第17話 アキラの応援
中休みのチャイムが鳴って、教室の空気がふっと緩む。
アキラが袖を引っ張って、小声で言った。
「よし……行く。『おはよう』だけ言って撤退、だよな?」
「うん。斜め四十五度、通路側から。逃げ道は相手に残して、声は一段下げる」
「軍師かよ」
「朝の挨拶は誰の権利でもある。がんばれ」
桐谷瑞稀は前列の窓側、プリントをそろえている。
委員長でもあるので、先生が仕事を頼みやすい席に座っていた。
通路は一本。いける。俺とアキラは回りこむ。
アキラの肩が少し上がっているのを、肘でコツンと落とす。
「力抜け」
「お、おう」
あと三歩、というところで、横から割り込む影。
「よう瑞稀、さっきの現代文、比喩のとこ俺がって、あ?」
岡部快。椅子の背に片肘をかけて、通路に体を張り出す。声が大きい。空気が一段、固くなる。
アキラの足が止まった。
「なに、用?」
「いや、用ってほどでもないけどってか、そこの君ら、瑞稀は男が苦手だからさ。近づくなら気ィつけて。びっくりさせんなよ?」
声が大きくて、教室の視線がじわっと集まる。
アキラが一瞬、引きそうになるのがわかる。ここで引いたら、たぶん次がなくなる。
僕は一歩だけ前に出て、岡部の真正面ではなく、半身で通路側に立つ。塞がない位置。
「挨拶だけだよ。通ります」
「いやだから、瑞稀は」
「本人のことは本人が決めればいいさ。通路に体を張るのは、やめような。岡部」
声は低く、短く。押し合いにならないように、言葉だけで肩を少しずらさせる。
そこで、ひらっと明るい匂いが近づいた。
「瑞稀、プリントそれ? ……あ、無形くんだ」
三浦結愛が横から滑り込む。くるっとこちらを見て、笑う。
「昨日ありがとね、無形くん。瑞稀に用かな?」
「うん。ありがとう。三浦さん」
三浦さんが現れてくれたことで、空気が少しだけ和らぐ。
岡部が「は?」と眉を上げたところに、日野さんが岡部を排除してくれる。
「通路、塞ぐな快。はいどいて」
岡部の肘をぽん、と指で押し、半歩分だけ位置をずらさせる。強くはない。でも、押す場所がうまい。
僕はアキラの脇を突いた。
「きっ、桐谷さん、おはよう」
「……うん、おはよう。高藤くん。それに無形くんも」
「ああ、おはよう。桐谷さん」
桐谷瑞稀が顔を上げる。視線がアキラと僕に向けられる。
アキラの挨拶は届いた。
「よし、撤退」
「撤退すんなって。次は天気の話でも」
「今日は一つで十分。一点突破」
僕が小声で止めると、桐谷さんがプリントを差し出してきた。
「これ持っていってくれるかな?」
「え、あ……ありがと」
アキラの声がワントーン上がる。悪くない。
「いやいやいや、瑞稀は!」
岡部がまた口を挟もうとした瞬間、三浦さんがくるっと振り向いて、笑顔のまま言う。
「快、苦手だからの盾、もう古いよ。瑞稀は、うるさい囲い込みが苦手なの。別に挨拶は嫌じゃないよ」
「誰がうるさいだと?」
「声量の話。ほら、内声で話して。ね?」
日野さんが「はい、インサイドボイス」と子どもに言うみたいに指を立てる。
岡部がむっとして口を結ぶ。声は本当に一段下がった。素直だ。
桐谷さんが困ったように笑って、こくりと頷いた。
「ありがと、結愛、明日香。高藤くん、またね」
「う、うん! また!」
アキラはぎこちなくも手を振る。「撤退」のタイミングを逃さず、俺は肩を叩いて通路を開ける。
岡部は舌打ちしかけて、日野さんに視線だけで止められていた。
「快、ゴーホーム下がれ。ライン踏んでる」
「……ちっ」
通路が戻る。ざわめきも戻る。
席に戻る途中、三浦さんが俺の耳元で小さく言った。
「ナイスカバー、無形くん。ああいう、友情見せられる。悪くないよ」
「本人の口を塞ぐのは、よくない」
「だよね。瑞稀、男の子が全部苦手なわけじゃないから。状況と相手によるの。じゃ、お礼はまた今度」
日野さんも拳を軽くコツンとしてくる。
「無形くんのそういうとこいいね」
「そうかな?」
「うん。見てたら楽しくなっちゃった」
冗談めかして言って、二人はそれぞれの席へ散った。
机に腰を下ろすと、アキラが椅子の背にもたれて、天井を見上げたまま息を吐いた。
「……今の、夢じゃないよな」
「現実だ。挨拶できただろ?」
「ああ……でも、世界がちょっと明るいわ。あぶね、俺、今ならポエム書ける」
「やめろ」
笑いながら、視線を前に戻す。
窓際の瑞稀は、プリントを束ね直してから、ちらりとこちらを見た。ほんの一瞬。
それでも十分だ。レンズの面に、小さな朝の光が跳ねる。
庵野さんの視線が僕を追いかけていたように思う。
岡部はまだ不満そうに自分の席へ戻りかける。足が通路に流れた瞬間、先生の呼ぶ声が飛んだ。
「岡部、席につけ。始めるぞ」
「……はい」
チョークがキィ、と鳴る。教室がふたたび授業の空気に戻っていく。
アキラが、机の下で握り拳を作って小さく振った。
「ソラ」
「なに」
「ありがとう。マジで。今日の俺のハイライト、もう終わった」
「朝の挨拶は始まり。終わりじゃない。次は帰りの挨拶か普通の会話をしろよ」
俺はペンを回して止め、黒板を見上げた。横目で、窓際の黒いピンが、またひとつ光った気がした。
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