③裏猫

 放課後となると、校内の人通りも少ない。

 グラウンドから響く野球部の声を聞きながら、春坂は静かな廊下を歩いていた。

 ここはサイバー棟。この春、新たに開放された学舎だ。

 パソコンがならんでいただけの情報処理室とちがい、人工知能の開発や実践、音声認識技術、情報が社会にもたらす影響など──さまざまな分野を学ぶ環境が整備されている。IT好きには楽園のような場所で、本格的な研究室と最新技術を前に、授業でおとずれたときは生徒のだれもが圧倒され、そわそわとしていた。

 新しい授業に、真新しい学舎。皆うき足だっていたが、授業で往復するうちに気づけば道順にも慣れ、光沢のあった廊下には黒いシミのような汚れがついていて────まるで人の足跡に埋もれるように、新しかった世界がすこしずつ日常になじんでいくのを感じていた。

 春坂は、棟内に設置されたエレベーターの前に立つ。まわりにひとけがないのを確認して、降下ボタンのそばにあった黒い電子板に、持っていたスマートフォンの画面を重ねる。それはサイバー棟という特殊な環境のセキュリティの為にもうけられた、教職員のIDスキャナーだ。ピッという音とともに赤いランプが緑に変わり、エレベーターの扉が開く。春坂が乗りこむと、すぐに扉が閉まった。

 降下するエレベーターは、三階、二階、一階とあっというまに通りすぎた。地下一階をすぎたところで、ザザ、という雑音とともに、フロアを示す電光板に縦線のノイズが走り、フロアの数字は数回明滅して消えた。その後もエレベーターはさらに下へと向かう。まるで奈落の底に導かれるような感覚。

 やがてエレベーターはゆるやかに停止し、両扉が開いた。まぶしい光がさしこんできて、春坂はおもわず目を閉じる。かざした手指のすきまから様子を確かめながら、おそるおそるまぶたを開く。光のなかでまず見えたのは、揺れる枝葉と緑葉が落ちたアスファルト。どうやら校舎の外らしい。

 春坂がエレベーターから出ると、風景のピースをあわせるように扉が閉まり、その痕跡はあとかたもなく消えた。手をのばしても宙をかすめるだけで、エレベーターの存在はどこにもなかった。

 まわりをぐるりと見渡した。人が消えている。グラウンドの野球部も。下校中の生徒も。生徒玄関からそう離れていない場所に、校訓と校章がきざまれた石碑があって、ここが黄昏学園なのは間違いなかった。

 広大な空間を前にして一気に空気が薄まったように感じた春坂は、肩の重荷をおろすように、ふぅ、と息をつく。


 ここは、裏猫世界。

 『事象』を観測する者しかたどり着けない亜空間である。



  ◇



 人の認識が乱れると、迷宮という亜空間が現れる。

 そんな作り話のような話を聞いたのは、春坂がまだ入学して間もない頃のこと。

 図書室で拾った落とし物が、教室で見つかったり。調理室で見かけたクラスメイトが、同じ時間、遠く離れた階段で目撃されたり。箱猫市では、人の認識が不安定だった。しかしそれらは一般的に知られていない。これを認識できるのはごく一部であり、多くがティーンエイジャーだったから。

 歪んだ認知はやがて迷宮をうみだし、箱猫市を蝕み、滅ぼしてしまう。ときには、人の存在すら無かったことにしてしまう。

 そんな異常事態を解決するために、当時の生徒会長、一ノ瀬濫觴が立ちあがった。

 彼女は言った。

『個人という点ではなく、幅で事象を観測しなければならない』

 たくさんの粒が寄り集まって、おおきな雲となるように。

 重力にひき寄せられた数多の惑星が、銀河を形成するように。

 小さな事象も、やがてひとつの事象として集束するだろう。

 そうして、新たな部活動『解決部』が発足した。

 表向きは、市内のボランティア活動。

 裏では、人々の認知を安定させる為。

 若者たちによる、気の遠くなるような戦いが始まった。

 この裏猫世界は、解決部活動の最中に見つかった深層迷宮とよばれるものが形を変えたものらしい。事前に配布された銀の鍵───人によって形や色がちがうようで、春坂の場合、スマートフォンに知らないアプリがインストールされていた────がなければ出入りできず、いまのところ解決部の遊び場として利用が許可されている。

 春坂はそれほど裏猫世界に興味はなかったが、何人かの部員から「喋る猫がいる」などと聞いて、自分も軽く覗いてみようと思っただけだった。




 頭上で、葉桜の枝が揺れている。わずかに残る淡桃の花びらを見て、そういえば彼女の髪もこんな色だったと思い出した。

 空には、白い綿雲がうかんでいる。形を変えることもなくただ止まっているように見えた。鳥の一羽も見あたらず、さえずりのひとつも聞こえない。ふしぎな空間だった。

 花壇には、春の花がたくさん咲いていた。シャワーノズルの付いたホースが水道にかけられていたが、だれかが花壇を整備している形跡はなかった。

 敷地内を歩いていると、こんどは池を見つけた。いくつもの波紋を浮かべていて、なにかいるのかと水面をのぞいてみたが、自分の顔がうつるだけで何もいない。ためしに石を落としてみたが、有名なおとぎ話のように、落とし物を拾った女神が出てくるようなことはなかった。 

 だれもいない校庭の中央には「ハジマリ」と名づけられた人型の発光体がぽつんと立っていて、ここが現実世界ではないとひと目でわかる。近づいてみても、白い光が揺らめいているようにしか見えなかった。

「元気?」

「   」

 挨拶しても、なにも返事はない。

 ハジマリの頭からつま先まで、とくに変化がないことを確認した春坂はさらに言葉を続ける。

「あんたの名前は?」

「   」

「なにしてるの?」

「   」

「あんたって、ここに住んでるひと?」

「   」

「ちょっと肩さわってもいい?」

「   」

 返事は、ない。

 春坂の楽しげな問いにすら。

 宣言通り、触れようと手をのばす。温度も何も感じない。手ごたえもない。春坂の腕は背中まで貫通したが、ハジマリには目立つ変化はなかった。

 まるで、ホログラムのような。

 ただ立っているだけの存在。

 関心を失った春坂は、そのまま学校の外へ行くことにした。敷地をかこむ金網ごしにもう一度校庭を見たが、あの発光体は同じ場所にたたずんだままだった。



 ◇



 現実世界と同じ街並みだった。

 やはりだれもいない。かけまわる子どもたちも。退勤する会社員も。人がいないせいで、いつもよりずっと広く感じた。

 箱猫駅行きのバスを見つけて乗りこんでみたが、乗客もドライバーもいない。まったく車が通らない交差点では、いつも道路を見守っている信号も沈黙している。ここでは、ふだん利用する交通網も使えないようだった。

 さらに歩き続けると、きらきらとにぎやかだった看板や建物が徐々に減っていく。幼稚園を通りすぎる。ブランコが、キィ、ときしんだ音をたてた。遊具の塗装がはがれているのが、すこし目についた。

 ひっそりとした細道には文房具店があり、出入口で白黒の猫が一匹、退屈そうにあくびをしていた。

 しばらく歩くと、見慣れた表札を見つけて、春坂はおもわず立ち止まる。

 あさやけの鈴。

 中学卒業と同時に退所したその施設は、記憶にある通りのたたずまいだった。唯一ちがうのは、玄関の花くらい。

 親のいない子どもたちが、ここで暮らしていた。

 みんなここが家じゃないとわかっていたし、だれもここを家とはよばなかった。たぶん今は、小さい子たちが遊んでいる時間だろう。部屋から出てこなかったあの子も。はじめは手づかみで肉じゃがを食べていたあの子も。

 十八歳までいていいのだと言われていたが、ずっとここにいる理由もなかった。黄昏学園には寮があったし、なにより春坂はふつうの家庭だったから。自分を引き取りたいと申し出た里親希望の夫婦もいたが、すべて断った。

 キィ、と音が鳴る。まるではじめからそうだったかのように、閉まりきらなかったであろうドアが無風に揺れた。

 ドアのすきまからのぞく薄暗い廊下が、自分に手まねきしているようだった。


 施設の中に踏みこむと、いつもなら出迎えてくれる明るい声はなかった。玄関のそばにはラミネート加工された紙がはられていて、靴のならべかたが書かれている。

 春坂は、棚にしまわれていたスリッパにはきかえて、部屋を見てまわった。通路や共用スペースには埃はなく、窓にくもりもない。すみずみまで清掃が行き届いている。ホウキをもった子どもたちが廊下で騒いでいるのを、年長の子が見とがめる光景が脳裏をよぎり、すこしなつかしい気持ちになる。

 つぎに、職員が使っていた事務室に入った。まっさきに目に入った棚にはアルバムがならんでいて、入所した子どもたちの写真が保管されていた。

 厚く丈夫な表紙をめくると、最初にあったのは集合写真。おそらく昔の写真だろう。知らない顏ばかりが並んでいた。

 春坂の手は、自然と自分がいた頃の写真を探し始める。何枚かページをめくり、ようやく知っている顔を見つけて手を止めた。それは、春坂をふくむ中学生たちが高校入試に合格したときのもの。みんなでお祝いしてくれて、施設の先生が用意したケーキを頬張っている子どもたちの写真。その祝いの席で、当時、春坂がたしかにいたはずの席がどこにもない。

「⋯⋯⋯⋯」

 あきらかな違和感。写真をひとつひとつ確認しながら、最初からページをめくる。誕生日を祝っている写真。一緒に勉強している写真。クリスマスの写真。最後のページにたどりつく。自分がうつる写真を見つけることはできなかった。

「⋯⋯⋯⋯」

 春坂は、アルバムに目を落としたまま首をかしげる。これ自体を悲しいとは思わない。ただ、どうしてなのかという小さな疑問にすぎなかった。

 理由はわからないが、そういうこともあるのだろう───と、むりやり結論付けた春坂は、頭をふって違和感をふりはらうとアルバムを棚に戻した。


 ぞくり


「!」

 冷たい気配がした。

 まるで、背後にだれかが立っているような。

 じっと自分を見ているような。

 春坂にその気はなかったが、見えない力につかまって頭を強引に向かされるように、ゆっくりとぎこちない動作で彼はふりむいた。

 だれも、いなかった。

「⋯⋯⋯⋯」

 当然だ。迷宮に一般人はいない────はず。

 神経をとがらせて、耳をすませる。自分以外の物音がないか探ったが、さわさわと葉の揺れる音しかなかった。

 不気味な静寂。

 春坂はぶるりと背中をふるわせて、足早に玄関へと向かう。

 ここに長居してはいけないような気がした。

 現実世界に戻ろうと春坂が施設の外に出たとき、トントンという音とともになにかが近づいてきた。そちらへ目を向けると、しなやかな尾を揺らす白黒の猫が、屋根から春坂を見下ろしている。この猫が迷宮について熟知していることを春坂は知っていたが、さきほどの気配のことまでたずねてみようとは思わなかった。

「出口、どこ?」

「あっちだ」

 ついてこい、と言って、人語を話す猫は屋根から塀にぴょんと降りた。

 猫を追いかける前に、春坂はもう一度施設をふり返る。

 どこの窓を見てもだれもいないのに。

 だれかが手まねきしているような気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る