無邪気で残酷な言葉のナイフ。
「親がいないのは、別に槇原のせいじゃないだろ! そんなくだらねえことでコイツをイジメるなら、俺が黙ってねえぞ! って、ものすごい勢いで怒ってくれたの」
「川島って、そういうところは漢なんだよねぇ」
「私ね、その頃はよしくんのことが怖かったんだよね」
「怖かった? なんで?」
「だって、他の人たちは私を凄く歓迎してくれたのに、よしくんだけはそうじゃないように見えたから……」
「あー、もともとぶっきらぼうなヤツだもんね」
「でも違った。その出来事のあと、よしくんはね、オレがオマエを守ってやる。それが父さんとの約束だしな。だから俺もオマエに約束するよって、そう言ってくれたの。やっぱりぶっきらぼうだったけど、よしくんの顔は真っ赤だったから照れているのがすぐにわかったよ。よしくんはね、自分が悪者になっても私の心を守ろうとしてくれたの。その不器用な優しさが、凍てついていたあの頃の私の心をゆっくりと溶かしてくれたの」
「……志保」
志保の声が震え始めていることに美咲は気づいた。
「その時だけじゃないの。それからも私に何かあると、何度もかばってくれて守ってくれて。相手が上級生でも全然怯まなくって、やり過ぎだってお父さんに怒られても変わらなくて……それは私との約束だからなんだなって思ってた……」
美咲は何も言えなかった。話を聞いていて、志保があまりにも痛々しく思えて、なんて言えばいいのかわからなかった。
「俺もオマエに約束するよって言ってくれた、あの言葉がね、私にはお守りだったんだ。よしくんが隣りにいてくれるだけで、私は強くなれたの。でも……でも、その約束も、よしくんはもう……忘れちゃったのかな……」
そこまで話した時、ずっと堪えていた志保の感情の堰が、静かに決壊した。視界が滲んで、夕暮れの商店街の明かりがぼやけて揺れる。一粒、また一粒と、熱い雫が頬を伝って、アスファルトに小さな染みを作っていく。
「……ご、ごめん、美咲ちゃ……私、泣く、つもりじゃ……」
志保の言葉が途切れる。彼女は嗚咽を漏らさないように、必死で唇を噛んだ。だが、それでも涙は止まってくれなかった。良樹が隣りにいない寂しさ。約束を失ってしまった悲しさ。自分の隣りで笑う彼の顔を思い出す苦しさ。全部がごちゃ混ぜになって、胸の中で渦を巻いていた。
「……志保」
美咲は何も言わず、志保の肩を強く抱きしめた。腕の中で震える親友の身体は、あまりにも小さく華奢で、そして儚く感じられた。
「美咲ちゃん……」
美咲のその温かさが、かえって涙を誘う。志保は美咲の胸に顔をうずめて、声を殺して泣いた。
どれくらいそうしていただろう。美咲は志保の背中を優しくさすりながら、静かに、けれど氷のように冷たい声で呟いた。
「……もう、いいよ。もう十分だから」
志保が顔を上げると、美咲は泣いている自分とは対照的に、驚くほど冷静な顔をしていた。だがその瞳の奥には、静かで、燃えるような怒りの炎が宿っていた。それは大切な親友を傷つけられたことに対する、紛れもない怒りだった。
(こんなの、こんなの許せないよ)
志保が語ってくれた思い出のひとつひとつは、彼女にとって本当にキラキラとした宝物なのだろう。おんぶ、お粥、逆上がりの練習。そして自分の身を挺して何度も彼女を守った、幼いヒーローとの約束。
(川島は、それを全部忘れちゃったの? 渡辺さんと二人で、志保のかけがえのない宝物を踏みにじろうとしているの?)
そんなこと、美咲には絶対許せなかった。
(どうしてこんな良いコが、こんな目にあわなきゃいけないのよ!)
おせっかいなのは重々承知。けれど、親友のこんな姿を見せられて黙っていられる自分ではない。良樹も渡辺も許せない。美咲は再び行動することを決意したのだった。
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