第38話 ただいまとおみやげ
扉を開けてすぐ出迎えたのは、勢いよく駆け寄ってきたルクレツィアだった。
普段は気品と余裕に満ちた彼女が、今はただ友を求めて駆ける少女のように見える。
「あかり!」
声を上げたそのまま、彼女の細い腕が私の体をきつく抱き締めた。驚いた私は一瞬立ち尽くす。ふわりと鼻腔をくすぐるのは、薔薇のように甘く、それでいて凛とした香り。
「心配したのよ! 無事でよかった……!」
彼女の声が小刻みに震えている。レオナルドとの連絡は共有していたようなので、無事は伝わっていたはずなのだが。あの堂々たるルクレツィアが、ここまで取り乱すとは思わなかった。
私は背中に手を回し、軽く叩くようにして「ただいま戻りました」と囁いた。
その小さな返事に、彼女の体がわずかに震え、次の瞬間には深く息を吐き出す。張り詰めていたものをようやく手放せたのだろう。
ヴァレスティ邸の奥、普段は客の目に触れぬ一室。
部屋の中央には重厚なテーブル、その両脇に肘掛椅子。窓には分厚いカーテンが下ろされ、内と外とを遮っている。ここが密談の場として整えられていることは一目で理解できた。
そこで待っていたのはルクレツィアとエウジェニオ。
重々しく扉が閉じられ、密談の場が整う。
私とルクレツィアのやり取りを少し離れた場所から見守っていたエウジェニオが、いつものように気楽げな調子を装いながら、私を眺めてふっと口元を緩める。
「いやぁ、それにしても……別人だね」
そう言って私を頭のてっぺんからつま先までまじまじと眺めるエウジェニオ。まだ着替えもしていない、あの変装姿のままの私を。
黒髪黒目の異邦人というだけで目立つ私が、明るい茶色の髪にブルーグレーの瞳をしていると、もはや別人としか見えないらしい。
本人と知っているからこそ同一人物と分かるのであって、通りすがりの者なら疑いもしないだろう。
彼の視線に、私は苦笑して肩をすくめた。
「正面から見られてもバレなかったんですよね。……まぁ、元の顔を知ってる人が少なかっただけかもしれませんけど」
髪と目の色を変える魔道具がある、というのはレオナルドの髪を染めたときに聞いた話だ。
それを疑われなかったのは、捕まった時にその手の物は所持していないことを確かめられていたこと。
それから、そういった魔道具はどうしてもわかる人にはわかるくらいに微弱な魔力の痕跡が残るので、本格的な変装には用いないそうだ。やるならむしろ染粉や化粧を用いるのだそう。
だが、脱獄した私がそんな都合のいい品を現地調達できるはずがない。
となれば、あちらの予想は「変装の可能性は薄い」という判断に傾く。……そういうことだったのだろう。
ルクレツィアが私の顔を覗き込み、やがてしみじみと呟いた。
「それにしてもあかり……化粧映えしますわね」
その瞳はどこか楽しげで、同時に羨望の色を含んでいる。こうした変身の妙を話題にしたくてたまらない様子だ。唇が弾むように動きそうになった瞬間、私は片手を上げてそれをやんわりと制した。
「その話はまた後でゆっくり。今は……」
場の空気を変えるように軽く笑みを作り、私は脇に置いていた木箱を抱え上げた。
「こちら、お土産で〜す」
テーブルの上に木箱を置き、蓋を開く。
中から現れたのは重厚な小型金庫だった。
「中身はまだ見てないんだね?」
「はい。あの場で時間をかける余裕はありませんでしたから。持ち運びできる大きさで助かりました」
私は金庫を撫でながら言った。机の上に鎮座するそれは、片手で抱えられる程度の大きさではあったが、ずっしりとした重量感があった。
おおよそ二十センチ四方、立方体に近い形状。表面は厚みのある黒塗りの鉄板で覆われ、施錠部分には複雑な細工が施されている。
前面には三つのダイヤルが並び、数字が刻まれたそれを回すことで暗証を合わせる仕組みだ。
ただ、問題は──。
「暗証番号についての情報は?」とレオナルド。
「不明ですねぇ」と私。
「だよね」と肩をすくめるエウジェニオ。
手当たり次第にダイヤルを回すわけにはいかない。千や万単位の組み合わせがある以上、気の遠くなる時間を要する。いちいち確認していたら、今夜が明けても終わらない。
「ちなみにこれ、魔法的な防御みたいなのはかかってないんですか?」
私は念のため尋ねてみる。
エウジェニオは指先で表面をなぞるようにしてから小さく首を振った。
「魔力は感じられないね。至って普通の金庫だよ」
そういうものかと、私は唸る。
魔法的な防御──障壁や結界といったものは、発動時に設定した一要素のみを防げるそうだ。魔法なら魔法、物理なら物理。音、気配、視覚。
鍵開けなどの直接的で便利な魔法は存在せず、大出力の魔法による破壊は中身の保全に問題が生じる。つまり魔法を防ぐ結界は基本的に不要。
では物理保護の結界……となっても、結界の維持には定期的に魔力の供給が必要になる。
なので、貴族たちもわざわざ金庫に魔法をかけることは稀なのだそうだ。
ましてこの金庫は隠しスペースに置いてある秘密の金庫。こまめに取り出して手を入れるのはリスクだ。なんの処理もしていないのは納得。
つまり、これは純粋に鉄と錠前の問題。
「じゃあ……致し方あるまい」
そう言って、私はアイテムボックスからいくつかの機材を取り出した。
──小一時間後。
金属音が止み、空気の中に漂っていた鉄と熱の匂いが徐々に薄れていく。
「とんでもないですわ……」
「異世界怖い……」
部屋の隅でルクレツィアとエウジェニオが手を取り合い、身を縮こまらせていた。
目の前で金属の箱が物理的に切断されるという経験は、彼らにはあまりにも衝撃的だったらしい。
多分金属工房とかであればそう珍しいことではないのだろうが、少なくとも城の一室で見る光景ではないからな。
「いや〜、めっちゃうるさかった……」
「殿下の防音結界がなければ大騒ぎだったな」
私はゴーグルを額に上げ、汗を拭った。
テーブルの上には、立方体の一面がバッサリと切り取られた金庫が残されている。
小型だけあって思ったよりも壁が薄かったので、作業自体はすぐ終わった。……電動金属カッターを使用する上で必要な機材や防具や場所の保護の準備の方が大変だったな。
金庫の中から取り出したのは、厚みのある革張りのファイルに挟まれた十枚ほどの紙束だった。
紙は上質で、端が揃えられ、印章と署名がいくつも押されている。単なる覚え書きではなく、正式な契約書類の類であることは一目で分かった。
すぐにそれをエウジェニオへと渡すと、彼は慎重に受け取り、隣に座るルクレツィアと共に覗き込む。二人の表情が、紙を捲るごとにじわりと険しさを増していった。
一方で私は、残った金庫の処理をすることにした。
切断面は鋭く、火花を浴びた痕で黒ずんでいる。これを放置すれば不用意に触れた誰かが怪我をするかもしれない。
「殿下〜、この金庫まだ要ります? 捨てていいですか?」
軽い調子で問いかけると、エウジェニオは書類から顔を上げず「いいよー」と即答したが、次いで首を傾げた。
「……捨てるって、どう?」
「この世から消失します」
「こわ……」
私は切り離した壁の板と、ぽっかり口を開けた金庫本体をまとめてゴミ箱フォルダに放り込む。音もなく消えるその様子に、エウジェニオが呆れたように肩を竦めた。
散らばった金属片も、レオナルドの手を借りて耐熱シートごとまとめて処理する。
ゴーグルや作業用の手袋、工具類を片付け、次々とアイテムボックスに収納し、部屋の空気は一気に平穏を取り戻した。ほんの数分前まで火花が飛び散っていたとは思えぬほどに、机の上は整然と片づけられている。
「さて……」
私は手を払って椅子に腰を下ろす。
「なんの書類でした?」
エウジェニオは短く息をつき、視線を落としたまま答える。
「契約書だね。オルセン侯爵家とアリトス商会の」
ぴたりと、私の動きが止まった。
──アリトス商会。私はその名前を知っている。
私の周囲を嗅ぎまわり、商業ギルドやルクレツィアを始めとする貴族から圧をかけられた、あの商会だ。
「契約の内容は?」
レオナルドが淡々と問いを投げかける。その声は穏やかだったが、背筋の伸びた姿勢には緊張が見てとれた。
エウジェニオは契約書を手に取り、視線を走らせてから答える。
「シオネスタ帝国から輸入した薬草の取引記録だね」
「薬草、ですか?」
思わず口を挟んだ。薬草と聞けば、治療や調合のための正当な取引にしか思えない。わざわざ後生大事に隠し金庫に仕舞っていたのに。拍子抜けだ。
しかし、ルクレツィアが契約書に指先を置き、声を落とした。
「……ハスリ草。これ、この国では禁制の品ですわね」
「え」
私の口から間の抜けた声が漏れた。雲行き変わってきたな……。
ルクレツィアは深く息をつきながら、契約書を覗き込む私に説明を続ける。
「特殊な処理方法によって抽出した成分で、とても良い保湿効果が出るの。帝国ではそれを用いた化粧水が広く出回っているのだけれど……問題は、その毒性」
彼女の声音は穏やかだが、言葉の一つ一つは重かった。
「ハスリ草は使い方によっては薬にもなりますが、元は毒性が強いの。加工しても多かれ少なかれ毒素は残る……。肌に使う分にはほとんど問題ないのだけれど、化粧水は唇に滲むでしょう?」
「うちの国では毒草として分類している。使用は禁じられていて、育成は国の許可を得た一部の研究機関でのみ。流通はもちろん認められていない」
エウジェニオの声が冷ややかに響く。
彼が告げた次の言葉は、さらに私を凍りつかせた。
「ハスリ草の毒性で出る初期症状は発熱、目眩、意識の混濁、手足の痺れ……過ぎれば心臓麻痺で死に至る。うちの母上の症状だね」
「うわ……」
思わず顔を顰める。まさかここで王妃の病と繋がるとは思ってもいなかった。
小さな契約書一枚が、急に国を揺るがす毒物の証拠に変わった気がする。
「ただ、これだけでは大した罪には問えないな。侯爵家が王妃に毒を盛った、という証明にはならないし、実際に父上と繋がっているのなら適当に理由をつけて罰を軽くすることも出来るだろう」
「多少上手くやったとて、尻尾を切られて終わり、ですものね。陛下には届かないわ」
沈黙の中、紙の擦れる音だけがやけに大きく響いた。ルクレツィアの白い指先が契約書の端をそっと押さえている。エウジェニオは表情を引き締め、何か思考を巡らせている様子だった。
「アリトス商会が出てくるならシャンプー方面かと思ったのに……やっぱりそっちの可能性も捨てられませんか」
ため息混じりの私の吐露に軽く肩を竦めたエウジェニオが「そうだねぇ」と曖昧に笑う。しかしその笑みは明らかに固い。
「紋章なしの馬車を使ったとはいえ……もし“僕の滞在しているヴァレスティ邸から出発しているところ”を誰かに見られていたとしたら、どうだろう。僕やヴァレスティの情報を得ようとした可能性もある」
テーブルに置かれた契約書が、天井から注ぐ照明の明かりを鈍く反射した。
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