シーン3 サイクリングプラン


「結局、私はどのようにASMRを演じるのが正解だったのでしょうか?」


「え? 隣に座るように? ……こうですか?」



//ストンと座る音。左耳から声が聞こえる。



「これで、どうすればいいのでしょう? 私、道具などを用意していませんが……え? もたれかかる、ですか?」



//衣擦れの音。やや遅れて、静かな呼吸音。



「こう、でしょうか? それで、次は?」


「次は……ない? このままでいい?……ですか?」



//10秒ほどの沈黙。小さく呼吸だけが左耳から聞こえる。



「分かりました。それでは、このままの姿勢で本題に入りましょうか」


「いや、忘れたのですか? そもそも私の家に来てもらったのは、週末の計画を練るためじゃないですか。サイクリングルートの相談ですよ」


「観光地や話題のお店などには、もうあらかた立ち寄ったと思うのです。もちろん、もう少し遠方に足を延ばせば、まだまだ紹介したいスポットはあるのですが……」


「今回は趣向を変えて、しっかりとコースを決めず、行き先の『町』だけを決めてみませんか?」


「その町で何をするのか、どこを走るのか、いつまで滞在するのか。それは現地に行ってから、気の向くまま、ということで」


「例えば、この村なのですが、航空写真で見てもらって分かる通り、どこまで行っても山と田んぼしかない町です」


「夏になると、カエルの鳴き声が美しいんですよ。ネットでは『うるさい』と書かれることも多いですが、慣れてくるとさほどの音量でもありません」


「想像してみてください」



//カエルの鳴き声が流れる。



「近くから聞こえる、数匹のカエルの歌声。そして遠くからもほのかに届く、無数の声。それら奥行きのある声が、どこまでも続いているように感じるんです」


「その他の不快な環境音は、カエルたちがかき消してくれます。だから、世界に自分たちしかいないような、不思議な気分に浸れるんですよ」


「自転車はどんどん進んでいく。道はどんどん変わっていく。なのに、景色とカエルの声だけは、どこまでも変わりなく追ってくるんです」


「まるで、果てしない無限の空間を走るような、ファンタジックな一夜を体験できますよ」



//耳元、ため息が聞こえる。



「月が出てるなら、きっと周囲は明るいはずです。知ってましたか? 明るさは、絶対的な指標だけで決まるわけではありません。相対的なものも関係します」


「例えば、日差しの強い日にサイクリングしていると、暗いトンネルに入った時、急に真っ暗になったような気がしますよね。でも、夜に走っててトンネルに入ると、むしろ明るい」


「瞳孔の開き具合による錯覚なんですよ。それで、月明かりの夜は、太陽の光より明るく感じるんです。光と影の差が少ないから、ですかね」


「月夜の晩は、遠くの山の稜線すら見えるんです。田んぼに入れば、伸びた稲穂がどこまでも続くのが見えます。遠くに街の明かりも、ぽつぽつと……」


「もちろん月そのものも綺麗ですが、月だけを見て満足するなんて、勿体ないです」



//20秒ほどの沈黙。呼吸音が耳元に響く。

//カエルの声が無くなり、代わりに風の音が鳴り始める。



「月のない夜には、星がいっそう輝きます。他の明かりが無いため、相対的に星が一番明るく感じるんですね」


「周囲も暗く、ヘッドライトが照らす範囲だけが、しっかりと見える範囲。数メートル先さえ見えないので、速度は落としてください。横から何が出てくるか分かりません」


「大丈夫ですよ。進む先は照らしているのです。たとえ誰かがいたとしても、接近すれば発見でき、速度を落としているなら回避できます」


「ただ、そうですね……本音を言うなら、速度を落とすのは安全のためだけではなく、星を眺めたいから、という側面もあります」


「空と地面の境目さえ見えない夜は、まるで空を飛んでいるような気分になります。私のヘッドライトも、その無数の星と同じ。誰かを照らして、反射させる光になる」


「スピードを出すだけが、スポーツ自転車ではありません。時にはランニングのように、時にはウォーキングのように、時にはハイキングのように、時にはピクニックのように」


「……そうですね。お弁当を持っていくのもいいです。自転車を路肩に止めて、しゃがみ込むことさえ、大事なサイクリングの時間なのですから」



//風の音が止む。鈴虫やコオロギの声が、遠くから聞こえる。



「曇りの日ですか? 当然ですが、月も星も見えませんよ」


「田んぼばかりの田舎でも、十数キロほど離れたところには、団地や工場などがあるものです。そしてそれらの明かりは、意外なことに雲さえ照らします」


「上は漆黒の闇。そこから地面に近付くほど、空は濃紺に色を変えるんです。そして、街がある場所の雲だけ、温かみのあるオレンジ色に染まる」


「近くにある物は、輪郭だけハッキリと見えるんです。でも、色は判別できない。全部が影になる世界」


「そんな世界を自転車に乗って旅するのも、とても楽しいですよ。普段知っている道も、知らない道みたいに見えるんです」



//沈黙。虫の声が消える。呼吸の音だけがしばらく続き、ぽつぽつと雨の音がする。



「雨……それもいいですね。この季節の雨は、濡れても寒くありません」



//雨が徐々に激しくなり、叩きつけるように響く。



「大粒の雨は、髪も服も濡らして、水を滴らせます。顔に張り付く髪も、肌に吸い付くジャージも、吸った水を吐き出すレーパンのパッドも、意外と気持ちいいんですよ」


「いつもより空気圧の低いタイヤで、いつもより抵抗の強い路面を蹴って、まっすぐ走りましょう。タイヤが割いた水の層は、矢印のような波紋を描くんです」


「まるで、自転車が船になったみたいで、不思議な気持ちなんですよ」


「え? 濡れたら嫌じゃないのかって? 何が嫌なんです? 寒くないし、気持ちいいって言ったじゃないですか?」


「もしかして、恥ずかしい?」


「私がいますよ。私も隣で、いっぱいずぶ濡れになります」


「他に誰もいませんよ。私しかいないですよ。そんな天気に自転車に乗って、田んぼの中を走るような人」


「だから、二人きりで安心して、いっぱい濡れましょう。いっそ開き直って、二人で川に入って、水をかけあいましょう。貴方が子供みたいに水遊びするところ、私に見せてください」


「……私のも、見られちゃいますね。普段のカッコいいところじゃなくて、恥ずかしいところ、いっぱい」


「でも残念でした。暗いからよく見えません」



//雨の音が止み、空調が少し大げさに風を吐き出す。



「いかがですか? 他にも、いろんなサイクリングプランをご用意しております」


「いわゆるサイクリストの聖地とか、イベントコースとか、町おこしで用意された場所なんかも、もちろん楽しいのですが……」


「あえてそこを外して、自由に楽しむのも、自転車の魅力かと」



//喋り方が徐々にゆっくりになる。



「私だったら、知ってる人が誰もいない、夜の郊外ですね」


「貴方と二人で、自転車に乗って、くたくたで動けなくなるまで走りたいです」


「動けなくなったら、自転車を止めて、抱き合って……誰もいないところで、とっても恥ずかしいこと、しましょう」


「二人で向かい合って、頬を摺り寄せるようにして、抱き合うんです。それで……」


「耳、ふーって、するんですよ」



//呂律が回らなくなる。少しずつ、言っている内容が聞き取れなくなる。



「貴方は、息が上がってるから、私にいっぱいふーするんです。私は、恥ずかしいから我慢します。ふーしてあげないです」



//左耳に向かって、震えるような吐息。



「こんなの、癒しじゃないです。ドキドキして、爆発しそう。癒しじゃない、です……」



//左耳から中心に向かって、衣擦れの音。膝の上に頭が着地する。追加で下から衣擦れの音。寝やすい位置を探るように。



「ん、んんん……」



//以降、安定した寝息。

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