サリア

 幼かったミモザとベルテは敷地内の様々な場所を探索したが、特に二人がよく訪れていた場所が、森の中に在る小川だ。


 浅く流れる水は美しく、よく見れば小魚や虫など様々な生き物が隠れている。


 魚を釣って食べるようなことはしなかったが、綺麗な石を見つけたり、草で作った船を流してみたり、二人は夢中になって川で遊んでいた。


 過去への調査を開始してからも、二人は毎日、川へ出かける。


 今は季節も冬で川だって凍りかけるほど冷たい。


 そのため、子どもの頃のように遊んだりはしなかったが、代わりに身を寄せ合って他愛のないお喋りをするのが二人にとっては堪らなく幸せだった。


 しかし、二人が川の方へ向かうとトレーはスッと道をそれ、どこか別の場所へと去ってしまう。


 川へ向かうミモザたちをチラリと見る瞳は暗い感情に侵されて濁っていて、すぐに視線を逸らすのが印象的だった。


 犬井は当然ながらトレーを放っておけない。


 彼の方へと向かうから、いつも四人は調査の途中で二手に分かれ、そのまま解散するようになっていた。


「トレーは川が嫌いなの?」


「好きだと思うか?」


「思わないけど、なんとなく。魔獣小屋に帰るの?」


「ここ最近、まともに世話できてないからな。もう少しアイツらのこと構ってやらないと」


「トレーは優しいね」


 柔らかな声が微笑んで言う。


 トレーは思わず立ち止まり、不機嫌な表情でマジマジと犬井の顔を見つめた。


「何が」


「何って、毎日ミモザ様たちに付き合ってるところかな。あんまり協力はしてくれないけど、でも、ミモザ様たちが心配だから毎日ついてくるんでしょ。優しいと思う」


「違う」


「違う?」


「ああ、違う」


「何が違うの?」


 素朴に出された犬井の問いに、トレーは何も答えなかった。


 しばし、冷たい沈黙が流れる。


「ねえ、トレー」


「なんだ?」


「何でもない。話しかけたかっただけ」


「そうか」


 調査中は特に、トレーの声、言葉がぶっきらぼうで硬い。


 おまけに、家に帰ってからも一人で物思いにふけって無口になることが増えた。


 犬井がじゃれてもあまり反応は帰ってこず、お喋りにも付き合ってくれない。


 ここ数日、犬井は寂しさとつまらなさを感じていた。


 だからだろうか。


 犬井は心のすき間を埋めるようにギュッとトレーに抱き着いた。


「どうした?」


 唐突な犬井の行動に目を丸くしたトレーが問う。


「寒くなった。抱っこ」


「マオはそんなに寒がりじゃないだろ」


「寒がりだよ。くっつきたい」


「別にいいけど、動きにくいから手を繋ぐので我慢しろよ」


「分かった」


 トレーの大きくて冷たい手の中に自分の小さくて暖かい手を潜り込ませる。


 彼が自分の手をキュッと握り直したのが、何だか愛しくて堪らなくなった。


 少しだけ自分の体温を上げ、ブンブンと尻尾を振る。


「トレー、いつか内緒のお話を聞かせてね」


「何のことだよ」


「トレーが今、隠していることだよ。何か、話したくなくて内緒にしていることがあるんでしょ」

「なんで、そう思うんだよ」


 落ち込む瞳が曇る。


 犬井はトレーの瞳を覗き込まないまま、フルフルと首を横に振った。


「知らない。なんとなく」


「なんとなくでテキトーなこと言うなよ」


 トレーは犬井と違って嘘を吐けないわけではないが、それは、必要な時、最小限にしか使わない。


 トレーが隠し事の存在そのものを否定せず、曖昧に誤魔化したこと。


 それこそが、犬井の言葉を肯定していた。


 ところで、犬井たちは魔獣たちの世話をするために魔獣小屋へと向かうことになったわけだが、実は、森からそちらへ真っ直ぐと向かうわけではない。


 道具を取りに行ったり、あるいは一度家屋の中で温まり、小腹を満たしたりするために、二人は自分たちの小屋へ戻ることとなっていた。


 鍵自体が存在しない小屋のドアはスルリと抵抗なく開く。


 犬井とトレーは、中にいる人物に目が丸くなった。


「あれ? ミモザ様たち、なんでここに? それに、ミモザ様……」


 呆気にとられる犬井を見て、ベルテの表情が申し訳なさそうに曇る。


「人の記憶って、なくなるのも復活するのもあっという間で唐突なんだね」


「何か、思い出したんですか?」


 問いかける掠れた声はトレーのものだ。


 ベルテは小さく頷いた。


「きっかけは、本当に些細な事だったんだ。川の向こう側に見えた雪の塊が何かに似てるって、それでね、『サリア』って名前を口走った。そこからは芋づる式だ。ドンドン記憶を掘り起こして、辛かった部分まで全部思い出してしまったらしい。今は混乱して泣いている。落ち着くまで、ここにいてもいいかな?」


 改めて見たベルテは大切そうに、守るようにミモザを抱えている。


 ミモザはベルテの胸の中で大粒の涙を溢し、時折、彼の名前を口走りながら泣きじゃくっていた。


「今の状態のミモザじゃ、まともに話をできない。だから、僕は彼女の過去が分からない。ミモザは何を思い出しているんだろうね。なにが、そんなに苦しかったんだろうね」


 ミモザの頭を撫で、痛ましそうに彼女を見つめる。


 静かな小屋の中、響く幼子のような泣き声にトレーは真っ青な顔で立ちつくしていた。

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