第4話京都大学・教授室・昼
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### 『曽根崎心中 anone - あのね -』
### 第三話:断罪者
**1. 京都大学・教授室・昼**
重厚なマホガニーの机。壁一面を埋め尽くす専門書。
佑樹は、指導教官である教授の前に、硬直して立っていた。教授の顔には、かつての温和な笑みはなく、失望と侮蔑の色が浮かんでいる。
**教授**
「斎藤君。君には期待していたんだがね……」
教授の手元には、数枚の写真が置かれている。佑樹が人目を忍んで『桔梗屋』を訪れた夜の写真だ。
**佑樹**
「先生、これは……何か誤解が……」
**教授**
「誤解かね? 私の娘、美咲からすべて聞いているよ。君が祇園の芸妓に現を抜かし、学問を疎かにしていると。婚約者である彼女を裏切り、あまつさえ、私の顔にまで泥を塗る行為だ」
言葉が、一方的に佑樹を打ちのめす。
弁解しようにも、写真という「事実」が彼の口を封じる。美咲が仕組んだ罠だ。あの完璧な笑顔の下で、彼女は着々と断罪の準備を進めていたのだ。
**教授**
「来年から予定していた、君の海外派遣の話は白紙に戻す。それから、君が筆頭著者で進めている論文だが……共同研究者の名前を第一に持ってくるように。君は、そのサポートに回りなさい」
それは、研究者としての死刑宣告に等しかった。
自分の名前で業績を発表できなければ、この世界では生きていけない。佑樹の野心も、未来も、音を立てて崩れていく。
**佑樹**
「そ、そんな……! 先生、お待ちください!」
**教授**
「見苦しいぞ、斎藤君。自分の蒔いた種だ。少し頭を冷やしたまえ」
冷たく言い放ち、教授は佑樹に背を向けた。
研究室を出た佑樹は、呆然と廊下に立ち尽くす。仲間だと思っていた大学院生たちが、遠巻きに彼を見て囁き合っている。噂は、もう広まっているのだろう。
社会的な繋がりが、一本、また一本と断ち切られていく感覚。美咲という「断罪者」の冷徹な刃が、確実に彼の社会的生命を絶ちにかかっていた。
**2. 祇園・置屋『桔梗屋』・昼下がり**
静かな昼下がりの置屋に、不釣り合いな緊張が走っていた。
帳場に座る女将の前に、黒いスーツの男を伴った美咲が、毅然とした態度で立っている。
奥の部屋では、佐知子(菜々美)が息を殺してその様子を窺っていた。
**美咲**
「桔梗屋の女将さんで、いらっしゃいますね。私、斎藤佑樹の婚約者、美咲と申します」
挨拶もそこそこに、美咲は本題に入る。隣に立つ男は、彼女の家の顧問弁護士だった。
**女将**
「これは、ご丁寧に……。して、何の御用どすか」
女将は、花街の女の嗅覚で、面倒事の匂いを嗅ぎ取っていた。
**美咲**
「単刀直入に申し上げます。お宅の芸妓、佐知子さんに、うちの佑樹さんが入れあげて、大変迷惑しておりますの」
**弁護士**
「婚約関係にある男性を不当に誘惑し、金品を要求する行為は、法的に見ても問題がありまして……」
弁護士の言葉に、女将の顔色が変わる。
**女将**
「何を言わはる! うちの佐知子は、そんな不始末な子やありまへん!」
**美咲**
「あら、そうですの?」
美咲は、ハンドバッグから分厚い封筒を取り出し、帳場台に叩きつけるように置いた。
バン、という乾いた音が響く。
**美咲**
「こちら、手切れ金として500万円。これで、うちの佑樹さんとは金輪際、関わらないと約束していただきたい。もしお受け取りいただけないのなら、こちらも法的な手段を講じるまでですわ」
500万という金額に、女将の目がくらむ。
金銭第一主義。それが彼女の信条だ。芸妓一人のプライドより、置屋の経営が大事だ。女将が、その金に手を伸ばしかけた、その時だった。
すっ、とふすまが開き、佐知子が姿を現した。
**佐知子**
「お待ちください、おやかたさん」
場の空気が凍りつく。
佐知子は、美咲の前に進み出ると、静かに、しかしはっきりと告げた。
**佐知子**
「そのお話、お受けできまへん」
**女将**
「佐知子! あんた、何を…!」
狼狽する女将を、佐知子は視線だけで制する。
彼女は、美咲をまっすぐに見据えた。社会のルールを体現する「断罪者」と、そのルールから逸脱した「商品」の対峙。
**佐-知子**
「うちかて、芸妓どす。うちには、うちの誇り(プライド)がおす。恋心をお金で売り買いするような、安っぽい真似はできまへん」
芸妓のプライド。
それは、この花街で生きる女たちが、自分を守るための最後の鎧だった。美咲が振りかざす法律や常識では、決して踏み込めない聖域。
美咲の完璧な表情が、初めてわずかに歪んだ。計算外の反撃だった。
**美咲**
「……結構ですわ。その言葉、後悔なさらないように」
美咲は、吐き捨てるように言うと、弁護士を伴って去っていった。
嵐が過ぎ去った置屋に、重い沈黙が落ちる。
**3. 桔梗屋・佐知子の部屋・夜**
女将は、佐知子の部屋に乗り込み、怒りを爆発させた。
**女将**
「あんた、何を考えてるんや! 500万やで! あれを受け取っとけば、丸く収まったんやないか!」
**佐知子**
「丸くなんて収まりまへん。あの人は、うちを潰すまでやめはしまへん」
**女将**
「そやから、言うたんやないか! あの京大の先生となんか、関わるから…!」
女将が、なおも何か言おうとした時、佐知子は静かに口を開いた。
その声は、氷のように冷たかった。
**佐知子**
「おやかたさん。あんたは、うちを『商品』や言うた。せやけど、あんたには、うちの値打ちが分かってへん」
**女将**
「……なんやて?」
佐知子は、ゆっくりと立ち上がる。
15歳でこの世界に売られ、女将に支配されてきた少女の姿は、そこにはもうなかった。
絶望の淵で、自らの価値に気づき、それを武器に変えることを決意した「怪物」が、そこに立っていた。
**佐知子**
「あの斎藤佑樹いう男は、ただの大学院生やない。京都の名家の娘が、500万もの手切れ金を払ってでも手に入れたいと思うほどの『資産』なんどす」
「そして、そんな男を惚れさせたうちには、それ以上の価値がある」
女将は、佐知子の気迫に押され、後ずさる。
目の前の少女が、自分の理解を遥かに超えた存在であることに、ようやく気づき始めていた。恐怖が、背筋を駆け上る。
**佐知子**
「おやかたさん、あんたには、この店を切り盛りする才覚はもうない」
佐知子は、凍るような笑みを浮かべた。
それは、下剋上の狼煙だった。
**佐知子**
「心配せんでええ。あんたが大事にしてるこの店……」
**「――私が、買うてあげる」**
その言葉は、置屋の女将という立場、花街の古い価値観、そして自分を縛り付けてきたすべてのものに対する、宣戦布告だった。
愛憎劇の裏側で、一人の少女が、世界を乗っ取るための第一歩を、静かに、しかし確かに踏み出した。
(第三話・了)
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