第1話 良樹と志保
「……ったく、お前はまた荷物多いな。ほら、半分持ってやるよ」
ぶっきらぼうな声と一緒に、右手がふっと軽くなった。見ると隣を歩く良樹が、志保のスクールバッグの持ち手をひょいと掴んでいた。ひとつのバッグを2人で持つ、なんだかヘンテコな格好だ。
「え、いいよ! 重くないから大丈夫!」
「嘘つけ。さっきからフラフラしてんじゃねえか。いいから黙って歩け」
有無を言わせない、いつもの口調。良樹の大きな手に、志保の小さな手が触れそうになる。慌てて持ち手を握り直すと、夕暮れのオレンジ色が良樹の少し茶色がかった髪をキラキラと照らした。
「……ねえ、よしくん」
「あん?」
「私、今日の古文の小テスト、ひどかったんだ……」
「知ってる。オマエ、答案用紙返された時すげえ顔してたからな。この世の終わりみたいな顔してたぜ」
「もぉ、よしくん、ひどい!」
口をとがらせてむくれる志保に、良樹が背中を揺らして笑う。
「別にいいだろ、それくらい。オマエ、他はできんだからさ」
「でも……」
「でもじゃねーって。たまにテストが悪かったくらいで、父さんも母さんも怒りゃしねえよ」
「それは、そうだけど……」
「んなことより、車道側歩くんじゃねえよ。歩道側歩けよ、歩道側」
そう言って良樹は身体をスッと入れ替えて、自分が車道側を歩くようにした。
「……あ」
まただ、と志保は思った。二人で歩く時、彼はいつもこうやって、当たり前のように自分を歩道側にしてくれる。いつもそう。初めて会った小学生の頃から、それは全く変わらない。
「ねえ、よしくん……これって樹さん――お父さんに言われたの?」
前から一度聞こうと思っていたことを聞いてみた。良樹の眉がわずかにピクリと動く。
「……別に。父さんが母さんと歩く時、いつもそうだからさ」
ポツリと、まるで独り言のように小さな声。
「誰に言われたわけでもねえし、そういうもんだと思ってただけだよ。ずっとそうやってきたから、今じゃもう隣りが誰でも、自分が車道側にいねえと落ち着かねえんだ」
その言葉を聞いた瞬間、志保の脳裏に、遠い日の光景が音と匂いを伴って蘇った。
ざらりとしたアスファルトの匂い。私よりずっと大きな、お母さんの手の柔らかさ。そして、もっともっと大きくてゴツゴ-ツしていた、お父さんの手。
いつも私の右手はお母さんと、左手はお父さんと繋がっていた。お父さんは必ず車道側を歩いて、大きなトラックが通り過ぎる時には「危ないよ」という低い声と一緒に、力強い腕で私の肩をぐっと引き寄せてくれた。あの手の温かさとお父さんのコートの匂い。あの絶対的な安心感を、今も覚えている……。
「……そっか」
気がつくと志保はバッグの持ち手を、指先に力を込めて握りしめていた。爪が白くなるくらい強く。良樹の指先の熱が伝わってくる気がする。
「志保? どうかしたか?」
声が震えていたのに気づいたのか、良樹が少しだけ訝しげに志保を見た。その瞳は、夕日を浴びてなんだか少し大人びて見える。
「ううん、なんでもない。バッグ、重いでしょ? ありがとう」
よしくん、ありがとう。いつも私を守ってくれてありがとう。自分の心の冷たい奥底で膝を抱えていたあの頃の私を、よしくんは光の中に連れ出してくれたよね。
あの頃からアナタの優しさは変わらない。よしくんの背中はずっと大きくなったけれど、この不器用な優しさは変わらないまま。
自分のこの気持ちがラヴなのかライクなのか、それはまだわからない。けれど、この温かい場所が今の彼女の総てだということだけは確かだった。もう二度と失いたくない、大切な場所……。
「ただいまー」
2人が玄関のドアを開けると、キッチンからパチパチと何かを炒める小気味好い音と、食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってきた。
「おかえりなさい、良樹、志保ちゃん。すぐにご飯にするから待っていてね。先に手を洗って着替えてらっしゃい」
ひょっこり顔を出したのは薫子、良樹の母親だ。その声は、いつも優しい。
ダイニングに行くと、良樹の父親である樹と、兄である竜樹がいた。妹の瑞樹は薫子の手伝いをしている。
(樹さんも竜樹さんも帰ってるなんて、珍しいなぁ)
樹は中学校の体育教師で忙しいし、竜樹は高校のバスケ部所属なので練習練習に明け暮れていて、毎日朝は早いし帰りは遅い。どちらかが早く帰っていることはあっても、二人揃っているのはそうそうあることではない。
「竜樹さん、今日は練習ないんですか?」
志保がそう尋ねると竜樹は「え? ああ、まあ、色々あってな」と、目を泳がせながら口ごもって曖昧に答えた。
(なんだか歯切れが悪いなぁ……どうしたんだろ)
志保の疑問の答えは、瑞樹が教えてくれた。
「竜にいはねぇ、今日のテストで赤点だったから、罰として練習を禁止されたんだって」
「バッ……瑞樹、オマエ、言うなって約束したろ」
「なんだ、兄貴もか。よかったな志保。テストが悪かったのは、オマエだけじゃなかったじゃん」
「ちょっと、よしくん!」
「お、なんだ、志保もテストの点悪かったのか? 俺と一緒だな」
「もお、よしくんったらぁ。なんでみんなに言うのぉ?」
志保の抗議の声も、すぐにみんなの楽しそうな笑い声に溶けていく。自分もその輪の中に入れていることが、志保は本当に心から嬉しい。
「志保ちゃんがテストの点数が悪いなんて珍しいな。良樹ならともかく」
「父さん、うるさいし!」
「だいたい志保ねえの悪い点数が、良にいの最高点数だもんね~」
「うっせぇよ」
みんなのやり取りを聞きながら、自分は本当にこの家のコになれて幸せだと志保は思う。
川島家のみんなと彼女は、いつもこんな感じだった。みんな、まるで本当の兄弟姉妹、そして娘みたいに彼女には優しく接してくれる。
楽しそうなやり取りを聞きながら、志保はそっと自分の手のひらを見つめた。この身体に、この人たちと同じ血は流れていない。
(……私だけが、このステキな人たちと血が繋がっていないんだ)
顔を上げると、彼女を輪の中に引き戻そうとするように、薫子が優しく微笑みかけた。胸の奥がきゅうっと締め付けられて、なんだか泣きたくなる。胸をよぎった小さな痛みを打ち消すように、志保は笑い声の輪に意識を戻した。
今の彼女は本当に幸せだった。だから、もう失いたくない。この場所が、この幸せが永遠に続きますようにと、志保はただそれだけを願っている。
だから彼女は笑った。
あまりにも幸せ過ぎて、少しだけ怖くなるほどの毎日を過ごす志保。
だが、そんな彼女の心の奥底で、もう一人の自分が囁いている。
こんなに完璧な幸せが、ずっと続くわけないよ……と。
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