俺は最近、見えない何かに監視されているような感覚に悩まされていた。


一人暮らしを始めて5年。仕事は順調で、生活も安定している。広くはないが快適なワンルームで、これまで特に不安を感じることなどなかったのだが…。


夜遅くに帰宅し、シャワーを浴び、ビールを飲みながらニュースを見る。その後、ベッドに横になり、スマホを眺めながら眠る。そんな平凡な日常が続いていた。


俺は帰宅すると、妙に部屋の空気が重いことに気がついた。換気をしても、湿ったような気配が消えない。


静かすぎるほどの静寂に包まれたこの部屋で、1人でいるはずなのに、誰かがそこにいる様な感覚が拭えなかった。


パソコンで作業をしていると、背後に視線を感じた。だが、振り返っても誰もいない。気のせいだろうと再び作業に戻るが、その感覚が消える事はなかった。


         * * *


ある夜、ベッドに横になったとき、部屋の隅から小さな音が聞こえた。


「ヒュゥ……」と何にか空気が漏れるような音。


古いマンションだから何かあるのかもしれない。最初はそう思っていた。だが、その音は毎晩聞こえるようになり、少しずつ大きくなっているような気がした。まるで、何かがこちらに近づいてくるように…。


         * * *  



それから半月ほど経った夜、また視線を感じて目が覚めた。壁の隅の暗がりが、わずかに揺れている。


思わず息を止めた。その瞬間、耳元でまたあの小さな音がした。


「ヒュゥ……」


全身の毛が逆立つ。心臓が跳ね上がり、思い切ってベッド脇のランプのスイッチを震える手で押し、部屋の灯りをつけた。


その瞬間、「影の様なもの」がスッと動いた気がした。だが、部屋には何もいない。


しばらく呼吸を整える。


錯覚だ。


疲れているせいだ。


そう思おうとするが、体の震えが止まらなかった。



         * * *



それから1ヶ月くらい経った夜、また真夜中に目が覚めた。


心臓が早鐘を打ち、息が荒い。


喉が乾いている。嫌な汗が背中にじっとりとまとわりつき、シーツに染み込んでいる感触が気持ち悪い。


またいつものあれだ。仰向けのまま、ぼんやりと天井を見つめた。時計を見ると午前2時過ぎ。


誰かに見つめられているような感覚が全身を支配していた。


足元の方から何か「影の様なもの」が佇んでいる気配がする。


耳を澄ますと、また聞こえた。


「ヒュゥ……」


壁の隅で空気が漏れるような音。「影の様なもの」が確実にいる。


息を飲む。


だが、どうすることもできない。


またか。気のせいだ——。


そう自分に言い聞かせながらも、震える手でベッド横のランプのスイッチ探る。


指先がスイッチに触れた。迷ったが、一気に押した。


光が部屋を照らした。


そして、俺はついにそれを見てしまった——。


部屋の片隅。家具の影が落ちる、ちょうどその境界の暗がりに、それはいた。


体育座りをしたまま、こちらをじっと見ている。


全身が黒く、人の形をしたそれは立体的な「影の塊」のように見えた。


目や口といったものはない。


なのに、それが自分を見ていることは明らかだった。


全身が凍りついた。


喉が詰まり、声が出ない。


体が動かない。心臓だけが激しく脈打つ。


「影の塊」は動かない。


息が詰まりそうになるほどの威圧感が俺を包み込んでいた。


耐えきれず、手元のスイッチを押した。


ランプの光が消え、部屋は再び闇に包まれる。


目を閉じた。


──だが、暗闇の中でも、その気配は消えなかった。


布団の中で、俺は天井を見つめながら浅い呼吸を繰り返していた。


部屋の片隅。体育座りをした「影の塊」。


明日は早朝から大事な出張が控えている。


5時には起きないといけない。


福岡行きのフライトは午前7時。


今寝なければ、体が持たないだろう。


「……寝ろ……寝るんだ……」


自分に言い聞かせながら目を閉じたが、意識は一向に沈まらなかった。


結局、夜明けまで一睡もできなかった。


空が白み始める頃、俺はベッドから起き上がった。


疲労で頭がぼんやりとしているが、幸い「影の塊」はもうそこにはいなかった。


鏡を見ると、顔は青白く、目の下には深いクマができていた。


熱いシャワーを浴びても、コーヒーを飲んでも、体の重さは消えなかった。



         * * *



空港に到着したのは、チェックインが始まる直前だった。眠気と疲れでふらつく足で、保安検査場へと向かう。


ここまで来ればもう大丈夫だ。飛行機に乗ってしまえば、機内で少しでも眠れるだろう。


そう思いながら、手荷物を検査機に通し、ゲートに進もうとしたそのとき。


足が止まった。


目の前にあの「影の塊」が体育座りしていたのだ。


そして、あの音まで聞こえた。


「ヒュゥ……」


背筋が冷たくなる。


目を凝らした。


それは、じっと俺のほうを向いていた。


息が詰まる。心臓が早鐘を打つ。


「……嘘だろ……?」


足が震えた。


夢ではない。


「影の塊」は確かにここにいる。


周囲の人々は誰も気づいていないようだった。


誰も振り向かないし、何事もなく行き交っている。


「俺しか見えないのか?」


視線を逸らそうとしても、体が言うことを聞かない。


「影の塊」の存在が、無言の圧力となって俺を押さえつける。


脳が危険を訴えていた。


ここにいてはいけない!


飛行機に乗ってはいけない!


逃げろ!


その考えが頭の中を埋め尽くした瞬間、俺は駆け出していた。


人を避けながら、空港のロビーを必死に走る。



         * * *



空港を飛び出した俺は、駅前のカフェで息を整えていた。もう仕事どころではなかった。


手はまだ小刻みに震えている。


ホットココアを飲んでも、その震えは止まらなかった。


「……なんだったんだ、あれ……」


喉が渇いていた。カフェの店内は人で賑わい、日常の喧騒が広がっている。


誰も異変には気づいていない。


ただ、自分だけが別の世界に取り残されたような感覚だった。


「影の塊」は、何だったのか?


あの「ヒュー」と言う音の正体は?


なぜ自分を追ってきたのか?


気を紛らわせようと、スマホを取り出し、Yahooのニュースサイトを開いた。


その瞬間、息が止まった。


画面に映るYahooニュースのトピックの文字が目に飛び込んでくる。


「福岡行きの123便、着陸に失敗 乗員乗客全員死傷か—」


指が止まる。


心臓が跳ね上がる。


ニュースの詳細を開く。


そこには、炎を上げる着陸に失敗した飛行機が映し出されていた。


……嘘だろ……?


呼吸が浅くなる。


その便は自分が乗るはずだった便だったのだ——。


123便の機体は上空でなんらかの重大なトラブルにより、操縦不能となり市街地の畑に墜落しました。

その後、燃料が引火して大規模な火災が発生し全焼。


現在、消防により懸命な救助が行われていますが、乗員乗客の遺体の損傷は激しく、身元確認には時間がかかる見込みです


俺は手のひらに滲む汗を無視して、今度はXを開いた。


そこ野次馬が撮ったであろう、墜落現場の写真が拡散されていた。


防衛レンズで撮ったのだろうか?


やけに距離が近く鮮明だ。


消化後の機体の残骸。


変わり果てた乗客の姿。


その瞬間、心臓が飛び出そうになった。


画面にはっきりと映っていたのは、体育座りをした真っ黒に炭化した遺体。


それは「影の塊」と同じ姿をしていたのだった。


脳が理解するより先に、全身に鳥肌が立った。


喉がカラカラに乾く。


口の中が苦くなる。


頭がぐらぐらする。


「……助けられたのか?あの『影の塊に』」


思わず呟いた言葉が、自分でも信じられなかった。


「影の塊」は、俺をここから遠ざけようとした警告だったのだ。


俺は助かったのだ。


しかし、次の瞬間、画面の中の炭化した死体と、部屋の隅で体育座りしていた「影の塊」が、ゆっくりと頭の中で重なっていく。


吐き気がこみ上げ、視界が歪む。


指先から力が抜け、スマホが床に落ちる音がやけに大きく響いた。


周囲のざわめきが遠のいていく。


思考がぐちゃぐちゃに混ざる。


視界が真っ暗になる。



         * * *



気がつくと、俺はベッドの上に横たわっていた。


……夢か…よかった…。


めちゃくちゃリアルだったな…。


それもすごく長かったな…。


段々と意識がはっきりしてくると、強い消毒液の匂いが鼻をつき、微かに機械の電子音が響いていた。


体が重い。


鈍い痛みが全身を包み込んでいる。


……なんだ……?


ぼんやりとした意識の中で、ゆっくりと視線を動かす。


全身が包帯で覆われていることに気づいた。


両腕も、胸も、足も。全身を巻かれているようだった。


……俺……?


頭が回らない。


どうしてこんなことになったのか…


痛む右手をゆっくりと動かしながら、左腕の包帯に手をかけた。


恐る恐る、それを剥がしてみる。


包帯を一枚、また一枚とめくる。


そこに現れたのは——


炭化した真っ黒な肌だった。


「ヒュゥ…」


俺は絶叫したが、声帯が激しく損傷しているらしく、声にならかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る