第16話 どんなことして欲しいの僕に

 新居に引っ越したタイミングでカヤが妊娠した。僕はそれを本当に喜んだ。絶対に女の子だと確信していた。早く娘に会いたいと思った。 


「流石にこの子が赤ちゃんのうちは働かれへんわ」とカヤがお腹をさすりながら言った。


「うんうん、それはしゃーない。心配いらんよ」と僕は言った。


 そして二〇〇三年四月に娘が誕生した。予定日よりも十五日も早かったが、丸一日かけて、外の世界に出てきてくれた。出産にも立ち会った。カヤは本当に頑張ってくれた。


 娘はすぐに保育器に入ったので何日かは抱っこできなかったが、すくすくと育ってくれた。


 僕は娘の誕生で救われた。今迄の人生の全てを娘が肯定してくれたのだ。


 サユリさんとの初体験、直子に嘘を吐いたこと、門真に就職したこと、直子と別れて、罪悪感の元凶の嘘の告白をしたこと、大分に転勤したこと、大阪にまた来たこと、日記や直子の写真や手紙とパンツを捨ててしまったこと、直子に迷惑をかけてしまったこと、カヤを悲しませてしまったこと、ありとあらゆる僕の懺悔が、全てまるごと許された瞬間だった。


 これらの出来事の何か一つ欠けても娘は生まれてこなかったはずだ。僕は全て正解のルートを間違いなく進んできたのだ。僕は親になった瞬間に娘に許された。そう考えると娘の誕生がありがたくて仕方がなかった。こうして人類は罪を赦されているのかもしれない。


 保育器の中の無垢な娘はまだ人間より神に近い存在なのだろう。本当に生まれてきてくれてありがとう、今迄の愚かで罪深い俺を許してくれてありがとうと、心から感謝した。


 娘は「桜」とカヤによって命名された。


 カヤは本当に一生懸命に桜のお世話をした。できるかぎり母乳で育てたし、妊娠中から禁煙もしていた。自分が食べる食事にも気を付けるようになった。レトルト食品を避けるようになり、桜の離乳食も時間をかけて手作りしていた。


 次の年にカヤの父親が亡くなった。もう長いこと入院していたが、お見舞いに行くたびに弱っていたし、どんどん老けていっていた。最後はとても六十二歳には見えなかった。糖尿病の合併症のせいで瞳は真っ白になっていた。カヤの父が亡くなったことで多少の遺産相続があった。カヤが相続したお金でトヨタ・ポルテの新車を現金で買った。


 カヤの母親と姉の二人暮らしになった。母親は明るい人だったが、世間知らずの天然ボケだったので心配だったし、姉も子どもみたいだったし、実際ちょっと障害がある感じがしていた。カヤは二人の生活を心配して、二人も一緒にこの家で住まわせたいと僕に頼んできた。


「全然いいよ。部屋は余ってるし、どうせなら一緒に住んだほうがお互い助け合いになるだろうし」と僕は言った。


 そしてすぐに二人が引っ越してきた。二階の六帖洋室が姉の部屋になり、同じく二階の七帖の洋室が義母の部屋になり、二階の八帖和室が、僕とカヤと桜の寝室になった。なんとなく隅に追いやられた気がしたけれど、当時は特に気にしなかった。


 一緒に住んでみると、姉の異変にすぐ気が付いた。体の力加減ができなくなっていて、コップをテーブルに置こうとして、力いっぱい叩きつけてしまったり、階段を物凄い足音で登ったりしていた。手の震えもすごくて明らかに何かの病気だった。


 ある夜、桜も寝ていて、義母も冬ちゃんも早々に二階で寝ていた。珍しく僕とカヤだけの夜だった。「話があんねん」とカヤが言った。深刻な雰囲気だった。僕は黙ってキッチンテーブルのカヤの向かいに座った。


「姉ちゃん、おかしいやろ?」とカヤが言った。


「うん、気になってる。病院とか行ってるの?」


「行ってんで」と言ってカヤは顔を見上げた。


 目に涙がいっぱい溜まっていた。みるみるうちにその涙はカヤの目から零れていった。カヤはいつも部屋着にぼろぼろに穴があいた大きいサイズのTシャツを好んで着ていた。そのときもオーバーサイズの古いTシャツを着ていて、袖から手を入れてブラジャーの締め付けで痒くなった脇腹をぼりぼりと掻いてしばらく黙っていた。


「あんな、姉ちゃんもやけど、お父さんもやってん」振るえる声でカヤが言った。


「遺伝性の病気やねん。脊髄小脳変性症って言うねん。お父さんも遺伝やってん。七人いる兄弟全員が遺伝しててん。おじさんもおばさんもみーんな。小脳がな、時間かけてゆっくりと縮んでいくんよ。小脳は運動を司ってるから体をうまく動かされへんようになんねん。そしていずれ呼吸すらできひんくなんのよ。二分の一の確率で遺伝するらしいわ。

 そして姉ちゃんはもうあきらか遺伝してる。もしかしたらうちも遺伝してるかもしれん。隔世遺伝はせえへんらしいから、うちが大丈夫やったら桜も大丈夫。遺伝子検査したらわかるらしいけど、怖くてできひん」


言葉の最後は声が震えていた。あの強気な魔女が子どもみたいに泣いていた。


 僕は黙って聞いていた。なんだか現実味がない話だった。二分の一の確率でカヤに遺伝していて、更にまた二分の一の確率で桜にも遺伝しているかもしれない。


 カヤはずっと僕にこのことを話したかったけれど、勇気がなかったのだろう。今迄にないくらい大粒の涙を流していた。どれほどの勇気で僕に告白したのだろう。言いにくかったはずだ。今まで、何度もタイミングを計って、また今度、また今度と先延ばしにしていたはずだ。卑怯な僕なら言えなかったかもしれなかった。


「今やったら、まだ間に合うで。マコはまだ二十八歳やし若いから、やり直しできんで。こんなうちらのこと背負わんでもええんやで。マコが望むなら離婚してもええで」


 充血した目で僕を見つめて、口を歪めて苦しそうにカヤが言った。


「アホか! カヤ、お前俺がそんな小さな男だと思ってんのか? 見くびんなよ。俺でよかったやんか! 俺はそんなんで離婚するほどヤワちゃうで! そんな運命丸ごと引き受けたるから心配せんでもええ! 万が一のときも介護は俺に任せとけ!」と僕は言った。


「ごめんなぁ、ずっと言いたかってん」と言ってカヤはまたわんわんと泣いた。


 僕は真剣に転職を考えるようになった。そしてタイミングを計って、二〇〇五年、三十歳の時に不動産仲介の会社に転職した。左官のときの建築現場の知識と、布団の訪問販売のときの営業のスキルが役に立つと思ったからだ。カヤの父親が不動産業だったのも縁を感じて、気持ちを後押しすることになった。


 職場は今住んでいる豊中市の隣の池田市だった。土地勘がなかったので、遠いと思っていたが、自宅から原付バイクでたった七分の距離だった。


 僕はヘルメットと安全帯を脱いで、ネクタイを締めるようになった。体力的には随分と楽にはなったが、家が売れないと給料がないというプレッシャーを毎月抱えて生きるようになった。契約が取れたらそれなりの歩合はもらえるのだが、毎月偏りがあった。十万円だけのときもあれば、次の月が六十万円だったりするのだ。


「宮本くん、うちは給料は現金払いやから、多いときは自分でストックしておいて、少ないときにそこから出して嫁はんに渡すんや。そうやって均すねん。みんなそうしてる。そうせんと、給料が多いときが嫁はんの基準になんねん。せやから、最初は絶対に三十万円以上、嫁はんに渡したらあかんで。これは先人達からの知恵や」


 と先輩が教えてくれた。


 でも僕はそんな卑怯な真似はしたくなかった。助言はありがたく受け取って、ありのままの給料をカヤに渡した。これが本当に後悔した。


 一度、給料が七十万円のときがあった。ただ、このときは歩合が重なっただけだったので、次の月の給料は十万円しかなかった。それをカヤに伝えた。


「今月は多いけど、来月は十万円しかないから、気を付けて遣ってね」と僕は給料を渡しながらカヤに言った。


「え? 来月の話やろ? それまであんた頑張るつもりないの? 普通女房子どもの為に血を吐いてでも頑張るよね? なんでせえへんの? ちょっと責任感ないんちゃう? お父さんはうちら家族を養うために大阪中の道をリアカー引いて頑張ってはったんやで。そんなんマコはできひんって言うん?」


 とカヤが魔力の籠った目をして言った。


 義父が亡くなってから徐々にカヤの義父に対する想いが神格化されていった。生前は幼いころの虐待に対する恨み節しかなかったのに、なにかにつけて、僕と義父を比べるようになっていった。


 そして僕は先輩の教えどおりに、給料を一旦自分で管理して、カヤに渡すようになった。そして、一生懸命がんばったけども、給料はこれが限界だったということをカヤにアピールするために夜の十二時まで会社にいた。チラシの印刷をしたり、ポスティングに出かけたり、あとはネットサーフィンをしていた。


                   *


 今の家を購入した理由の一つに、保育園、小学校、中学校が近いという理由があった。ある程度、桜が大きくなったら保育園に通って、近くのスーパーとかでカヤがレジ打ちでもして、小学校にあがった桜が、学校から帰るとランドセルを玄関にぽいして、家の前の公園に元気に遊びに行く、ということを想像していた。どれも外れた。


 桜は箕面の小学校お受験用の私立の幼稚園に通うことになった。カヤとしては国立の小学校に入学させたくて、その為に隣の市の箕面まで毎日車で送迎することになった。当然、カヤはまだ働けなかった。


 小学校受験のために桜は月曜から土曜までぎっしりと習い事の予定が詰まっていた。英語、絵画、体操、水泳、ピアノ、総合学習、毎日時間に追われていた。


 そして、そういう習い事をさせる家庭というのは裕福な人ばかりで、カヤのママ友たちはリッチな人たちばかりだった。歯科医、テレビ局員、画家、銀行の支店長クラス、イタリア料理店を何店舗も経営している人とかの奥さんたちだった。そんな中に、一般的な宮本家が混ざっていた。それまで、カヤはブランド品にあまり興味がなかった。持ち物はニッセンのカタログショッピングが多かったし、ハイブランドのグッチとかヴィトンとかに全く興味がなかった。しかし、ハイクラスの奥さんたちと時を過ごすうちに、劣等感を抱きだした。


「ヴィトンのバッグが欲しい」とカヤが言った。


「高いけど一生使えるから結果的に経済的やし、流石にこのニッセンのぼろぼろストローバッグは恥ずかしいねん」


「別に家計のやりくりで買えるんならいいじゃない。特に反対はしないし、そうやって正直に話してくれるのはえらいと思うで」と僕は言った。


「ありがと! お母さんも少し援助してくれるって言うてくれてるし、ドンキで買ってくるわ!」と言ってカヤはとても喜んだ。そしてこれがブランド地獄の始まりだった。


 カヤはドン・キホーテで誰もがイメージできるあのヴィトンのバッグを買った。敢えて値段は聞かなかった。無邪気に喜ぶカヤは可愛かった。しかし、そのうちに、このバッグにはこの財布は合わないとか、このコートに合わないとか言いだして、ブランドのバッグは二つ三つと増えていき、よくわからないブランドの靴やコートや洋服が増えていった。


 カヤはヤフーオークションに張り付いて、いろんな物を落札していった。


「家計を助けるためにヤフオクしてんねん」とよく言い訳をしていた。


 桜はママがパソコンでお仕事をしていると思い込んでいた。毎日にようになんらかの荷物が届くようになった。ある日寝室の押し入れを開けると、和紙に包まれたブランド品が山ほど出てきた。これ総額でいくらなんだろうと思った。そんなに家計に余裕はないはずだった。でも普通に生活できていたし、毎年盆正月は旅行にも行けているし、去年はディズニーランドへも二泊三日で行けた。どうやってやりくりしているのだろうと疑問に思った。


 そして、桜の小学校受験も近づくに連れ、カヤは狂気を孕んできた。目元が常に吊り上がっていた。僕には般若のようにも狐憑きにも見えて怖かった。魔力のボルテージが最高潮に感じた。家の中がぎすぎすして、桜につらくあたった。勉強が終わるまで何時間も食事を与えなかったり、反省のためと言って、寒空の深夜に玄関の外に薄着で外に出したりした。


 当然僕は阻止しようとした。これは虐待だと。そう言うとカヤは気が狂ったかのように血走った目で僕を睨みつけ、獣のように襲い掛かり、僕の胸倉を掴んで「そんならあんたが全部やりいや! うちばっかり悪者にすんなや! それにうちが受けてきた虐待と比べたらこんなもん虐待にはいらへんわ! 大袈裟に変なこと言わんといて!」と異常な顔憑で言うのだ。


 カヤの元の性格の零か百かが強くなっていた。


 出産後は菩薩のように穏やかになっていた時期もあったが、この頃は異常だった。そして僕はこの症状をネットで調べていた。カヤは境界性パーソナリティー障害に該当した。ネットではボーダーと呼ばれている精神疾患だ。これに間違いないと思っていた。


 こうなると手が付けられないので、僕はカヤが爆発しないように注意して、桜の勉強を手伝った。こっそり答えを教えたり、チョコレートを内緒で与えたり、外に出されたときはトイレの窓からコートを隠れて渡したりしていた。カヤに歯向かって怒りを長引かせるよりもこうする方がスムーズだった。


 僕と桜は仲が良かった。父と娘だが、友情すら感じることがあった。桜のためにも兄弟がいたほうがいいと思ったが、「桜と同じ教育をさせるためにな、あんた今の年収の倍稼がなあかんねんで。できんの? できんのやったら不平等で可哀そうやんか。はっ、あんたなんも考えんとそんな無責任なことよう言えんな。信じられへんわ」と罵倒されて話は終わった。


 桜と楽しく遊んでいると「はぁ、あんたホンマに呑気やなぁ。なんも考えてへんのやろ? ようそんなボケ面できるなぁ」と嫌味を言われた。


 それから家で笑えなくなった。すると「ちょっと、そんな暗い顔して雰囲気悪うせんといてくれる? お母さんが気い使うやん。ホンマに自分勝手やな」とカヤが蔑んできた。


 桜が言うには僕がいないときに、カヤと義母は僕の悪口ばかり言っているそうだった。僕抜きで外食もよくしているようだった。いつの間にか僕はこの家で邪魔者扱いになっていた。


 カヤの姉の病気も悪化し、てんかん発作も起こすようになり、とうとう入院した。そして二度とこの家には戻らなかった。

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