第36話

 深夜。

 ホテルのベッドで眠っていた俺の意識を、鋭い声が突き破った。


『大理さん……起きてください。異常です』


 テオドールの声。

 一体何だっていうんだ。


 目を開くと、窓の外には赤い亀裂が走り、遠くでサイレンが鳴り響いていた。街のどこかで爆発音も聞こえる。


 完全に目が覚めた。


「……何が起きている?」


 すぐにテレビを点ける。暗い部屋に、青白い光が視界を切り裂いた。


「ニューヨーク市内で前例のない異常現象が発生しています」


 キャスターの緊張した声に合わせ、画面には揺れる映像が映し出される。


「ご覧の通り、白い菌糸のような物質がビル群や道路を覆い、市街地を飲み込むかのように拡大しています」


 映像の中で、暗視ドローンが高層ビルの間を旋回する。だが次の瞬間、菌糸が伸びて機体を絡め取り、そのまま墜落。中継が途切れる直前、オペレーターの悲鳴が響いた。


「関係筋によりますと、これは《逆相現象(リバース・フェノメノン)》と呼ばれる可能性があるということです」


 ――リバース・フェノメノン? なんだそれ。頭が痛くなる名前だ。逆転現象みたいなやつか?


「これまでも限定的な規模で観測されたことはありますが、今回のように大都市を侵食する形で確認されるのは史上初です。

 簡単に言えば――“現実そのものがダンジョンに侵食されていく”現象だと見られています」


 ……ダンジョン空間が裏返り、内部が現実を“内臓のように”抱き込み、溶かしていく。頭の中に、そんなグロテスクな光景が浮かんだ。


『大理さん、その直感は非常に的確です』


 ……話しかけてないのに、人の頭を勝手に読むな。


「ただし発生の仕組みや原因は依然として不明で、専門家の解析を待っている状況です」


 報道は硬い声で続いていた。


「現場ではすでにニューヨーク市警と州兵による避難誘導が開始されていますが、市民の混乱は拡大しており……」


 その時、部屋のドアが激しくノックされた。


「大嶋さん、すまない、起きているか!」


 開けると、九条が立っていた。顔は青ざめ、額には冷や汗。呼吸も荒い。


『……過敏反応ですね。ダンジョンの現実侵食に、この人間の身体が過剰に適応しようとしているのです。見た目よりも実際のダメージは高いはずです。戦闘は無理でしょう』


 テオドールが頭の中で冷静に指摘する。


「九条さん……顔色が悪い。無理はできないんじゃないか」


「……そうだな。正直、戦闘はできない」


 本来の口調らしく、九条は淡々と認めた。自分を大きく見せようとしない人だ。


 視線が自然と、点けっぱなしのテレビに向かう。菌糸に覆われていくニューヨークの映像が、ほの青い光で映し出されている。


「現状は把握しているようだな」


「ニューヨークが《逆相現象(リバース・フェノメノン)》? とかいうので、大変なことになってるってことは」


 九条は短く息を吐いた。


「国際PAから協力要請が来た」


 俺はそうなるよな、と思い、黙って耳を傾ける。


「指揮権は北米PAに移っている。だが……私は全面的に信用していない。使いつぶされる危険がある」


 確かに、日本の評価が多少よくなったとはいえ、いいように使われそうな気はした。


「……私も行くべきだと思ったが、今の状態では足手まといになるだろう」


 そう言って九条が問いかける。


「こんな状況で申し訳ないが、今回日本代表チームで動けそうなのは大嶋さんだけだ。あくまで協力要請なので、断ってくれて構わない。その場合、私が責任を取る」


 俺は即答せず、少し息を吐いて答えた。


「ニューヨーク市民を見捨てたら、今後枕を高くして眠れないんじゃないですかね」


「大嶋さん」


 俺は苦笑して肩をすくめてみせた。


「……でも、命あってのものだねですから。無理のない範囲で、可能な限り動きます」


 九条は静かにうなずく。


「……あなたの決断を尊重する。なら――これを使ってほしい」


 彼女はインカムを差し出した。


「ダンジョン物質を使った通信装置で、国際PAからの提供だ。情報共有は私が仲介しようと思う」


「なるほど……?」


「日本はあくまで協力要請に応じる形で、大嶋さんの安全を第一とする。あなたも必ずそうしてほしい」


「わかりました」


「必要な時はこちらから回線を開くし、大嶋さんからも開ける。……気をつけて」






 街に出た瞬間、息が詰まった。


 摩天楼の谷間を白い菌糸が覆い、舗道を侵食しながら車を呑み込み、信号機や街灯が粘つく繊維に絡め取られている。


 路地にはすでに正体のわからない肉塊が芽吹き、呻き声を上げていた。



 ――リバース・フェノメンか。



 《赤龍の晩餐》みたいに“なかったこと”にされるのが常だが、ニューヨークど真ん中じゃ、もう無理だ。






 悲鳴。


 振り返ると、赤ん坊を抱いたアジア系の母親が路地に追い込まれていた。蛆に似た異形が這い寄る。


 俺は槍を振り抜き、群れを裂いた。肉塊が崩れ落ちる。


「走って!」


 母親は何度も頭を下げ、赤ん坊を抱え直しながら避難路へ駆け出していった。


 NY市警が親子を引き取るのを見届け、俺は槍を肩に担ぎ直してその場を離れた。


 


 ……その時だ。耳に、ざらついたノイズが混じった。


「……なんだ?」


 街の轟音に紛れて、かすかに無線の声が割り込んでくる。


 


《大嶋さん、今のは北米PAの無線だ》


 九条の声がインカムから響いた。


《こちらから回線を開いた。戦況の把握に役立ててくれ》


 


 すぐに、整然とした声が飛び交う。


《PA-OPS、ブルーチーム。セクターCに敵群。市民退避を最優先》

《ブルーワン、了解》

《PA-OPS、レッドチーム。セクターEにて迎撃準備》

《レッドワン、了解》

《ゴールドチーム、航空支援を展開せよ》

《ゴールドワン、了解》


 


 次々と交わされる短い声。


 


《こちら九条。北米ランカーたちは指揮系統に入っている。統制は取れているが――物量が加速度的に増している》


 九条の声が僅かに硬い。


 


 頭の中で、テオドールが淡々と告げる。


『本格的に侵攻を開始しただけでしょう』


「これまでは、アウターグッズなんとかも小手調べだったってことか?」


『アウターゴッズです。連中にそこまで明確な思考回路はありませんが――あえて言うなら、フェーズの移行ですね』


 テオドールは他人事のように告げた。



 まあ、こいつ、実際に人外だしな。





 北米の無線がひと段落した直後、別のチャンネルが割り込んできた。


 


《こちら、ドイツ・クラウス。マンハッタン橋の出入口を保持する。……指揮系統には入らない。状況は随時共有する》


 落ち着いた低音。形式ばった応答ではなく、あくまで個人の判断という響き。


 


 続けて、気だるげな声が混じった。


《こちら、フランス・シャルロット。混ぜて欲しくなったら呼んで。……派手に散らしてあげる》


 にやりと笑うような調子に、無線越しでも空気が揺れる。


 


 さらに、怒気を孕んだ声。


《中国・李龍昊だ。目標はβ級“女王”。進路を通せ。邪魔をするな》


 


 それぞれが勝手に動く気配。


 北米のコールサインとは違う、冷淡で個人主義的な響きが耳に残った。


 


 各国ランカーの声が次々と流れては途切れる。


 その合間に、九条の落ち着いた声が響いた。


 


《こちら九条。日本は遊軍として公式要請を受諾。大嶋さんは市街モバイル。国際PAとの情報共有は私が仲介する。……大嶋さん、聞こえているか?》


「了解」


 


《これよりルートを送る。現場の状況次第で撤退も許可する。市民の救出を第一に、無理はするな》


 


 九条の声は硬く、それでいて妙に近く感じられた。


 無線越しでも、彼女の息遣いが伝わってくるようだ。

 瓦礫が崩れ落ちる音と、どこからともなく響く悲鳴が重なる。


 俺は槍を肩に担ぎ直し、九条から送られたルートに沿って街路を駆け抜けた。


 


 視界の先、ビルの壁面が裂け、内側から白いものが溢れ出していく。


 蛆にも似た群れ。だがその動きは異様に統制されていて、あっという間に道路を埋め尽くした。


 本当にエグい。なんなんだこの現実は。


 


『大理さんの直感された通り、リバース・フェノメンとは、ダンジョンの裏返り現象です。その影響、つまり裏返りに伴う現実の貪食活動と申せましょう』


 頭の中でテオドールが冷静に告げる。


 


 逆にこいつのんきだな、と気が削がれた。


 まあこのくらいがちょうどいい。


 


 通りの端では、市民を守ろうとした州兵が呑み込まれていた。


 振り返る暇もなく、兵士の影は蛆の波に溶けて消える。


 


 俺は舌打ちし、加速した。


 助けられる人間だけを助ける。それしかできないが――見過ごすわけにはいかない。


 


 しばらく救助や戦闘を繰り返し、再び街路に足を踏み出すと、遠くからサイレンと爆発音。


 夜のニューヨークが、まるで戦場のようにざわめいている。


 


 耳の奥に、ざらついた声が飛び込んできた。


《……ブルーチーム、セクターC……市民退避を……!》


《レッドツー、応戦中! 増援を……!》


 


 断片的な指示や悲鳴。ノイズ混じりの無線が頭に響く。


 俺の持っている端末が勝手に拾っているのか、それともPAの周波数が漏れているのか――とにかく状況は混乱していた。


 


 そこへ、別の声が割って入る。


《……こちら九条。二回線で送る》


 


 無線とは違い、明瞭な声。俺に直接向けられたものだと直感する。


 


《大嶋さん。敵群体現出を確認。南東ブロックでベクター群が膨張、市警の退避ラインが押し潰される。危険だが、遊軍として対応を頼みたい。ルートはこれから送る。……無理なら撤退で構わない》


 


 向かって片付けた。


 


 その後も九条からクリアな回線が入る。


《こちら九条。大嶋さん、E 34th ストリートにルートを。市警の避難ラインが崩壊している。合流予定の部隊は間に合わない。あなたが行けるなら、お願いします》


「了解」


 


 次から次だが、止まっている時間はない。


 短く答え、俺は槍を担ぎ直す。


 


 走り出すと、街路はすでに異様に歪んでいた。


 アスファルトの隙間から白い菌糸がのぞき、信号機を呑み込み、赤と青の点滅が濁った光の塊になって揺れている。


 道路脇に転がるタクシーの車体にも菌糸が絡みつき、金属を軋ませながらじわじわと溶かしていた。


 


 移動中ルート、遠くで悲鳴。


 駆け込むと、夫婦らしき二人と小さな子供が、倒れたガードレールの向こうに追い詰められている。


 群れの中から伸びた“顔のない人影”のようなベクターが、ぶつぶつと音を立てながら近づいていた。


 


「……」


 無言で踏み込み、触手を展開させた。


 黒い粘液を散らして、影のような個体が崩れ落ちた。

 

 母親が子を抱き寄せ、怯えた声を漏らす。


「た、助けて……」

 

 これ、俺が命ごいされてないか。


『その可能性が高いです』


 テオドールが淡々と言う。


 まあ、仕方ない。

 俺は短く告げた。


「早く避難してください」


 親子はこくこくと頷く。


 子供は、「触手のおにいちゃん、ありがと!」と叫んで、両親に慌てて確保されていた。


 


 親子を警官に託し、俺はすぐさま次の方向へと足を向けた。


 


 更に、無線のノイズが戦場の混乱を伝えていた。


《ブルーチーム、敵影多数! 数が……くそっ、止まらない!》


《レッドツー、避難民護衛ルートが塞がれた! 援護を要請する!》


《物量が加速度的に増えている……このままでは持たない!》


 


 海外勢の声も混じる。


《こちらフランス・シャルロット。洒落にならない数ね!》


《ドイツ・クラウス、前線維持は限界に近い。支援を寄越せ!》


 


 ビルの谷間から溢れ出す蛆の群れ。


 路地を埋め尽くす触手の波。


 街の形そのものが失われていく。


 


 その光景を見ながら、俺はとにかくルートに沿って走る。

 この槍の穂先が届くくらいはなんとかしたい。

 命乞いされたが、触手もあるしな。

 


 戦場の叫びと断末魔が、無線と街路の両方から混じり合っていた。


 市街のざわめきと無線の断片が、戦場の空気を濃くしていく。


 


《こちらブルー、セクターC支えきれない! 応援を要請!》


《レッド、避難民ルートが塞がれた! 再配置急げ!》


 


 断続的に飛び込んでくる通信は、大都市そのものが悲鳴を上げているようだった。


 


 そのとき、別の回線が割り込んだ。


 


《……こちら九条。二回線で送る。ルート方向にβ級個体蛆の女王とその随伴個体群の現出を確認》


 


 低い声が、胸を打つ。


 


「蛆の女王……?」思わず口にした。


 


《かなり大型の個体だ。群れを統制している可能性がある。それと――李龍昊がすでに現場で交戦中だ。孤立している》



 孤立。李龍昊が……?

 


《……撤退してもいい。もう十分だ。まずは自分の安全を確保してくれ》


 敵がどんなものかよく分からない。これまでの違うのか。

 自分の安全も含め、考え込む俺に、テオドールからも補足が入った。


『少々お待ちを。……国際PAの秘匿資料を閲覧しました。記録によれば――蛆の女王ルリム・シャイコース。菌糸体“アブホース”が産んだ上位個体、群体を束ねる支配核とのことです』


 ……つまり、ゲームでいうところの中ボスってことか。


『その理解でよろしいかと』


「あー……じゃあ、リ……ロンハオ一人でやらせたらまずいな。ボス戦はパーティでだろ」


『仰る通り、李龍昊ひとりでは、致命的なリスクがあります。端的に言って、死ぬのでは』


 ……こいつ、あっさり言うな。


『ちなみに――人類が菌糸体“アブホース”と呼ぶべき核を潰さねば、リバース・フェノメノン……ダンジョンの裏返りそのものは収束しないでしょう』


「……あー。まあ、そこは北米PAがなんとかするだろ。……ならなかったら、まあその時だ。とりあえず目の前のことに集中する」


『承知しました』


 九条は、俺が迷っていると理解したようで待っていてくれたらしい。

 詫びて、「向かうのでルートをお願いします」と頼んだ。


《了解。これよりルートを送る》


 数秒後、インカムに簡易マップが同期された。赤で示された経路と、点滅する目標ポイント。俺は槍を担ぎ直し、指示通りに闇の街路を駆ける。


 炎の残光をまとって槍を振るう影が、交差点を覆う蛆を薙ぎ払っていた。

 李龍昊。


 その背中を見た瞬間、俺は思い出した。

(……模擬戦のとき、あいつに辛辣に言いすぎたよな)


 頭の中で、テオドールが即座に返す。

『? 勝つために合理的な判断でした』


「そういうことじゃねーんだよな」

 低く呟く。


『……李龍昊に借りがあると?』


「あるんだよ」


『ないのでは? いつの間に負債の生じるような交流を?』


「……お前、ほんと黙れ」


 苦笑して、槍を構え直す。人外、機微がわからんすぎるだろ。

「行くぞ!」


 蛆の群れを裂き、赤い槍の男のもとへ駆け込んだ。

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