【完結】あなたを守っていたのは契約だからであって護衛の私に求婚されても困りますし、勝手に王子へ喧嘩を売らないでください

太田丙有

第1話 護衛の日常と襲撃者

「次の仕事が終われば、お前は自由の身だ」


 帳簿に書きつける手を止めることなく、若き実業家、32歳になるクレイグ・ハートウッドは独り言のように言う。


 この部屋にいるのはクレイグと、壁際で直立不動の姿勢を崩さないエイナのふたりだけだ。


 クレイグは顔を上げ、目にかかる金色の前髪を指で払う。

 力強い緑色の瞳でエイナをまっすぐ射貫く。


「なにか言ったらどうだ?」

「言うことはありません」


 エイナは前を向いたまま答える。


 彼女はクレイグの12歳年下、20歳。

 深緑色の瞳と、栗色の髪。髪は後頭部の高い位置でひとつに結び、毛先は首筋をかすめる。

 黒色の男物の服に、こげ茶色の革でできた胸当てを身に着ける。体格は決して良くないが、一切の隙のなさは護衛としての練度の高さをうかがわせる。


「1年前にお前と契約してから、俺たちは多少なりとも信頼関係を築けていると思ったが」

「幻想でしょう。私とあなたの間にあるのは契約と給金です」

「幾度も同じ夜を過ごしただろう」

「護衛として主人を守るために寝室で番(ばん)をしたことがありますね」

「俺の裸を見たことあるだろう」

「あなたがシャワーを浴びているときに襲撃されましたからね」

「まったく、つれないな」


 クレイグは肩をすくめ、再び帳簿に視線を落とす。

 エイナはいつものクレイグの軽口に付き合わされ、若干の疲れを感じて短くため息をつく。


 冬の夜だった。クレイグの執務室は暖炉の火で温かく、ランプが、机や各壁に設置されていて明るい。調度品は豊かさを象徴するように華やさを添えている。

 王都内の好立地に立てられているこの豪邸は、貴族から買い取った由緒ある建物だ。外観もさることながら、内観も豪華絢爛の一言である。


「そうだ、エイナ」


 クレイグは再び顔を上げてエイナを見る。

 エイナはいつものように無言で主人の言葉を待つ。


「次の商談では、いつもの傭兵の服ではなく、正装で行ってもらう」

「正装ですか。私兵の軍服ですか? 着慣れない服は仕事に差し支えあるので避けたいのですが」

「いや、ドレスだ」

「は?」

「とうとう俺も王室への出入りを許されるようになったんだ。そこで、お前の話をしたら――」


 コンコン


 クレイグの声はノックの音にさえぎられた。彼は不機嫌さを丸出しにして「なんだ」とドアの向こうへと返事をする。


 エイナはわずかに漏れる殺気を肌で感じた。

 目をスッと細め、腰に下げたナイフを音もなく取り出す。そのまま足音を立てずにドアの横の壁に張り付いた。


 その様子に、クレイグは椅子をそっと引いて机の下に隠れた。


 ドアノブがガチャッと音を立て、ドアが勢いよく開く。


「死ねェクレイグ! 俺から客を奪いやがって!」


 そう叫びながら、初老の男が部屋へ飛び込んできた。

 手に持った拳銃を突き出し、クレイグがいた机の方へ向ける。


「ああっ? どこに消えやがっ」


 男が引き金に指をかけた瞬間、ドア横の壁際で気配を殺していたエイナは、背後から近寄ってナイフをふるった。

 拳銃を握る手の甲の腱、肘の腱を素早く断ち切り、反対の手首も切り裂いて両手の機能を奪う。


 銃が床に落ちるのと、男が叫び声をあげるのは同時だった。


「は、え、っああああ! 手が! 俺の手がァアアア!」


 混乱しながらも拳銃を拾おうとするが、利き手はだらりと垂れ下がり、反対の手は銃を拾えず床を撫でるだけ。傷口から血が噴出し、見る見るうちに赤い汚れが広がっていく。

 男は周囲を見渡して、ようやくナイフを握るエイナを見つけ、血走った眼で突進する。


「クソガキ、てめぇかぁッ!」


 エイナは男と接触する直前に足を引っかけ、勢いを利用して横から体重をかけて床に転がす。

 うつ伏せにして背中の一点に膝をつけ、全体重をかける。手と腕の機能を奪われた男は、傷の痛みにうめくだけで立ち上がれない。


 床に這いつくばりながら、半狂乱で叫び続ける。


「てめぇ! おいクレイグ、卑怯野郎! 姿を見せろ! お前がッ、お前のせいで、俺の商売が、家があああああ!」


 男が無力化したことを確認したエイナは、クレイグが隠れた机を見る。

 手だけを出してひらひらと振っているのが見えた。


 ――『殺してよい』の合図。


 エイナはナイフを持ち直し、転がった男の首と床の間にナイフを差し込む。男がよける間を与えることなく、腕を引いて喉を水平にかき切る。


 血が勢いよく噴き出した。

 男は憤怒の表情のまま固まり、すぐに全身が脱力した。見開いた瞳から光が失われる。


 エイナはハンカチでナイフに付いた血を拭きながら、言い訳のように言う。


「血を出さないようにしたいのですが、私は男性に対しては筋力面で劣るので、どうしても露出している場所を切る形になりますね」


 クレイグは何事もなかったかのように椅子に座ると、頬杖をついてエイナと男の死体を見る。


「掃除をするのはハウスメイドだ。それに血を抜いた方が運ぶときに軽くなるだろう」

「誤差ですよこんな量。リンゴ2個分くらいの重さです」


 エイナはナイフを腰のホルスターにしまうと、男のすぐわきにしゃがんだ。

 男のまぶたを丁寧に閉じた後、両手の手のひらを胸の高さで合わせる。


 エイナは幼少期に傭兵集団に拾われ、そこで戦闘技術を叩きこまれた。傭兵集団は東洋の宗教に属しており、死体に対して手のひらを合わせて弔う習慣があった。

 宗教のことはわからなかったが、エイナもいつしか手を合わせるようになった。

 決して許されない行為であることを、自分に言い聞かせるために。ためらいなく命を奪える自分の異常さから目を背けないために。


 クレイグはエイナの儀式が終わるのを、いつも無言で見守っていた。


「……処理を頼んできます」


 エイナは部屋を出て行き、いつものハウスメイドを見つけて呼びかけた。

 すぐにメイドが6人やってきて、死体を布と油紙で手早く包み、床の血をあっという間に拭き上げる。


 エイナは仕事の終わったメイドのためにドアを開け、去って行く背中に向けて「汚してごめんなさい」と小声で謝る。

 メイドたちは振り向いて会釈して、元の持ち場へと帰って行った。


 ドアを閉めると、先ほどの騒ぎが嘘のように、全ての痕跡が消えていた。


 クレイグはメイドたちが処理をする間、恐ろしいほどの集中力で仕事を続けていた。

 一区切りついたのか、ペンを置いて伸びをする。


「さて、もう終わるか」

「クレイグ様、先ほどの話ですが」


 仕事が終わるのを待って、エイナは口を開いた。

 クレイグは怪訝な顔をする。


「なんの話だ?」

「ドレスうんぬんの件です」

「ああ、その話か」


 クレイグは得心して説明する。


「王室の管理官が言うには、護衛であっても女性であれば、王城内はドレス着用が義務だと」

「あなたに2つの目があるでしょうか? 先ほどの襲撃の対応、裾の長い服で対応できると思っていますか?」

「義務だからなぁ」

「それでしたら私は同行を辞退します」

「見せてくれないのか、エイナのドレス姿を」

「契約に含まれていません」


 エイナは心底軽蔑した表情でクレイグを見る。クレイグはその表情すら面白そうに受け止める。


「固いことを言うな」

「そういった着せ替えの趣味がおありなら、専用の女性を雇ってはいかがでしょうか?」

「お前の姿が見たいと言っているのだが。ならば、こうしよう」


 クレイグは引き出しから小箱を取り出した。

 エイナに向かって歩きながら、中身を取り出して小箱を床に捨てる。


 彼が手にしていたのは指輪だった。シルバーの繊細な環の頂点に、透明の宝石が輝いている。

 それをエイナに差し出して言う。


「護衛としてではなく、妻としてならドレスを着てくれるか?」

「……なんの話ですか?」

「俺の妻になってくれ」


 エイナは眉根をぎゅっと寄せ、口の端を限界まで下げ、汚くて醜くて愚かで哀れななにかを見るような侮蔑の視線でクレイグを見上げた。


「正気ですか?」

「俺は正気だし、いまはすこぶる機嫌がいい」

「仮にあなたの精神が正常だとして、私がこの提案を受けると思っているのですか?」

「当たり前だろう」

「根拠は?」

「お前は俺のことが好きだろう?」


 エイナは頭痛と眩暈を感じ、両手でこめかみを抑えた。

 これ以上の会話を諦め、声を絞り出す。


「……本日の仕事は終わったと思いますので、自室に下がらせていただきます。夜間の護衛担当がもう外で待機しているようですし」


 背を向けようとしたエイナに、クレイグが声をかける。


「最後に、少しだけ雑談をしていかないか?」

「辞退いたします」

「どれほども時間をとらない。ソファに座って、紅茶1杯だけ付き合ってほしい」

「……1杯だけですよ」


 エイナはクレイグとの1年の付き合いから、彼がしつこい誘いは断り続けるより受けたほうが早いと学んでいた。

 苛立ちをため息とともに吐き出し、示されたソファに座る。


 しかし、このときのエイナは気付いていなかった。

 クレイグがこの若さで王室とのつながりを持つほど事業を成功させたのは、天才的な営業手腕、すなわち話術によるものだった。


 エイナを長時間引き止め、会話で疲弊させて判断力を奪い、言いくるめてドレスを着せることくらい、クレイグにとって容易(たやす)いことだった。

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