第22話 俺はそういえば前野裕貴だった

届いたピアノが、部屋の隅に鎮座していた。


俺はさっそく電源を入れ、白い鍵盤に指を置く。


「えっと……Cコード、Gコード……」


ポロン、ポロン。


「作曲はできるのに弾けないんかい」


後ろから翔のツッコミ。


「作曲は耳コピして、ソフトでポチポチやるだけだからな。実際に弾くのは全然違うな」


「まぁ、どんな楽器でも最初はそんなもんだ。」


「うーん……指が動かねぇ。そういえば翔ってピアノ弾けるの?」


「専門じゃないが、多少はな」


そう言って、翔は俺の隣に腰を下ろした。

手が、静かに鍵盤へ伸びる。


――ポロロン。


その瞬間、空気が変わった。

軽やかで、繊細で、それでいて確かに“音楽”として成立している。

即興のはずなのに、まるで最初から完成された曲のようだった。


「まぁ、こんな感じだ。俺はどちらかといえばギターの方が得意だがな。ピアノは真桜の方が上だ」

(きまったな……この流れで教えてあげようか?っていってだな…)


「……やっぱり翔って天才だな」


「……!?な、なに!?」


「俺が“うーん”って言いながら練習してたとこを、一瞬で弾きこなすし……すげぇよ。ほんとに才能ある」


「い、いや……! 俺や真桜は昔から英才教育を受けてただけだ!なっ!」

(くっ……!?今までの恋愛テクが全然通用しねぇ!!!)



「そういえば裕香、なんでピアノなんか買ったんだ?作曲ならパソコンだけでもできるだろ」


「えっと……そんな大した意味じゃないんだけどな、

夏休みに暇なときにちょうどいいし……白石さんと、もっと仲良くなれたらなって」


「ほうほう、なるほど……んんん!?今なんて言った!?」


「え?……いや、この前楽器屋で白石さんに会って、ピアノ勧められてさ……」


「…………なるほど……」

(まてまてまて……俺の知らないところで他の人と仲良くなってんじゃねぇよ!!ちくしょう、共有の趣味なら俺のほうが多いはずだろ!?)


「まぁ……友達と仲良くなるのも大事だしな」

(落ち着け……恋愛は、長期戦だ……焦るな……)


「そ、そうだな」


最近の翔は、なんとなく落ち着きがない。

俺、なにか変なことしたかな……?女子としておかしい行動してたらどうしよう。


「作曲も久しぶりにしたいが…

あ、そうだ……データ、前のパソコンにあるんだった。アパート、どうなってるかな」


「そういえば、あれ以来行ってないな」


「くぅ……正直、嫌なんだよな。あのアパート……両親のこと、思い出すから」


あれから二ヶ月…両親はまだ行方不明のまま。

もっとも生きてるのか死んでるのかもわからないが。


「せめて、パソコンだけでも回収できれば……でも行くのは、ちょっとしんどい」


そう言って翔をチラッと見ると――


「……任せな」


その一言に、思わず胸が軽くなった。


ーーーー


アパートの近く。


「もうすぐだな。……はぁ、胃が痛い」


「まぁ、その様子じゃ一人じゃ無理だな。いいさ、これくらい」

(よし……ここで頼れる男アピール、完璧に決めてやる)


「翔……ありがとう」


二人の足音が、夏の午後のアスファルトに溶けていった。


そして――、あっという間にアパートの前に着いた。


もう二度と来ることはないと思っていたのに。

目の前に立った途端、胸の奥がズンと重くなる。


家族と一緒にいたはずなのに、いつも孤独だった。

この階段を下りるたびに憂鬱で、帰ってくるたびに息が詰まった。

あの頃の自分が、まだここに取り残されている気がした。


俺たちは、無言で扉の前に立つ。


ガチャガチャ……


「やっぱり開いてないな。裕香、鍵はあるか?」


「……いや……あのとき、無我夢中で逃げたから。鞄ごとなくしてて……」


「そうか。鍵屋を呼ぶか?」


「……ううん、いい……。帰ろう」


「おう」

(顔色が悪い……やっぱり相当きついんだな、ここは)


階段を下りて、外の眩しい光へ出る。

そのときだった。


「わかってますって!俺も二ヶ月探してるんですよ!必ず見つけますから……それじゃ」


電話を終えた男が目の前を通り過ぎた。

強面で、どこか柄の悪い雰囲気。

そして声。


「はぁ……人をこき使いやがって。さっさとあのガキか両親を見つけねぇとな」


ガタガタ、ガタガタ……


手が震える

血の気が引く


「……どうした、裕香?」


翔が小声で問いかける。


忘れようとしても、忘れられるわけがない。

あの時、俺を連れ去ろうとした…竜鬼会の男。


「ん?君たち、ここのアパートの人?」


「いえ、俺たちはここの住人に用事があって」


「そうか〜。俺も探してる人がいてね。このアパートから出入りしてた男の学生なんだけど……知らないかな?大事な奴なんだよ」


「いえ、見かけませんでしたね」


「そうか……あれ、そっちの子は?」


その男は俺をじっくりと眺めてきた

一瞬、心臓が止まる

頭が真っ白になる。


今の俺は前川裕香………女だ。

体格も声も、すっかり変わった。

それでも、顔の輪郭や目の形には、まだ“前野”の面影が残っている。


怖い……バレる……?


「ああ、この子は俺の幼馴染ですよ。〇〇市の小学校出身で、ずっと一緒なんです」


翔が即座に割って入る。

その声は落ち着いていて、迷いがなかった。


「〇〇市の小学校……あの進学校のか…似てるが、なら違うな。ジロジロ見て悪かったね!おっちゃん、忙しいからまたな!」


男は軽く手を振って、再びアパートの方へと向かっていった。


「裕香……大丈夫か?」


「………………」


声が出ない。

足が重い。

喉が塞がる。

恐怖が身体に染み付いてくる…


ただ翔の背中を追うので、精一杯だった。


「大丈夫だ。ここに“前野裕貴”はいない。

お前は……“前川裕香”だ」


その言葉に、ようやく喉が動いた。

小さく頷く。


翔と一緒に家へ戻る道のりは、ほとんど記憶がない。

玄関の前で靴を脱ぐ手が震えていた。


部屋に入ってからも、胸の奥のざわつきは消えなかった。

ずっと……怖かった。


“もしバレたらどうなる”

“もし連れ去られたら”

“俺が元・前野だと気づかれたら”


そんな最悪な想像ばかりが脳裏を巡って、息が詰まりそうだった。


「……裕香。すまん、一旦俺、帰るわ」


「……………あ……あぁ……気をつけて」


翔は俺の顔色を見て何かを察したのか、そっと部屋を出ていった。

翔をこれ以上引き止めるわけにはいかない。

ドアの閉まる音が妙に大きく響く。


時計を見ると、もう夜の8時を過ぎていた。


それに――


(そうだ……そうだった……)


前川裕香になって、女の姿になって、

やっと“前野裕貴”から解放されたと思っていたのに。


あのアパートで、

はっきりと思い知らされた。


この世界には、まだ“前野裕貴”の痕跡が残っている。

前野裕貴を探している人間がいる。


俺はベッドに崩れ込むように座り込み、

自分の腕を抱きしめる。


「……怖い……」


小さく漏れた独り言は、

誰に届くこともなく、部屋の中で静かに消えた。



しばらく怯えてた

そんな時間がどれくらい続いたのか分からない。

心臓はずっと落ち着かず、手の震えも止まらなかった。


──ピンポーン。


チャイムが鳴り、胸がびくっと跳ねる……バレたのか…俺?

恐る恐る玄関へ向かい、ドアを開けると――。


「おう、裕香。これに着替えてくれ」


無言で差し出される何か。

ぶ厚い…長袖のアウター?


「これ……なに?」


「ライディングジャケットだ。」


「ラ、ライディング……?」


「取りあえず羽織れ。ジーンズでも履き直してこい。

このまま行くぞ。」


「え、え……?」


状況が飲み込めないまま、俺は言われた通りに着替えさせられ、

外へ連れ出される。


そして――目の前にあったのは。


「これ乗るの久しぶりだったなぁ」


黒くて大きな、存在感のあるバイク。

夜の街灯に光が反射して、やたらカッコいい。


「ば……バイク……!?翔、乗れるの?」


「ん?男子高校生ともなれば、

バイクの免許くらい持ってるぞ。(偏見)」


「俺は、そんな常識知らなかったが…」


「ニ半だけど結構いいやつだからな」


「に、に…にはん?」


バイクなんてほぼ未知の世界だ。

“ニ半”が何か分からないけど、

多分 すごくいいやつ なんだろう。


翔は当然のようにヘルメットを俺に渡す。


「ほら、被って後ろに乗ってくれ」


「う、うん……」


恐る恐るまたがり、

おそらく後部座席?というところに座る。


「しっかり捕まっておけよ。

 放り出されるからな。」


「えええ!?ちょっちょっ……!」


ブロォォォオンッ!!


「ひぃぃぃぃぃぃ!!!」


全身の血が逆流するかと思った。

骨が風で持っていかれるかと思った。

命の危険ってこういう時に使う言葉なんだなと思った。


バイク乗りって全員すごいんだ……命知らずか?


翔の背中に必死でしがみつき、

何度も悲鳴を飲み込みながら――


気づけば夜景の見える展望台の駐車場に着いていた。


「よし、大丈夫か?」


「は……はひ……なんとか……」


ガタガタ震える手を自分で抱え込む。

心臓がうるさい。

でも、さっきまでの別の震えよりはずっとマシだ。


翔はメットを外しながら、

どこか優しい顔をしていた。


展望台に着くと、

視界いっぱいに光が広がった。


「うわぁ……夜景って綺麗だ……」


ビルや家の灯りが宝石みたいに瞬いて、

高速道路を流れるライトが線となって走り、

その奥には黒い海が静かに光を飲み込んでいく。


まるで胸の奥のドロドロしたものが

すうっと洗い流されるみたいだった。


「ほんとにこれまで何もできてなかったんだな…裕香」


「はは…夜景どころかお出かけもほとんどなかったからなぁ」


少しだけ風が吹く。

その音だけが、沈黙を埋めていた。


やがて翔が口を開く。


「アパートにいた男……

 あれ、もしかして前に追ってきた竜鬼会のヤクザか?」


「……うん……」


言葉にした途端、胸がきゅっとなる。

翔はそんな俺をまっすぐ見つめて言った。


「安心しろ。俺が責任もって守る。

 お前を裕香にする提案をしたのは俺だしな。

 俺の総力かけて…友達として、守る」


「そんな……すまん……いつもいつも……」


「いや。夜景も見たことないような奴が

 くだらねぇ連中に青春奪われるのは、俺が許せんだけだ」


「……そっか」


心臓がまたキュッとしたけど、

さっきの恐怖とは違う。

じんわりあったかい。


気づけば震えも止まってた。


「そろそろ帰るか」


帰りもバイクの後ろに乗る。

行きより少し余裕があって、

風が気持ちよく感じた。


「……バイクって気持ちいいな……」


社宅に到着すると、翔はメットを外して俺を見る。


「また怪しい事があったら言えよ。

 いつでも相談しろ」


「翔……」


「ん?」


「……ありがとう」


「っ!!?そ、それじゃ帰る!風邪引くなよ!」


ブロォォオオン!


夜の闇へ走り去る背中を見送りながら思う。


俺は、不幸な人生だったはずなのに。

それでも今は、

こんなにも幸せな友達に恵まれている。




翔は夜の道路をバイクで走りながら、

ヘルメットの中で一人テンションが爆上がりしていた。


「おおおおおお!!よっしゃ!!

 ドライブデートだろこれ完全に!!

 しかも途中でギュッとしがみついてきて……

 くぅぅぅ!!最高すぎるだろ!!」


思い返すたびにアクセルがちょっとだけ入る。

夜の風もいつもより気持ちいい。


「でも……最後の ありがとう……

 あれは……反則だろ……

 可愛い……可愛すぎる……!!」


バイクのエンジン音にかき消されるほどの溜息と笑い。


けれど、少し落ち着いた声で続ける。


「……まぁ。元気になってくれて、本当に良かったよな」


普段は完璧超人、神宮寺翔。


だが――


裕香の前では、ちょっとだけアホみたいに浮かれてしまうのであった。

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