冴えない僕らのチェックメイト

謙太郎

初手 山と古びたノート

「…なんで俺たちがこんなことに…」


 穴鳥軽歩(あなとり・かるほ)は荒い息を肩で受け流しながら呟いた。

 真面目で几帳面な彼の額には汗が滲み、動揺が見えた。


 高尾山・6号路――

 木々のざわめきが風に乗って耳元をくすぐる。

 周囲には誰もいない。

 鳥さえも、静けさの中で声を潜めているようだった。


 振り返ると、黒いスーツに身を包んだ男たちが無言で迫る。

 どうやら、日本人だけじゃない、どこかの国の人間もいる。

 整った身なりに無表情。

 まるで“紳士の仮面をかぶった何か”が、静かに獲物を狙っているかのようだった。


「マジかよ…」彫須(ぼりす)がぼそりと漏らし、軽歩の後ろをついてくる。

 賀瑠璃(がるり)は無言で先を走る。


 3人はやがてベンチのある広場に辿り着いた。

 その瞬間、軽歩の脳裏に数日前の光景が蘇る――


 ■ 数日前 軽歩の家 ■


 夕暮れの畳の部屋。


 軽歩は机の上に一冊の古びたノートを置いた。

「じいちゃんがロシアで拾ったやつらしい」


「またじいちゃん、冒険家気取りかよ」

 彫須は笑いながら言った。

「前も『UFOの破片』だって送ってきて、ただの金属片だったじゃん」


 賀瑠璃は黙ってページをめくる。

 そこに詰め込まれていたのは、黄ばんだ紙にぎっしり書かれたチェスの棋譜の数々だった。


「全部スラブディフェンスの変化だな」

 軽歩が指で辿る。

「b5とc6の手が丁寧に研究されてる」


「スラブディフェンスのポーンの並びって山みたいだよな」

「高尾山じゃね」彫須が茶化す。

「バカか」賀瑠璃が呟いた。


 そしてページの隅には、見慣れぬ文字。ヘブライ語らしい。


 全く読めないのでスルーしようとすると、そのすぐ下に祖父の筆跡で日本語の訳が添えられていた。


「『8人の王子』『姫が山を見る』『ユダヤ人の落とし物』――って、何だこれ」


「なんだこれ?何かの暗号か?」


 彫須が笑った。

「まるでファンタジーだな」


 軽歩はノートを閉じ、机の端にそっと置いた。


「明日、部活あるし。賀瑠璃、また指してくれ」

「ああ」


 その夜、誰も本気にはしていなかった。

 ただの古いノート、ただのじいちゃんのお土産――


 けれど、ページの隅に静かに書かれた謎の言葉は、

 まるで誰かが気づくのを待ちわびているかのように、そこにあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る