私は何者か ⑬

 レティツィアは人間ではなかった。


 驚いているわけではない。

 これは想定できていた事だ。

 そもそもの話として、傷口から蛸の足が生えてくるような生き物がヒトであるはずがないだろう。

 最初からそうだったのか、あるいは豚領主の肉を口にする事でこうなったのかはわからないが、少なくとも領主を殺して以降のレティツィアは何か別の生き物になっていたのだ。


 不思議とその事自体に忌避感や気持ち悪さのようなものはない。


 問題は、レティツィアが人間ではないことにより想定されるいくつかの弊害。


 そのうち一つ、先程顕在化した、人間以外を対象に取る攻撃に巻き込まれるという事実。


 ルフェルの聖遺術、そのダメージ自体は問題ではない。いくらでも再生は効く。事実私の手は既に元通りレティツィアの白魚のような指を湛えていた。

 全身を一度に消滅させられれば死んでしまうだろうか。いや、それならそれでいい。寧ろ殺せるなら殺してほしいくらいなのだ。リセットの手段はあったほうがいい。

 まあ、そういうわけでいくら身体を消し飛ばされようがそれ自体はどうでもいいのだが、しかしながら、死ぬ事ができないのに破損した部位の再生を見られる事、そしてそもそもルフェルの聖遺術が効くのを知られてしまうという事自体が非常にまずい。


 ルフェルに敵と看做みなされ、フォロからの情も失い、挙げ句の果てに時間遡行によるリセットも効かない、という事態が起こる。


 詰み。

 私のぼうけんはそこでおわってしまうのだ。


 別にフォロに見捨てられる、あるいは敵視されるという確証もなく、人間でない事が分かった上でフォロが擁護してくれる可能性もまあ存在するのだが、しかしあまり期待すべきでもない。

 私は記憶を失ったレティツィアであるということになっており、そこで人間でないという事実まで発覚すれば、レティツィアが崖から落ちた時点で或る人外、例えば悪魔なりが擬態してレティツィアとすり替わったと考えるのが妥当なところである。

 本物のレティツィアが別にいると考えたのなら、フォロが私を守る理由などもう存在しない。


 そもそもとして、私は今現在のフォロの思考をまるで読めていないのだ。

 なんとなく私の動かすレティツィアはまだ好意をもって接されているようではあるが、それもいつまで続くのか、何かあれば変わってしまう感情なのか、まるで見当がつかないのだ。



 大切な人が記憶を失ったとして、その人物に対して人間はどういう感情を抱くものなのか?


 私にはまるでわからない。


 そのような大切な人など生涯現れる事はなかったし、そうでなくても私は感情の機微に疎い。疎いからこそ現れなかったとも考えられることではある。


 記憶が欠けてしまったそれは、同じ人間だと言えるのだろうか?


 人間の内面というのはそのほとんどが記憶によって形成されていると私は考える。

 知識や価値観は言わずもがな、その人格でさえも殆どが記憶に依存していると思っている。


 つまるところ、記憶を失った誰かというのは、その人物の皮を被った別の知性であるというのが私の認識なのである。


 だが、そんなわけのわからないものに対してのフォロの反応が特異であり、私の考えと大きく違うものである、とも思わない。寧ろ正しくて予測しやすいタイプのものだ。

 記憶を失った人間に、以前のような好意を持って接する、或いは……縋る理由。

 大きく二つ考えられる。


 たった今考えた。そうだ、わからなかったのではない、考えなかったのだ。以前はきっと考えないようにしていた。しかし今ならば。私がこの世界にレティツィアとして存在する今ならば、忌憚なくそれについて思考できる。私は今その得体の知れない別の知性そのものであるのだ。かつての、あのような私はもういない。


 ……余計なことを考えてしまった。

 切り替えよう。


 記憶を失った人間に縋る理由、その一つ。記憶が消えたのではなく、思い出せないその記憶が眠っているのだと考えているから。


 記憶喪失というのは一時的な状態であるという見解は、この世界ではどうか知らないが一般的なものであり、つまり時間をおけば記憶が──ひいてはその人物が蘇る、と考えているから、という話。


 その人物への感情が色褪せない理由としては十分なものだ。今は本来のその人でなくとも、元に戻るのなら。別人になったそいつとも仲良くやるべきなのである。

 ややこしい言葉になるが、記憶を失っている期間の記憶は恐らく失われないのだろうしな。


 その二。

 私はどちらかというとこちらの方がメインだと考えている。

 単純な話だ。


 ある人物に対して抱く感情のほとんどが、その外見に起因するものだから。


 誰かに聞かれたら怒られそうな考えではある。

 だが、怒られようと否定されようと罵られようと、私はこの考えについては曲げる気は無い。


 人生というものは顔面の出来によってあまりにも大きく左右される。

 全てとまでは言わないが、殆どだ。


 フォロがレティツィアの容姿に対して好意を抱いていたのだとしたら。

 この大きく綺麗な形をした煌めく闇色の眼に、長く伸びた睫毛に、小振りながら高く整った鼻に、鮮烈な紅色あかいろを発する唇に、白磁か蝋のような白い肌に、夜の帳を思わせる艶やかな黒髪に、そういった外見的な要素に大きく惹かれていたのだとしたら。


 最低限、自分から離れさえしないようなものなら────内側の知性なんてどうだっていいはずだ。


 俗っぽく情報量を減らして言い換えて仕舞えば、体目当てというやつだ。


 一応その三として記憶を失っても社会的な立場や権利、しがらみが残るためというものも考えたのだが、レティツィアには一切関係のなさそうな話なので省いた。



 フォロは幼い。

 頭が回ろうが、領主という立場になろうが、弱冠14歳程度の少年であるという事実は動かない。

 親が惨殺されているのを見てもさして動じない胆力があっても、協力関係にあったヤニスの死に必要以上の悲しみを背負わないリアリスティックな一面があっても、レティツィアの裸に過剰に反応し、赤面して逃げ出すような純真さを持った少年であることに揺るぎはない。


 そんなフォロがレティツィアを外見でしか、その肉体でしか見ていないというのはあまり私の心情としても信じたくないことではあるのだが、しかし私は感情に流されてそれを誤認してはいけない。

 フォロとしても理性でそんなことを考えてるのではないだろうが、意識的であれ無意識的であれ、フォロの感情の大半がレティツィアの肉体を追っているのは間違いない。私は本質を見失ってはいけない。私は周りの感情を、周りの考える損得勘定を、正確に評価しなければならない。


 間違えれば、そこで終わってしまいかねないから。


「レティ、大丈夫ですか?」


 ルフェルの術により腕が消えたことで巡っていた思考から、アルミナの声によって引き戻される。


「あっ、いえ、大丈夫です、すみません」


「悪魔の瘴気にあてられましたかね。魔力量の少ない人間にはよく起こるそうです……少し休憩していきますか? いざという時に倒れられても困りますし」


 台詞こそ皮肉混じりに聞こえてしまうが、今回に限ってはルフェルの表情から変な意図は感じられない。


「本当に大丈夫です。ちょっと考え事をしていて」


「それならいいんですが……ああ、そうだ、フォロ君、あの悪魔が倒された時、何か変化を感じましたか?」


「……少し酔うような感じがした。度の強い酒を呷った時のような気分だ」


 このあたりではフォロぐらいの歳の人間でも酒を飲むのだろうか。

 そういえば私は生前はいくら酒を飲んでもまるで酔えないような体質で、酒に逃げるという選択肢が封印されているようなものだったのだが、レティツィアの体はどうなのだろう?

 ……簡単にアルコールを分解してしまいそうな気がする。


「素晴らしい。それが瘴気を吸収した時の感覚です。イースウェールの加護はやはり正しく機能しているようです」


「瘴気を吸収して、それでどうなる?」


「魔力や身体能力が強化されます。なんでしょうね、筋肉量は変わらないまま質が向上するような感覚なのですが……まあ、しばらく続けていけば変化を自覚できるでしょう。私がこの細身で大剣を振り回せるのはそういうカラクリです」


 この世界ではそういうのが普通なのかと思っていたが、ルフェルが特別なだけであったらしい。いや、ルフェルというか、イースウェールの加護を受けた人間全体の話か。



 それから少し進むと、私達はまた悪魔と遭遇した。

 ルフェルが腕で私達を制止し、先の空間を指差した。

 指の先を目で追う。

 フォロの炎に照らされる、紫色の異形。


「うっ……」


 その醜さに、思わず私の口から声が漏れた。


 人面の蛙。


 蛙の体をしたその存在の頭部にあるのは明らかに人間の顔だ。紫色の、痩せこけた男のような顔。無機質な表情で、しかし全体を覆う分泌液がてらてらと炎に輝いていた。


 触ればすごくべたべたしていそうだ。


「あれはどういう悪魔だと思いますか?」


 ルフェルが意地の悪い笑みを浮かべて私達に尋ねる。


「……教えてくれないんですか?」


「今後自力で悪魔の性質を見抜く能力は必要になってきます。訓練ですよ。……今回はフォロ君に処理してもらいましょうかね」

 

「蛙、ね……。跳ねてきそう、とか」


 何か緊張感に欠けるフォロの分析だが、私としてもそれに加えて舌を伸ばしてきそう、くらいしか思い浮かばない。

 現段階で分析しろというのは無理があるのではないだろうか。


「まあ、殺してみてください」


「……いいんだな?」


「ええ、あなたがいいと思うのなら」


「……タァト・トロプ」


 フォロがそう唱えると、その瞬間に人面蛙が炎上した。


 パチン、という音が聞こえた。

 またルフェルが指を鳴らしたのだ。

 今度は私達の周辺が緑色のガラスのような結界に包まれる。


 人面蛙は絶叫しているような表情で轟々と燃え続けている。結界の中にまで音が届いていないというだけで、実際に叫んでいるはずだ。


 フォロの手からは炎が消えていた。手に炎を灯したときよりも簡単な呪文だったのが少し引っかかっていたのだが、恐らく先ほどの呪文は手の中の炎で別の何かを燃やす術だったのだろう。


 人面蛙がやがて塵になり、フォロの手に再び炎が灯った。

 ルフェルが展開したらしい結界も消失する。


「フォロ君。今の対応は結構最悪だったんですが、どこが悪かったと思いますか?」


 ルフェルがにたにたとした笑みでフォロに問い掛ける。

 こういう責め方をしている時のこいつは心底楽しそうだ。本当にいい性格をしている。


「……は? 問題があったのか?」


「ええ、大問題です。人面蛙フェイスモス……というか人面フェイス系の悪魔全般は、何らかの危害を受けた際に絶叫草マンドレイクさながらの叫び声を上げます。即死させないと余計な被害が出ますよ」


「……マンドレイクというと、つまり、それを聞くと死ぬのか?」


「今回は結界を張ったので無事でしたが、レティツィアとアルミナ嬢は多分死にますね」


 いちいち私達の身を危険に晒すな。


「……初見でその特性を見抜くのは無理だ。危険性は事前に伝えろ」


 フォロが頭を抱えながらそう言った。まあこんなのが教育係では不安も不安だろう。


「考えておきます」


 にっこりと微笑んで返すルフェル。

 こいつ絶対次も黙ってるぞ。

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