第14話 キスシーンの提案。


 昨日の疲れがまだ残っているのか、布団の中でスマホを眺めながら惰性で指を動かす。画面には優璃から飛んできたメッセージが何通も並んでいた。

 深夜……私は完全に寝ている時間だった。何か編集中に事件でも起きたのか——一瞬心配になり、思わず起き上がったものの、並ぶ文字列に力が抜ける。


優璃:ただいま、編集中、編集中! 頭が痛い! 糖分が足りていません!

優璃:ねえ、ナギのシーン可愛い。……それとも、凪沙が可愛い?

優璃:あ、もう限界。明日10時までに起きてなかったら起こしてください。可愛い凪沙へ。


「……まったく、誰が可愛いって?」


 思わず声に出してしまい、枕に顔を押しつける。心配して損した。しかも、これ、私への個人宛てだし。

 ……まだ眠い。けど、むくりと起き上がる。時刻は九時過ぎ。窓から見える優璃の部屋は、カーテンに覆われてよく見えない。

 まあ、寝ていようが寝ていまいが、差し入れくらいはしてあげなきゃな。



    ◇



 外は雨が降りそうな曇り空だった。

 紙袋には、家の近くにあるムーンバックスで買った季節限定のフラペチーノと、ショーケースに並んでいたなんちゃらチーズケーキ。

 中身が崩れないように脇でそっと抱えて歩くと、紙袋の底に集まった結露が指先にひやりと移る。

 優璃の家は、うちから歩いて一分もかからない隣に位置する。インターホンを押すと、優璃のお母さんが対応してくれた。「お久しぶりです」と軽く挨拶を交わすと、


「最近、また面白そうなこと始めたみたいね。昨日、あの子の部屋から奇声が聞こえてきて怖かったのよねえ〜」


 なんだか人ごとではない話をされてしまう。申し訳ございません、私からも迷惑にならないように言い聞かせておきますので……。

 そんな会話をしながら家に入れてもらう。たぶん、その奇声は優璃のうめき声か動画の音声だろう。

 ……そういえば、優璃は神崎さんのことは家族に話したりしているのだろうか。

 ふと、そんなことが頭をよぎる。すると、優璃によく似た笑みで私に囁く。


「あの子は、凪沙ちゃんと付き合うと思っていたわ」

「……はい?」

「ふふ、よく言ってたのよ。私は凪沙と結婚する! って」

「あ、いや、そもそも、優璃は——」

「知ってるわ。彼氏を作る気がなくて、そのアピールで神崎芽美さん……って子と付き合ったって噂を流したんでしょう?」


 私が訂正する必要もなく、ある程度の事情は知っていたらしい。……まあ、そうだよね。


「じゃあ、あの子のこと頼むわね。まだ寝てると思うから」


 階段を上がってすぐにある優璃の部屋の前で、見送られる。高校に上がってから顔を出す機会が減ったけど、あいかわらずな人だ。

 優璃が私と結婚する、ね……。そんなこと、言ってたっけ?

 正直、昔のことはあまり覚えていない。よく優璃と妹に連れ去られて、近くの公園で遊ぶのに付き合わされた記憶が朧げにあるだけだ。


「入るよ」


 一応ノックする。応答なし。がちゃり。中に入る……けど、カーテンを閉め切っているせいか、暗い部屋にパソコンが光り、その光からベッドに膨らみがあるのを確認できるだけだ。


「うーん、むにゃむにゃ、けえきたべたひ……」


 ベタすぎる寝言に苦笑しつつ、カーテンを開けると「んん、まぶぃいよぉ……」とぼやく声が返る。曇り空とはいえ、そのかすかな光に、無防備な寝顔がわずかに眉をしかめる。


「起きて。朝だよ」


 起きてから顔を洗ったり支度をしたりしている間に、時刻は十時を過ぎていた。それでも起きる気配はないので、控えめに頬をつまむ。


「ひ、いたいよぉ……って、なぎさ?」

「そう、凪沙。ご要望どおりに起こしに来たよ」

「う、うぅ、もうちょっと、優しく……おはようのキスはできなかったの?」

「はあ、何言ってんだか……」


 私はため息をこぼしつつ、優璃の机の上にあるパソコンに目をやる。机の端には付箋が色とりどりに並び、メモには何秒にBGMを差し込む——などといった走り書き。うん、頑張ってる形跡がある。お疲れさま。


「とりあえず、差し入れ持ってきたよ」

「えっ……ほんと!? 凪沙、神〜! いや女神〜!!」


 そう言って私が紙袋を掲げると、ベッドから半分起き上がった優璃の目には、疲労と歓喜が同時に灯る。髪はざっくりとまとめたお団子、Tシャツはくしゃくしゃ、それすら絵にする満面の笑み。


「買ったばかりだし、今なら大丈夫だけど、寝起きだし後で飲むなら冷蔵庫に——」

「そんなの、今に決まってるから。あと、ケーキも!」

「寝起きで? すごいね」

「ふふん、舐めないでよね。それに、糖分補給は大切でしょ?」


 べつに舐めてはないけど。朝から重いかと今さら思ったが、そんなことは優璃に関係ないようだった。ベッドから飛び降り、紙袋の中身をがさがさと取り出す。


「で、進捗はどうなの?」

「んぐ……ああ、起こしてもらってアレだけど、動画自体はほとんど完成してるんだよね〜」

「そうなんだ」

「ただ、脚本は凪沙に任せてるわけだしね。BGM一つで雰囲気とかも変わるし、ラストシーンの見せ方に解釈の違いが出たら困るから」

「なるほど……」


 それで私が呼ばれたわけか。フラペチーノを飲みながら優璃はマウスをくるくる回し、出来上がった動画を再生する。椅子を二つ並べて、モニターを横にずらす。

 そうして画面に映るのは、私のモノローグから始まり、最後、視聴者に問いかける選択肢——いつ撮っていたのか、全員を画角に収めたエンドカードが差し込まれるまで。テンポよく動画は再生されていった。


「……うん、いいと思う」

「ほんと? ならよかった。……まあ、頑張ったしね。とーぜん、とーぜん」


 安堵がにじむ言葉の後に、わざとらしく余裕ぶって見せる優璃。だけど、実際よくできている——素直にそう思う。


「そうだね。優璃は頑張ってるよ」

「もうっ、その言い方だと子供扱いされてるみたいで嫌だ」


 ……幼なじみ心は難しい。


「それより、問題はこれからだからね。選択肢の結果が出て、脚本は間に合いそうなの?」


 ビシッと指を差される私。


「“急いで終わらせる”がユウルートで、“ゆっくり終わらせる”がメグルート……だよね?」

「うん」

「問題は、どっちが選ばれるかが読めないってことだけど……」

「どちらにせよ、最初の分岐に関わらず、二人のルートはいずれも用意するわけだし。それをうまく当てはめれば、なんとかなるかな。イメージはなんとなくできてる」

「さすが。もう立派な脚本家の顔つきだね」


 誰のせいでそうなってると思うの——「んんっ、てか、おいしい〜」そんな愚痴は、チーズケーキをおいしそうに頬張る優璃の満足げな表情にかき消される。

 ……まずそうに食べられるよりはいいんだけどさ。のんきなものだ。


「あっ、そうだ」


 次にフラペチーノを堪能する優璃は、ストローをくわえたまま、こちらを横目で見た。


「凪沙、演技に不安があるんだよね?」

「そりゃ、二人に比べたらね」


 そのために台詞や画角に入る回数を極力抑えたわけだし。神崎さんはともかく、せめてもう一人素人レベルの子がいたら心づもりも変わったかもしれないけど……。どうせ優璃はうまくやれるんだろうな、という確信があったから。


「でもね、物語が進めば進むほど……そういうことも言ってられなくなる、と思うんだよね」

「そう?」

「うん。だって一応、恋愛モノの想定でしょ。私と芽美で、その……凪沙を取り合うわけだし?」

「まあ……そうかもね」

「そ、そうだよね? だから……私、ちょっと考えたんだけど……」


 ……なんだろう、この優璃の歯切れの悪い感じは。数日前を思い出す。あのときは恋人ができたと私に報告しに来た。

 じゃあ、今回は、いったい——?


「……キスシーンの練習、しておかない?」


 ——その優璃のとんでもない発言に、一瞬、私の思考は固まってしまった。

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