藍星の贐

すいかなえ

①音楽室[AI校正補助]

 知らない曲だった。

 曲がり角からまっすぐにのびる廊下に出て、春坂は足を止める。

 ときに軽やかにステップを踏むように、ときに落ち着いた足音のようにピアノのメロディが踊る。どこかで聞いたことがあるような気がしたが、途中から覚えのない曲調になり、やはり自分には馴染みのない曲だとわかった。

 人が、いる。

 緑葉まじりの桜並木を見下ろす上階の廊下、その最奥に、音楽室の入口がひっそりとたたずんでいた。吹奏楽部は、市内のホールにいる。もうすぐコンクールがあって、その練習だとか。憧れの先輩に会えなくて残念そうに肩を落とすクラスメイトを思い出しながら、春坂は薄闇のおりた無人の廊下を歩いた。

 だれが弾いているかなんて、それほど興味はなかった。自分の目的地が、たまたまそこだっただけ。友人の忘れ物を回収する簡単な依頼。ただ、クラスメイトがああ言ったものだから────

『春坂、音楽室に寄るならついでに見てきてよ』

『もしかしたら、いるかもしれないよ』

 ────結果的に、見ることにはなるのだろう。

 同級生がときおり噂するピアノ奏者。吹奏楽部がいないときに、音楽室から演奏が聞こえるという。だれが弾いているのか、先生はおろか吹奏楽部でさえ知らない。

 あんなお願いを引き受けたつもりはないし、春坂からすればどんな人がいようとかまわなかった。

 たしか市内でも有名な先輩が吹奏楽部にいて、ピアノを演奏するたびに姿をひと目見ようと、音楽室には大勢のギャラリーが集まっていたと聞いたが、その先輩は今年の三月に卒業している。それに比べれば、いま春坂の目の前にある音楽室は、まるで人から忘れられたようにおとなしい。

 入口の前に立つと、旋律がひときわ大きく反響する。ずっと子どもが踊るような軽やかなメロディだったのに、途中から雰囲気が大きく変わった。いつかの授業で聞いたオーケストラさながらの激しい曲調。

 ドアをそろりと開けてすき間から覗き見ると、鮮やかな夕陽に目がくらむ。まばゆい橙色の光の中に、鍵盤を奏でるシルエットがうかんだ。短髪に、ブレザーとズボン。性別まではわからない。

 とくに急ぐ用事ではなかったので演奏が終わるまで待っていたら、鍵盤を奏でる手が不意に止まり、相手の目が春坂のほうへ向けられる。逆光のせいで、相手の顔はよく見えなかった。

「⋯⋯えっと⋯⋯⋯⋯もしかして、吹奏楽部の方ですか?」

 相手からの、戸惑いを含んだ問いかけ。

 気弱な気配を残した、少年のような声。

 敬語、ということは年下だろうか。色違いの上靴で学年がわかるのに、春坂の位置からはピアノの脚に隠れて見えなかった。

「ちがうよ。そっちは?」

「吹奏楽部じゃ、ありません⋯⋯。だれもいないときに、借りてるだけで⋯⋯」

「そっか」

 短く返して、春坂は続ける。

「入っていい?ちょっと物を取りにきたんだけど」

 どうぞ、という相手の返事を確認すると、堂々とドアをあけて踏み込んだ。音楽室を見回すと、すみに寄せられた机の上に、忘れられた教科書をみとめて手に取った。春坂がここにきたのは、これを回収するためだった。足早に音楽室を出ようとすると、ガサガサと音がした。相手が楽譜を片付け始めたようだ。夕日に吸い込まれそうな、相手の薄い存在感。おぼろげな輪郭。数歩近づくと、相手は足元のかばんに楽譜をさしこんでいた。

 カーテン、閉めないの?

 まぶしくないの?

 そんな疑問より先に、

「なに弾いてたの?」

 という問いが先に出た。

 春坂も音楽にくわしいわけじゃなかったが、いまの自分が出せそうな一番無難な質問を投げることにした。今にも消えてしまいそうな相手が、どんな存在かをすこし確かめたくなった。

 相手が顔をあげる。あまり印象に残らない、ふつうの顔。もっとよく見ようとしたが、陽光に隠れてほとんど見えなかった。

「どの曲ですか? いくつか弾いてたのでわからなくて」

「じゃあ、いま弾いてたの」

「ベートーヴェンのテンペスト第三楽章。これの前なら、ブルグミュラーの貴婦人の乗馬です」

 わからない。

 きっと楽譜を見ても、メロディを口ずさむこともできないだろう。

 そんな心境は、なるべく外に出さないようにする。

 神々しい陽光の中に、かすかに相手のほほえみが見えて、こちらの問いかけを待っているようにも見えた。これ以上、とくに聞くことはない。春坂がどうするか考えていると、先に相手が口を開いた。

「目当ての物は、見つかりましたか?」

「ああ、うん」

 春坂は回収した教科書を持ち上げると、相手は数回頷いた。

「まだ何か⋯⋯ここに御用はありますか?」

「何で?」

「ここの鍵⋯⋯閉めようかなって思って⋯⋯。だ、大丈夫でしょうか⋯⋯。も、もし⋯⋯まだ御用がおありでしたら、開けておきますけど⋯⋯」

「もう弾かないの?」

「そろそろ⋯⋯帰らないといけないから⋯⋯」

「そっか。なら、いいんじゃない?閉めても」

「わかりました。ありがとうございます」

 相手が軽く会釈して、カーテンを閉めようと窓に駆け寄っていく。それを見て、春坂も音楽室を出た。

 脳内に残るかすかな旋律に浸りながら家路につく。

 道中、ふるえたスマホに目を向ければ、メッセージアプリには結果報告を待ちわびる言葉がいくつも並んでいて、何のことだっけ、と簡潔に返した。

 結局、相手のことはなにもわからないまま。

 ピアノを奏でるシルエットはかろうじて思い出せるのに、声も、何を話したかも、風にさらわれて消えてしまった。

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