四 流石にエンマ様を困らせるのはダメじゃろ
空のないこの世界でも朝は来る。どこからか赤っぽい光が差して、僅かばかり明るくなるのだ。
衡は昨日眠れなかった。その割に、この頑強な体は腹が立つほど元気だ。
衡とチャンディを乗せた荷台は、色のほとんどない景色の中をギッコギッコと歩いている。
どこまでも霧がかかっている。梅雨の夜のような湿った空気に、大地から上る熱気が入り混じる。
ところどころ、枯れ枝のような植物が茂っている。遠くにうっすらと火山が見える。
荷台は三途の川で歩みを止めた。
「へえ、これが三途の川。意外と綺麗なんだな」
衡は背中を伸ばして川を眺めた。
「そうか?」
チャンディは特に興味もなさそうに返事をした。
三途の川は普通の水のような清流だった。ただしその水は下流から上流へ流れ、火山の方へ向かっていた。
チャンディの目論見としては、
「目的地はもっと下流の方だけど、下流へ行くと渡し船に見つかるからな。ここで渡る」
のだそうだ。
「渡し船って、あの死者を渡す?」
「そう。あそこは悪魔が多い」
チャンディはペダルを踏む。荷台は再びゆっくりと三本脚を動かし、三途の川に足を浸けた。
衡は少し焦った。
「え、これ水の中も行けるの?」
「当然」
といってチャンディは衡に長い木の枝を手渡す。
「あんたが押せばね」
「自分で押すのか」
衡は苦笑いするしかなかった。枝を取る。
「金がないことを忘れんな」
「世知辛え」
そもそも泳ぐしかないと思っていたのだ。乗り物があるだけ、まだマシだろう。
荷台は胴が浸かるまで歩みを進めた。荷台に浮力を感じ、衡が枝で川底を強く突くと、流されながらも滑らかに水面を滑った。
「お、すげぇ力」
チャンディは荷台の縁に掴まりながら笑った。
「アーグムに押させたかったんだよ。やっぱすげぇ楽だ」
便利に使われて、衡は少しムッとした。
確かに、川の流れは逆でも、アーグムの腕力で面白いように前進する。チャンディは時々笑い声を上げながら、荷台の脚を操作して、進む方向を制御した。
「下の方へ行けば赤い魔石がいっぱい採れる。重いからな、今のうちに操作慣れとけ」
「はいよ」
帰りの重さのことを考えながら川底を押すと、何か硬いものに当たった。衡の腕を起点に荷台が大きく揺れ、チャンディはバランスを崩して荷台の底に手を付いた。水しぶきが少し船に入った。
「危ねえ、押し過ぎだ」
チャンディが衡の右腕を叩く。
「ごめん。まだ、この体の力加減が慣れていなくて」
衡は水面に映る自分の顔を見つめた。そこにはアーグムの顔が映っていた。他人の剛腕を借りることは、良いことばかりではない。
チャンディは心配そうに言った。
「転覆させるなよ。落ちたら生きるぞ」
「生きるの!」
絵本で読んだことがある。三途の川に落ちると生き返ると。
「え、そしたら転覆しようかな」
「やめろって。あんたは生きても私は死ぬようなもんだ」
すると遠くから、男の低い声が聞こえた。
「おう、そうしな。きっとそっちの方が幸せじゃ」
昨日聞いた声だ。あれは嫌な場面だった。
荷台の二人は同じ顔で、声のした方を振り返った。
川の上流から、荷台の五倍くらいある船が近づいてきていた。昨日見たあの嫌な顔、シェール・ダースが運転しているようだ。横にラニも乗っている。
「こんにちはー」
ラニの甲高い声がよく通る。
衡は二人の乗る船を見てつい
「手動じゃないんだ」
と呟いた。誰も押していない。衡は一瞬寝返ろうかと思った。
隣でチャンディは真っ青な顔をしている。
「なんで……?」
シェールは勝ち誇った顔で
「お前にはわからんわい」
と言う。
チャンディは突然叫び声を上げ、荷台の中の荷物を掻き回し始めた。そして再び、更に大きい叫び声を上げ、荷物の一つを川に投げ捨てた。耳の絵が書かれた石が、水中に沈んでいった。
「盗聴とは良い趣味だな!」
「はっ、そうじゃろ」
趣味はともかく、逃げた方が良かったのは衡にもわかった。力強く水底を押し、荷台は大きく揺れながら向こう岸に逃げる。
ラニが鼻で笑っている。
「手押しじゃ無理ですよね」
巨大な船は、数秒と持たず荷台に追いついてきた。
シェールは手短に命令した。
「やれ」
「はーい」
ラニは慣れた手つきで波動砲を構えた。
チャンディが叫ぶ。
「避けろ!」
波動砲が強い白光を放った。
衡は川底を右に左に突き、荷台を蛇行させた。光弾は水面に着弾し、水柱が高く舞い上がった。
ラニのスコープは荷台を追い続ける。
「まーだまーだ!」
次々と水柱が立ち上がる。その隙間を荷台がギリギリで泳ぐ。
チャンディは大量に水しぶきを浴びながら、必死で荷台にしがみついている。
「地上行きはごめんだぞ」
チャンディは荷台の操縦桿に短い棒を括り付け、固定した。水流を受けて向きを変える荷台の脚を固定するためだ。そして背もたれを乗り越え、衡の後ろに伏せた。
そして手榴弾を光弾に投げつけた。
手榴弾と光弾が衝突し、大きな爆発が起こった。
視界が黒と白の煙に覆われ、小さな手榴弾の破片が荷台にも降りかかる。
荷台の後ろには何の気配もない。目を凝らしても何も見えなかった。
「気をつけろよ」
チャンディは衡に念を押し、衡は枝を構えた。
破片の雨が止む。波のない水面に白煙だけが写っている。
意外と上手くいったか。
衡が枝を持つ手を緩めかけたとき、突然、白煙の一部が黒い影に変わった。
船が再び姿を現したのだった。
ラニの興奮した声。
「いっけー!」
巨大な船はスクリュー音と共に急速に近づいてきた。荷台に突進するつもりなのは、もう明らかだった。
頭が真っ白になりかけた衡の耳に、チャンディの声が飛び込んだ。
「右だ!」
チャンディは背もたれを飛び越して操縦席に戻った。そして操縦桿に括り付けた棒を引き剥がし、自由になった操縦桿を大きく右に倒した。
同時に衡は枝を強く握り直し、強く川底に打ち込んだ。
荷台は脚に強い水流を受け、乗組員二人を振り回して大きく右へ旋回した。
荷台の起こした僅かな波を打ち消して、船が真っ直ぐ突進してきた。船の右舷に荷台が衝突し、大きな金属音が響いた。
衡は咄嗟に杖を水底へ押しつけた。荷台に大量の水が入った。もう少し遅ければ転覆していただろう。荷台後部に傷ができているが、航行に支障はなさそうだ。
「あー、惜しかったですね」
首を後ろに向け、荷台をぼんやり見ているラニ。シェールがラニの服の裾を引いた。
「回るぞ。掴まるんじゃ」
ラニが座すと同時にスクリュー音が大きくなり、船は右に旋回を始めた。
チャンディは手榴弾を三個立て続けに投げた。大きな水柱が三本上がったものの、船は外見にはまったく無傷で、転覆することなく荷台へ船首を向けた。
「ああ、ダメか!」
チャンディは荷台に拳を打ち付けた。
衡の腕力だけでは、スクリューから逃げ切るのは難しい。もっと強い力があれば――。
衡は魔本を手に取った。右腕に付けていた発魔器のベルトを今一度引き締め、魔石を嵌めた。
チャンディはなぜか慌てていた。
「待て、やめろ!」
もう遅い。既に魔石は発光していた。回転する緑の光。魔本の溝からも眩い光が溢れ、辺りが目も開けられない光で包まれた。
光を破って現れる黒い影。
シェールは目を伏せながら取舵を切り、船は大きく傾きながら影を回避した。
聞き覚えのある低い声がこだまする。
「ジャジャーン!」
川の水が大量に噴き上がったと思うと、その中から巨大な悪魔ズルフィカールが顔を出した。太い脚の周りに大きな波紋がいくつも広がって、荷台も船もその度に揺れた。
チャンディは荷台に揺られるがまま、ポカンとした顔でズルフィカールを見上げている。
「あれ……、呼べんのか?」
ズルフィカールは巨大な足裏で川を何度も踏みつける。
「また呼んでくれたな、忙しいところを! 今度こそ許さ……ありゃー」
突然ズルフィカールが小さくなり、情けない叫び声と共に一瞬で虚空に消えた。脚のあった場所に水が流れ込み、二本の小さな水柱がポシャンと現れて消えた。
悪魔が消え、急に開けた視界に、衡は事態が飲み込めなかった。
「え……なんで……?」
衡の方を向いたチャンディは苦笑いを嚙み殺していた。
「お前、やってくれたな」
その顔はみるみる陰っていく。いつの間にか黒い雲が漂ってきて、ものの数秒の間に空を覆った。稲光まで走り始めた。
雷鳴のような巨大な声が鼓膜を貫いた。
「困るんだなぁ……」
衡が驚いて真上を見上げると、暗雲に巨大な鬼の顔が映っていた。ズルフィカールとは比べ物にならない、何キロメートルにもなりそうな顔だ。真っ赤な肌に真っ赤な目の、正に赤鬼といった風貌で、黄金の王冠を被っている。
船ではシェールが妙に取り乱している。
「はっ、エンマ様! これラニ、頭が高いぞ、下げなされ」
シェールとラニが並んで深々と頭を下げた。
エンマは困り眉を更に困らせて言った。
「三途の川は亡者の行き来する大事な川じゃ。急にズルフィカールを呼ばれるだけでも困るのに、大きな図体で波を立てられると、まっこと困るんだなぁ」
シェールとラニは頭を上げず
「すみません! ……ほらラニも」
「すみません!」
衡は頭を下げ続ける二人が不憫になり、自分も頭を下げた。
「すみませんでした!」
チャンディは頭を下げはしないものの、決まりの悪そうに頭を掻いていた。
衡は魔本を足元に置いた。
「あの、もう止めておきますので!」
そう天に向かって叫ぶと、エンマの眉は幾分困るのを止めた気がした。
シェールとラニは更に深く頭を下げた。
「お騒がせして申し訳ありませんでした! ……ほらラニ」
「でした!」
エンマは一言
「すまんなあ」
と言い残し、暗雲に紛れて姿を消した。
嘘のように雲が晴れていく。元々それほど明るくない空だが、衡には快晴に見えた。
シェールはゆっくり頭を上げ、エンマが消えたのを見ると、衡に窘めるように
「流石にエンマ様を困らせるのはダメじゃろ」
と言った。
衡は敵ながら申し訳なく思った。
「すいません、軽率でした……」
敵味方で相対しながら、誰も相手を見ない微妙な時間が流れた。ただ荷台と船が音もなく揺れている。
やがてシェールがラニに目を向けて
「続き。静かにな」
と促すと、ラニは元気な返事を一つ返し、波動砲を構えた。
四者にいきなり緊張が走る。
「衡、気をつけろ!」
チャンディの声。砲口の光がこちらを向いている。
「やばい!」
衡が咄嗟に屈みこむと、頭のすぐ右上を光弾がすり抜けた。
「動かせ!」
再びチャンディの声で、荷台を泳がせる役割を思い出す。衡は川底を突き崩し、荷台は再び泳ぎだした。
チャンディは荷台の後方へ移動して大筒を手に取っている。銃口から弾を込めて発射する、ラニの波動砲と比べると随分原始的なものだ。
チャンディが慣れた手つきで弾を込め、後方の魔石を金槌で強く打つと、大きな破裂音と共に荷台が大きく前方へ滑る。弾は砲丸投げのような速さで放物線を描き、甲板に落下して大きな音を立てた。船に傷は付けただろうが、転覆はとてもできそうにない。
くそっ、とチャンディは荷台の淵を蹴った。
「逃げ切るのは無理か。おい衡、全力で下流へ行くんだ」
衡は聞き間違えたかと思った。
「下流? 渡し船に見つかるんじゃないの?」
「渡し船の近くは安全地帯だ。見つかるのは面倒だが、こうなったら仕方ない」
渡し船の乗り場付近は亡者が往来するため安全地帯となっている。この先で戦闘行為を行うと、シェールは再びエンマの困り顔を見ることになる。その困り様は、上流で悪魔を足踏みさせたときの比ではないだろう。
衡はそこまで理解できたわけではなかったが、少なくとも聞き間違いではないことは理解した。枝を差す向きを変える。
一度静止していた船は再び速度を上げて迫っていた。衡の背後から高速の光弾が次々とすり抜けてゆく。チャンディは大筒で応戦するが、船の勢いは止まらない。
衡の剛腕も流石に疲労が溜まってきた。
「ダメだ、流れが逆で進まない」
川の水は上流に向かっている。流れが速くなったか、腕の疲れか、いくら川底を突いても進まない。
船のスクリュー音は速度を上げて近づいてくる。尖った船首は水流を切り裂き、そのまま荷台をも切り裂かんと迫ってくる。
どう見ても、あと数秒で追いつかれるのは明らかだった。
「やばい!」
その時、チャンディが衡の枝をひったくった。
「おい、船に掴まれ!」
「はい!?」
「正面から船を受け止めるんだよ」
「来る船を素手で!? 無理だよ!」
「お前ならできるだろ。お前の名前は何だった?」
「俺は掛水こ……」
「アーグム・アッバース! もはやバラバではない、アーグム・アッバース! そうだろ?」
「聞いたことねぇ……」
「さっさとやれよ、アーグム・アッバース!」
やるしかなかった。もう船はすぐそこだ。
荷台の最後尾に立った。そして両腕をなるべく前に広げた。
衡の目線より高い船首が、自動車のような速度で迫ってくる。その上からラニが顔を出し、波動砲を衡へ向けた。砲口に光が集まる。衡は目を瞑りかけた。
光が放たれる直前、大きな金属音がして銃口がぶれ、波動砲は川の中へ消えた。
衡が振り向くと、大筒からは微かに煙が昇っていた。
チャンディの不敵な笑み。
「前向けよ、アーグム・アッバース」
船はすぐ目の前に来ている。
衡は手短に大きく息を吐き、両側の肩甲骨を一回転し、右足を荷台の縁に掛けた。
接近する船首。座席ではラニが取り落とした波動砲を慌てて背負いなおしている。
衡は両腕を伸ばし、バランスが取れる限り身を乗り出した。
衡の掌が船首に触れた。
一瞬後、荷台がグッと加速し、大筒が大きく揺らいだ。
衡の腕に感じたことのない大きな負荷がかかり、思わず
「無理無理無理!」
と声が出た。
腕の踏ん張りが利かず、船首は両手の間を滑り、衡の腕と頬に押しつけられた。
大きく揺らいで倒れる大筒の脇からチャンディが飛び出し、衡の背後から腰を抑え込んだ。二人分の足の力で荷台が後方に傾き、荷物が転がる。
「よし! 積み石まで耐えろ」
チャンディの掛け声に衡が振り返ると、少し下流に小石の塔が立っていた。塔と言っても小石を積んだだけに見えるが、十個ほどの小石が奇跡的なバランスを保っている。これが安全地帯の境界だ。
ラニは波動砲で荷台を狙おうとするものの、船首に隠れて狙いを定められない。
慌てふためくラニの隣で、シェールが船首を覗き込んだ。
「ああ、こりゃまずい」
シェールは急いで緊急停止レバーを引いた。船のスクリューが逆転し、船にブレーキがかかる。
ラニは前方につんのめり、甲板に滑落した。
同時に荷台は船から離れた。もたれかかっていた船が急に遠ざかり、衡の上半身が勢いよく川へ倒れ込んだ。
衡の上半身は川に転落したが、チャンディが左脚にしがみつき、下半身は荷台に残った。
しかし、衡が荷台の縁へ倒れ掛かったことで、荷台は大きく傾いていた。荷台の端が水位より下がり、大量の水が流れ込んだ。
チャンディは
「あ、やばい。衡すまん」
と、抑えていた衡の脚を離し、川へ押し込んだ。
荷台は転覆を免れ、衡は一人うつ伏せのまま浮いていた。
一方、完全に停止した船の上で、シェールは船首に移った。
「おいラニ、ラニ!」
倒れているラニの頬を叩く。
「おはようございます……」
ラニは目線が合わないまま答えた。
下流を見ると、丁度荷台が積み石を越えたところだ。大の字になってうつ伏せで浮いている衡も後に続いた。
シェールは溜息をつき
「超えやがったな。退くか」
と呟いた。そしてラニを船首に残して操縦席に戻り、去っていった。
チャンディは船が諦めるのを見届け、杖で衡の背中を突く。衡は頭を持ち上げ、久々の呼吸をした。
「ほら、ナイスファイト」
衡はチャンディの差し出した杖に掴まった。
「死ぬかと思った……。いや、生きるかと思った」
川辺には大柄の黒い悪魔が、荷台と同じくらいの手押し車を片手で引きながらこちらを見ていた。残念ながら、渡し船の連中に見つかったらしかった。
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