私は何者か ⑮
思わず頭を踏み抜いてしまった。
もっと感情を引き出してから殺すつもりだったのに。
悪魔が糧とするものは個体によって様々ではあるが、最上位の力を持つ悪魔はそのほとんどが人間の魂、殊に絶望に染まった魂を好み、そしてそれは本来かなりの力を持って降臨するはずだった裂けた口の悪魔──ベノミノも例外ではなかった。
そうだ。何故か存在位置を特定され、領域装置を破壊されてしまったために中途半端な能力で出てくる羽目に陥ってしまったが、本来ベノミノは最上位の悪魔として君臨するべき存在だったのだ。
苛立ちがあった。
ベノミノを祓いに来た四人。その中で一番弱そうな人間を騙し、結界内に拉致するというのはベストな選択に思えた。
今の貧弱なベノミノでも膂力のみで簡単に殺せそうで、精神も強靭には見えず、そして、見た目も良い。
ベノミノは人間の男を模った悪魔だ。その精神性も人間に近いものを持っていた。
この女を、嬲り、犯し、甚振って──殺す。
この苛立ちも相応に解消されるだろうし、実利的な面、他の三人に対処できる程度の力を得ることも出来たはずだ。そもそもの器が強大であるベノミノは、現段階では少ない魂でも大きな力を得ることが出来る。
しかし、何もせずに、すぐに殺してしまった。
こうするつもりではなかった。
なかったのだが、反射的に踏み殺していた。
その目に、得体の知れない何かを感じた。
不自然だった。強がるにしても、もう少し何か、恐怖や緊張というものは隠しきれないはずだ。人間なんてものはそういう生き物だ。
恐怖も緊張も怯えも、殺す直前のこの女からそんなものは一切感じられなかった。
笑っていた。
ベノミノに頭を踏まれながら、血を流しながら、この女は心の底から笑っていたのだ。
ベノミノの本能が訴えていた。今すぐにこの女を殺せと。殺せるうちに、取り返しのつかないことになる前に。
『くそっ……失敗した』
魂こそ確保できるだろうが、その魂には絶望がまるで足りない。こんな魂を喰ったところで大した力になりはしない。
この程度で果たして他の三人に対処できるようになるのか?
あまりのんびりやっているとベノミノの再生のカラクリに気付かれないとも限らない。
気付けるようなものでもないはずだが、それを言うならこの祠の存在、そして領域装置──石像の破壊だってできないはずだった。
何らかの手段で再生のための領域装置を破壊される可能性も十分にある。
ベノミノはもう一度、頭を踏み砕いた足元の女を見る。
死んだはずのその肉体に、何か、違和感があった。
不自然だ。
傷口の様子が不可解だ。
────俺は何を見ているんだ?
傷口がもぞもぞと動いている。
脳は潰れている。切断されたトカゲの尻尾が動くだとか、そういうレベルの話ではない。およそ人間に可能な挙動ではない。
もぞもぞと動く部分から、蛸の足のようなものが生えてきた。
蛸? 何故? 人間の体内から?
この女はなんだ?
本能的な嫌悪感を覚え、女の死体から一歩後ずさる。
蛸の足が女の頭を形作る。
もぞもぞと、畝り動くその触手は、擬態するようにその色と形を変化させ──まるで先程までの事が嘘のように、傷一つない状態の女がそこに横たわっていた。
女はもぞりと起き上がりながら、上目遣いでこちらを見据えて口を開く。口の端からたらりと血が垂れて胸に落ち、地面へと這う。
そのあまりにも扇情的で蠱惑的な妖艶さが、かえってベノミノに尋常でない危機感を抱かせた。
「酷いじゃないか……頭を踏み潰すなんて。レティツィアでなければ死んでいたぞ」
先程までと少し異なる、人を惑わすような声。悪魔もそういう能力を持っているが、悪魔のそれは厳密には声ではなく、洗脳のためのシステムだ。人間がこのような魔性の声を発するというのはベノミノにとっては驚くべき事だった。
女がまた何事か口を開こうとするが、それに先んじて、ベノミノはその端正な顔に向かって思い切り拳を振り抜いた。
女の頭蓋は圧力をかけられた西瓜のように吹き飛んだ。
脆い。脆すぎる。
悪魔祓いに縁の無いような一般人と同等か、それ以下の耐久力だ。
そもそもの話として、女が悪魔祓いに参加するという事自体相当に珍しいケースだ。
悪魔祓いというのはイースウェールとかいう人間好きのクソ神の加護があって初めて成し得るような事なのである。イースウェールがもし人側についていなければ、この世界はとっくに悪魔のものになっていたはずだ。
そして、女はイースウェールの加護を得られない。
もし女が悪魔祓いに参加する場合、その女は別の神からの恩寵を受けているか、あるいは実体のない悪魔をその身に取り憑かせ払うための……人柱として用意されている。大抵は罪人が使われるらしい。高い知性を持つ大悪魔がそんな見え透いた罠にかかるようなことはないが、実体を持たない悪魔は大抵が奴ら人類が中級と括るもの以下の、大した知力を持たないものが殆どだ。人柱を用いる手法は理に適っている。
しかし、この女はそのどちらでもなかった。
もう一人の銀髪の女は何らかの加護を受けているようだったが、こいつには何もない。そして勿論、人柱なんてベノミノには意味がない。かえって魂を供給する餌になるだけだ。
「実験だ」
再生し、また口を開いた女を、もう一度殴って頭蓋を破壊する。
『お前……人間じゃない、のか? だが、悪魔でもない』
悪魔ならわかる。同族にのみわかるような臭いがある。こいつからはそれを嗅ぎ取れない。こいつは悪魔ではない。
しかし、人間だとも思えない。
『お前は何だ?』
「知らない。だから実験をしよう。一つ一つ確かめていこう。……自分でも気持ち悪くて仕方がなかったが、こうなってくると結構楽しいものだな。どちらが先に死ぬか、試してみようじゃないか。お前は再生するらしいが、私も再生する。ルフェル曰く、再生にはリソースが必要らしい。つまり延々ここで殺し合えばどちらかは枯渇して完全に死ぬわけだ。私が死に続けた場合にどうなるのか……気になるんだ」
『……馬鹿げている。それにお前は、どうやって俺を殺すつもりだ? お前からは魔力を感じない。力尽くで俺をどうにかできるような膂力もない』
「これを使う」
女はそういうと、手の中から立方体の物質を取り出し、手斧の形へと変形させた。
斧の上に、赤色の紋様が輝いている。
『お前……どこで手に入れたんだ、そんなもの』
「ちょっとくすねておいたんだ。便利そうだと思ってな」
あの赤色の紋様。
間違えるはずもない。
人の手によって一度封印される前、ベノミノはその兵器を持った人間達の姿をよく知っていた。強大な力を持ったベノミノを討伐するために自らの命を放り出してその兵器を振るう人間達を何度か見てきた。
遥か昔、全ての魔族を滅ぼしたとされる大戦で用いられたらしい非人道的な兵器。
<
通称ジャンク。
確かに強力な武器ではある。
しかし。
『残念だが……俺の勝ちだ。試し斬りをして使えると判断したのかもしれないが、そいつは刃物の形をしている場合、斬った相手によって反動の大きさが変わる。俺を斬ろうものならお前の命は一気に持っていかれる。それを使う以上、先に命が尽きるのはお前だ』
「それならそれでいい」
女は思い切りベノミノに向かって斧を振るった。
豆腐でも切るかのように、右肩から先が綺麗に切断される。
ぼとりとベノミノの右腕が地面に落ち、断面からは紫色の血が大量に流れ出した。
それまで余裕を持って振る舞っていたベノミノが傷口を押さえて悶える。
『ぐ、おおおおおっ、なん、だ?』
傷口から焼けた鉄線が捩じ込まれるような感覚。
痛みだ。
ベノミノは痛みを感じていた。
有り得ない。
痛みという感覚はそもそもベノミノには備わっていないはずだった。事実先程長身の男に光で消し飛ばされようが、チビに燃やされようが銀髪の女に銃弾を撃ち込まれようが、ベノミノは一切の痛みを感じていなかった。
それが、斧を一振りされただけでこの有様である。
ジャンクによって斬られた経験はある。だが、その時にはこのような痛みを感じはしなかった。
何かがおかしい。
ジャンクにとって、恐らく人の命というのは燃料だ。それによってそのジャンクの持つ圧倒的な性能、斬れ味や筋力の補助などといったものが成り立っている。
振るう前に死んでしまってはさすがに意味がないので、握っただけで命を全て消費するようには出来ていない。つまり、状況に応じて出力が調整されるということだ。
もし、目の前の女が、無尽蔵の
過剰な出力がこのような現象──高位の悪魔の器であるベノミノの痛覚を呼び起こすという現象を引き起こしている可能性がある。
あるいは、ジャンクにそもそも特殊な能力が備わっているか。
見たことはある、斬られたこともある、しかしそんな経験が豊富にあるわけもない。よく知っているつもりだったが、どうもそうではなかったらしい。
細かい部分で他のジャンクと異なるものなのかもしれない。
あるいは、そう。
燃料とする命の質の方が他と異なっている、とか。
「お前にもしっかり効くみたいだな。私はまるで苦しくない、寧ろ心地良いくらいなんだが、お前はどうだ? 苦しいか? 苦しいよなあ、随分と苦しそうだ」
悶えるベノミノに女はもう一度斧を振るった。
頭をかち割るような形で、上から思い切り。
痛覚を伝える神経が滅茶苦茶な刺激を受けて、全身を熱が駆け巡る。
ベノミノは即座に全身を再生したが、その痛みは消えていない。ずきずきと、頭と腕に鉛のように残り続ける。
『クソ、がっ』
女に向かって拳を振るう。
斧を握る女の右腕を狙ったベノミノの拳だったが、女は体をずらして左腕で受けながら返す刀で横薙ぎに斧を振るった。女の左腕が千切れ、肩周辺を含めて欠損していたが、しかし女がそれを気にするような様子はない。
あまり力の篭っていない振りに見えたが、しかしベノミノの体は両断され、切断された体の両方から、超高温の鉄板で焼かれているかのような信じられない痛みが脳に走る。
女の速度と膂力が上がっている。
ジャンクの恩恵か。
最早人の域を超えていた。神の加護もなしにここまでできる人間は恐らく他に存在しない。
痛みもより鋭くなっている。早く終わらせないとまずい。高度な知性があるということは、同時にいくつかのデメリットを抱えることになる。
条件を整えれば、悪魔には拷問が通じてしまうのだ。
本来逃げてもいいのだが、自分の張った結界のせいで逃げられない。完全に自分の首が絞まっている。間抜けな構図だ。
再生地点に女の背後を選び、心臓に手刀を入れて握り潰す。
しかし女は、心臓のあった場所から大量の血を流しながらも振り向いて斧を振るってきた。
また体が両断される。
痛い。痛い。痛い。
だが、まだ耐えられる。考えろ。
こいつを殺す方法。
「辛そうだな。いつかの私みたいな顔をしているよ、お前。可哀想だ。直ぐに楽にしてやる。死だけがお前を救ってくれる」
『ふざけやがって、じゃあお前が死んでくれ!』
「そうしたいのは山々なんだが、どうにもならないんだ。殺されてもジャンクを振るっても、何かが消えていくような感覚が無い。多分私の方はいつまででもこれを続けられる。本当の死を迎えられないのなら、ここで死ぬ意味はない」
女は再生したベノミノを無造作に殺す。
最早流れ作業だ。女はベノミノの動きに適応してきており、適切に対応するだけの速さと力をジャンクが命と引き換えに与えている。
そしてこの女の場合──燃料たる命が尽きることはない。
頭だ。頭を狙おう。
先程頭を潰した後はしばらく動けていなかったはずだ。殺せないまでも時間は稼げる。殺し続けろ。痛みを風化させなければならない。思考が妨げられている。
ベノミノの再生位置に距離以外の制約はほとんどない。結界の外やこの女の体内を指定することは不可能だが、それ以外なら自由な位置に出現できる。
女の頭上から逆さになって再生し、痛みを堪えて女の頭蓋を思い切り握り潰す。
ぐしゃり、という音がして、女の頭が潰れる。
速くなっても強くなっても、その肉体強度は変わらない。ベノミノの膂力をもってすれば簡単に潰せた。
潰された頭。
触手が蠢き始めるその中から、何かがこちらを覗いているような気がした。
ぞくり、とベノミノの背筋に怖気が走った。
凍り付くような恐怖。
悪魔が恐怖を感じるなど、冗談にもならない。
女は蝙蝠のように結界に張り付いたベノミノに斧を振るった。
頭部の再生を待たずに。
力無いその一撃に、しかしベノミノの体は二つに裂ける。
痛い。痛すぎる。
女から極力離れた位置で体を再生させる。
『……頭潰れてても動くんだな。なんなんだ。何なんだよ、お前! おかしいだろうが、人理を逸脱してるッ! 馬鹿げてる、こんなの、痛いっ、馬鹿げてる!』
痛みを抑えられない。
痛い。痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
五体満足の健康体であるにもかかわらず痛みのせいで痙攣が止まらない。再生した直後だが、立っていられずに地面に転げ落ちる。震えたまま女の方を見る。
女はいつの間にか再生していた顔を向け、底知れない深い闇のような美しい瞳で慈しむようにこちらを見据えた。
その口角は少しだけ上がっている。
「悪魔が人理を語る、か。面白い。面白いな。そのまま神に祈りでも捧げてみろよ。私はジョークが好きだ」
そう言って更に口角を上げ、女は機嫌の良さそうな笑顔でベノミノの頭に斧を振るった。
再生する。
斧が振るわれる。
再生する。
斧が振るわれる。
最早これは一方的な虐殺だった。
ベノミノに何かをするだけの精神力はもう残っていない。
再生する。
斧が振るわれる。
再生する。
斧が振るわれる。
再生する。斧が振るわれる。再生する。斧が振るわれる。再生する。斧が振るわれる。再生する。斧が振るわれる。再生する。斧が振るわれる。再生する。斧が振るわれる。再生する。斧が振るわれる。再生する。斧が振るわれる。斧が振るわれる。斧が振るわれる。斧が振るわれる。斧が振るわれる。斧が振るわれる。斧が振るわれる。
しばらく時間が経ち、ベノミノが再生を選ばなくなっても、しかしまだ斧は振るわれていた。
ぐちゃぐちゃと、ミンチを作るように肉塊に斧を叩きつける女。
ほどなくして、女と悪魔を外界から隔離していた結界が解けた。
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