第7話 聖なる海とサンシャイン
正式な復縁は間近だと勝手に思っていたが、思わぬ伏兵が現れてしまった。
奴の名前は「鶴田」と言った。直子の幼馴染で、自宅も近く、直子とは別の特進クラスにいて、直子と同じピアノ教室にも通っていた。
のっぺりとしたイカみたいな顔をしていた。直子との会話でよく鶴田の名前も出ていたが、そんな顔なので僕は安心しきっていた。直子も気負わずに「今日鶴田がうちにきてね……」とか話していたので、男として意識されていないと思っていた。他人の家のペットと同じ扱いみたいに。もちろん僕は激しく嫉妬していたけれど。
そんな鶴田が直子に告白した。僕と直子はとっくに縁が切れていたと思っていたらしく、進学先に迷う中、すがるように告白してきた。
「ずっと昔から好きだったんだ! 頼む! 俺と付き合ってくれ! お前がいたなら受験も頑張れる! 俺は生きるのが下手なんだ!」と同情を誘ってきたそうだ。
生きるのが下手って、呼吸も食事も自分でできないのかと思った。
「お前がいなけりゃ俺はうまく生きられない!」
お互い特進クラスの受験生でもあるので、将来の不安と受験のプレッシャーも、直子はよく理解できたらしい。「今は断れる状態じゃないの……」と直子が電話で言った。
「でもいつか必ず帰るから、もし誠が待てるなら、それまで待っていてほしい……」
僕は絶望した。
同情だろ? そんな同情なんかで直子が僕よりも鶴田を選んだことが信じられなかった。僕に対する気持ちもひょっとして同情だったのだろうか? あんな親密な時間も、キスも、セックスも、語らいも、笑顔も、音楽も、涙も、夜も、全て同情だったのだろうか? 僕は主人公だと思っていたけれど、只のワンオブゼムだったのか。友人Bですらなく、通行人程度の脇役で、エンドロールにさえクレジットされないエキストラだったのか。下っ端の汗臭くて小汚いADから、出演記念にポケットティッシュでも貰ってバカみたいに喜んでいただけだったのか。
どこでどう間違ったのか、どう勘違いしたのか、僕にはさっぱりわからなかった。直子とのこの数か月の絆で、鶴田との友達としての十七年間をとっくに追い越していたはずだった。でも全部僕の独りよがりの勘違いだった。まったく恥ずかしいほどに。
「自分に同情するな」ノルウェイの森の永沢さんの言葉を思い出した。
いや、するでしょう。今は自分に同情するしか救いはないでしょう。僕には直子しかいないんだ。鶴田に対抗して、さらに同情を誘うような行動、例えば失踪や自殺未遂をしてみたら? でもそれをしてなんになる? 直子を困らせるだけし、まわりも巻き込んで誰も幸せにならない。たとえ直子が帰ってきてくれたとしても、すぐに振られてしまうだろう。意味がない。
同情と愛情は文字にするとまったく別物に見えるけど、感情は錯覚してしまう。優しさがあればなおさらだ。でも時が経てば気づくだろう。似ていて違う。まったく偽物なのだ。だから僕は無駄な行動はしない。僕は静かに待つ。でも今だけ少しは自分に同情くらいしてもいいでしょう?
一番の悲劇は直子を永遠に失うことだ。まだ俺にはそれを回避するチャンスが残っている。直子と別れたときにわかったはずだ。恋人同士でなくてもいいから直子の存在する世界線で生きていたいのだと。二番目や浮気相手の立場でも十分だろ? 過去に直子があっさりと振った哀れな連中より格上だぞ。あいつらもう別のブスと妥協して付き合ってんだ。俺はまだ直子と電話でも話せるし、手紙の交換もできる、下宿にだって会いに来てくれる。あいつらに比べたらまだマシじゃないか。前に直子に言ったろ?
「俺は直子の帰って行ける場所になりたいんだ。世界中の人を敵にまわして槍で囲まれても、僕は最後まで直子の味方でいたいんだ。一番の理解者になりたいんだ。直子ファンクラブのゼロ番になりたいんだ」って。
日記にも書いてるだろう? それが証拠だ。思い出せないなら日記を読み返せよ。割り切るんだ。さぁ立ち上がれ! 甦れ! タフになるんだ!
それでも暗冥の重力は、僕をゆっくりと味わうように飲み込んでいった。
*
朝、一緒に登校する直子と鶴田を見かけるようになった。
鶴田は朝から上機嫌で直子と並んで登校していた。欧米人かと思うような大振りなジェスチャーで、直子に一生懸命にねるとん紅鯨団の感想を話していた。
「俺は最初からあの二人が付き合うと見抜いていた」とか「あそこでためらう男はだめだな」とか、「お前は誰が一番かっこよかった? 俺は二番の女がよかった」とか下らない話だ。直子のことが好きならば三番のあの女の人に決まっていると、勝手に脳内で口を挟んだ。
僕とニアミスすると鶴田はちらりと僕を見て誇らしげにやりとした。直子はずっと顔を伏せていた。とにかく鶴田の周囲への「おれは遠山直子と付き合っているんだぜ!」アピールが激しかった。僕は電車通学組の登校時間より遅く登校するようになり、遅刻が増えた。それに安達が何も言わずに付き合ってくれたのが嬉しかった。
学校では直子と会話したりすることはできなくなったが、それ以外は今までと変わらなかった。我々は電話で話し、たまに僕の下宿で会い、身体を合わせ、手紙を交換した。
不倫するOLってこんな気持ちなのかな? これは確かにセンチメンタルで悲劇のヒロインの気分になってしまうなと思った。
*
高校生活最後の夏休みがやってきた。直子は熊本市内の塾の夏期講習に参加するため、直子の兄のアパートにしばらく居候していた。直子は進学を福岡にある女子短大に定めていた。
僕はというと、4人兄弟なので進学は経済的に厳しいというのもあるけれど、大学進学は早々に諦めて就職組だった。何より少しでも早く自立したかった。JR九州の就職試験を受けたのだけど、残念ながら落とされてしまった。応募資格をよく確認しなかった自分が悪いのだが、両目の視力が良くないとその資格がなかった。
僕は幼い頃の怪我で右目が殆ど見えない。メガネでの矯正もできない。ずっと左目一個で世界を見てきた。涙も左目からしか出たことがなかった。遠近感がまったくわからないから球技も苦手だ。なにより残念なのは3D映像を観ることができないことだ。ただ、そのぶん左目の視力はおそらく3・5くらいはあって遠くまでよく見えた。
とにかく期待していた就職が望めなくなったので、学校の求職票に残っていた、釣り具のポイントか、ベスト電器あたりを就職先に考えていた。従兄弟の安達はというと、大阪にある安達側の親戚の会社にフリーパスで就職が決まっていた。
夏休み中に安達の祖父に直接話しを聞くと、
・給料は月給三十万円
・エアコンの効いた屋内で大きなプラモデルみたいなのを作るだけ
・汗もかかないくらい簡単な作業
・八時から十七時までで残業なし
・寮はきれいな新築マンション
・寮費は三千円
・大阪府や市の役場からの仕事なので公務員みたいなもの
・ボーナスは四十万円
という夢のような内容だった。
安達の祖父はにこにことタバコをふかしながら「誠もけーばよかったい」と誘ってくれた。能面の翁のような笑顔だった。たしかベスト電器の初任給が高卒で十三万円くらいだったから、安達と同じ会社なら大阪から福岡まで新幹線で直子に会いに行けるし、経済的余裕もでる。大阪って景気がいいところだな。と思った。
そして僕は大阪行きを決めた。将来大阪で直子と二人で生活することを夢見て。
「大阪に行っちゃうんだ。私をおいて」
大阪への就職を直子に電話で話した。
「給料が結構高いから、新幹線で会いに行くよ。直子は福岡でしょ、新大阪と博多なら新幹線で三時間くらいだよ。思ったより近い」
「それでも私がさみしくて泣いているときにすぐ来れないじゃない」
「毎回はだめかもしれない。仕事があるから。でも本当にもうダメってときは全てを捨ててでも会いにいくよ」
「本当に?」
「行くよ。本当に行く。約束する。いつかそんな日が来ると思うよ」
「約束よ。いつか本当に私は呼んじゃうんだから」と直子が予言した。
*
二学期が始まる数日前に、僕は実家から下宿に戻った。直子に会うためだ。
直子は学校に寄ってからきたので制服を着て下宿に来た。
「久しぶり」と言って抱き合ったけれど、直子はいつもより少しぎこちない雰囲気を纏っていた。それを感じて僕は直子の言葉を待った。
直子はゆっくりと床に膝を抱えて座ってしばらく俯いて、髪で顔を隠していた。
この下宿はエアコンがなかったので、夏は扇風機の風だけが頼りだった。お互いにじっとりとした汗をかいていた。直子の頬に張り付いた髪を扇風機の風がはがそうと努力していた。
「……まだ、私のこと待っていてくれてるの?」直子が静かな声で言った。
僕はいままでのような即答ができず、もったい付けて悩んだふりをした。でもよくわかっている。惚れたほうが負けなのだ。僕は直子をゼロにはできなかった。
「待つよ。ずっといつまでも」と僕は答えた。
「どんなことがあっても?」
「待つ」
「本当に?」
「普通の男なら絶対に待てないと思う。でも俺は待てる。今は言えないけど知っている」
「なにを?」
「それは物語の最後に書いてあるべきだから言えない」
「ふふ、いい例えね。がんばれ、相手は熊本の人だ」
夏休み中に直子が塾に通うために、熊本市内に住んでいる兄の部屋にしばらく居候いたので、なんとなくその最悪のルートの想像はしていた。
夏の高校野球が終わって三年生は引退する。野球から解放された熊本の人が直子に連絡をとり、あらためて付き合ってほしいと、熊本市内で会って言われたそうだ。中学時代に片想いしていた相手なので心も揺らぐだろう。でももし僕が逆の立場だったら? 僕は揺らがないけれど。
「その可能性は予想していたよ。もう今更驚かない。だから余裕で待つよ。楽勝だね」と僕は言った。
「本当に待ってくれるの?」
「タフだからね。それにこれからもっとタフになる。いい加減理解してほしい……それで鶴田はどうするの?」と僕は訊いた。
「今のデリケートな時期では本当のこと言えないよ……」ぽつりと直子が言った。
「大丈夫。それもひっくるめて待つよ。待てるよ。俺は先の方まで知っているから」
「なんだかよくわかんないけど、わかる気もする。その根拠はぜんぜんわからないけど」と直子がやっと安心したような笑顔を見せた。
僕の本当の気持ちとして、鶴田とは本気ではないということが確認できただけでも、まだマシだった。誠くん、まだセーフだぞ。よかったな。お前なら耐えられる。と自分に言い聞かせた。熊本の人だって遠いところに住んでいてそんなに会えるわけでもないし、今までどおりこの部屋で直子を待てばいい、と思った。
それに実は僕にはもう一人の僕が、直子と鶴田が付き合い始めた頃に心に出現していた。彼は気持ちが達観していた。
「俺と直子は結婚することはない。人生の途中途中で何度も直子が離れていく。そして俺の心はどこにも行けずに直子を待つ。自分で選んで。喜んで。差し出して。直子が幸せならそれが俺の幸せなんだ。それが今生の因果だよ。それを早く理解して楽になることだ」
よく話しかけられていた。僕は認めたくなくてずっと聞こえないふりをしていたけれど、本当はきちんと耳をすませていた。
*
高校三年生の二学期が始まった。
直子には強がってはいたけれど、徐々に僕は体調もメンタルも悪くなった。なにをしても楽しくなく、世の中を批判し、クラスメイトや大人を俗物扱いし、すべてがどうでもよくなった。寝つきが悪くなり、朝起きられなくなった。食べることが面倒になり、風呂に入るにも気合が必要だった。授業中の先生の声が水の中で話しているように聞こえた。日本語に聞こえなくなった。会話することに集中力が必要となり、やがて苦痛になっていった。
ある妄想をした。
神様が僕に言う
汝の愛を試す
十戒を守るのだ
今日から一日に五グラムの埃を集めて人前で食べなさい
人と会話するときは一分間に二回以上顔をしかめなさい
外で糞を見かけたら必ず触りなさい
チョコレートとアイスクリームは一生禁ずる
雨には常に打たれなさい
歩くときは常にケンケンパで移動しなさい
水たまりを跨いではなりません
深夜零時に鏡の中の自分を罵倒しなさい
米には常に砂をかけて食べなさい
語尾に常にぞなもしをつけなさい
これを五十年続けなさい
この十戒を誰にも話してもならぬ
当然それまで隣人の理解は得られないが汝の愛は証明されるだろう。汝には辛い道のりかも知れぬが、人知れず実行しておる者も世には大勢いるのだ。
また、副賞として、ハワイアン航空で行く夢のハワイ旅行、六泊八日間ペア往復航空券も進呈しよう。さらにココ山岡から永遠の輝き、ダイヤモンドリングも提供されよう。
と、言われたしとて僕の愛でできるだろうか? 流石にできないか。できないって直子への愛はそんなものなのか? 五十年間自分を犠牲にしてでも証明しなくてはならないのではないか? できるか? 報われるのが六十七歳だぞ。いややっぱり無理か……その程度なのか……やっぱり無理ぞなもし。
*
僕も就職が決まって、あとは特に勉強をがんばる必要もなくなったので、それまでサボってばかりいた美術部の部活動に集中した。以前から少しずつ描いていたアグリッパの油絵が水俣市美術展の高校賞を受賞した。高校生部門では最高の賞だった。でもまったく嬉しくなかった。安達と共作した映像作品も熊本市の賞を受賞して、ふたりの写真と名前が熊日新聞に掲載された。それもまったく嬉しくなかった。
美術部の二年生の一度も話したことがなかった女の子から手紙をもらった。
「今日の十七時に三中の桜の木まで来て下さい。待ってます」と書かれてあった。
地元じゃないから三中なんて場所知らんがなと思って無視した。おまけにその子はすごく太っていたので、自分が安く見られた気がして腹が立った。
体育祭の看板描きのスタッフにいた、二年生の細くてきれいな女の子からも手紙をもらった。プロフィールを書いてくださいと書いてあったので、適当に出鱈目を書いて出した。その子はそれでも登校する僕を教室の窓から見つけると、いつも手を振ってくれた。気まぐれに手を振り返すと喜んでいた。僕にはその気もないのに。
ある日、一限目の授業が終わって机に突っ伏して寝たふりをしていたら、肩をつんつんと突かれた。そのままの姿勢で目だけ開けて見ると、直子と鶴田との仲を応援していた、直子と同じ中学校出身の女子が立っていた。
「なにか?」わりと不機嫌に僕は言った。
「ちょっとお願いがあるんだけど」とその子が言った。直子にもうつきまとわなでちょうだいとか言われるのかな? と思った。
「私、音楽部なんだけど、今度の音楽祭の告知に使うポスターのイラストを描いてほしいの」とその子が言った。
確かその子の中では僕と直子の関係は、昔ちょっと付き合っていて、別れてもうずいぶん経つという認識のはずだった。その上で初めて話すのに、いったいどんな神経で僕に依頼するのか不思議だったけれど、「海がテーマだからそのイメージで描いてほしい」とあまりにも無垢な目で言われたのでその胆力に免じて了承した。
僕はその日の放課後、学校の図書室で海とか船の本を借りて、その中から参考になりそうな船の写真を基に、A4サイズのイラストを徹夜で憑りつかれたように描いた。「続きは明日やろう」とか思えなかった。
荒波を渡る古い木造の帆船の後ろ姿だ。スマートな外国のヨットは違う気がした。
荒波の表現に力が入った。いろんな角度からホワイトと黒インクを飛ばして、水飛沫にもこだわった。二色白黒の制限があったので苦労した。完成品は爽やかな青春を感じるような明るい感じにはならなかったけど、そのときの僕にはそういうふうにしか描けなかった。
数日後、そのポスターは水俣市内のあらゆる街角や商店に貼られた。直子も見かけてくれるかな、と願った。依頼者からは報酬にキャンディをもらったけど、僕は食べずに下宿の近くのアリの巣に捨てた。
数日後、学校から下宿に帰ると、日記がコタツの上に置いてあった。直子が来ていたのだ。
「今日はいつもの八代の気功に寄ってから学校に行くので寄りました。
もしかしたら誠がいるかも、と思いましたが残念、不在でした。
お部屋、いつもきれいに片づけているね。前に、誠がゴミを小さくまとめて最後にセロテープでぎゅうぎゅうに固定してから捨てるのを見て、思わず笑ってしまったのを思い出しました。この几帳面さを私に分けてほしいくらいです。
それにしても誠はすごいよ。
こんな私を待っていてくれて。
もう私のことなんか待たなくてもいいよう、という気持ちと、どこにも行ってほしくない気持ちが混在しています。いずれにしても今の私には誠が必要なのです。本当に自分勝手な願いだと思うのだけど。でも、もし、本当に誠が疲れたら、私を見捨ててもいいからね。いや、だめ、絶対だめ! でも誠を解放してあげたい。こんな感じで私は私がわかりません。とにかく混乱しています。
私たちにどんな未来が待っているか今はわからないけど、誠がそばにいてくれたら私はとても心強いです。あー、だめだよね。これじゃ縛ってしまっているよね。
ここまで書いて消そうと思ったけど、ボールペンで書いちゃったから消せません。
今はあまり深く考えないでね」
また別の日にも直子が来ていた。
「今の私たちの状況を整理してみました。
私は公式? には鶴田と付き合っています。でも本当は私は鶴田に恋愛感情はありません。
本当は熊本の人と付き合っています。でも、住んでいるところが芦北と熊本なので遠く離れています。夏休み以来、まったく会っていないので付き合っていると言えるのか疑問です。彼からはあまり電話もないし、手紙だって一度ももらったことがありません。
誠とは以前、付き合っていました。今は別れてはいますが、私の一番の理解者です。一番多く逢瀬を重ねています。一番近くにいる誠が一番遠い存在になっています。でも一番多くの愛を私にくれます。
私は本当に自分がバカだと思います。どうしたいいのか整理してもわかりません」
*
次の土曜日の放課後、直子が僕の下宿に来た。
「最近ちょっと疲れているの」と直子がこぼした。
「鶴田のことを騙しているみたいだし、っていうか実際騙してるんだけど、なんで私が気をつかわなきゃならないのか、わからなくなってきた。今日も三時から図書館前の公園で一緒にお弁当食べようとか勝手に約束するし」
「熊本の人にも悪いし」僕は嫌味を言った。
「……なにも言い返せないわ」直子が言った。
「とにかくここが一番落ち着くの。ね、お弁当一緒に食べよう。食べてしまおう。だいたい三時なんてお腹空いて待てるわけないのよ。直子ちゃんのたまご焼きが入っているよ。あとはお母さんが作ったけど」と言って直子はバッグから小さな弁当箱を取り出した。
「反射的にいらない、食べないって言おうとしたけど食べる」
「そのボタンも古くなって接触が悪くなっているのよ。さ、食べましょ」
ふたりで直子のお弁当を分け合って食べた。たまご焼きは味が薄くてとくに美味しいとは思わなかったけど、不味くもなかったので「おいしい」と言って食べた。
弁当を食べ終わったあと、セックスした。
行為が終わったあと、「……ごめんね。熊本の人とは、もう、その……したの……」と直子が顔を横に向けて言った。
僕は敢えて知りたくはなかったけれど「そう、よかったね、とは言いづらいけど」と答えた。
「それでいつだったの?」聞きたくないのに僕は訊いてしまった。
「夏休みに一度だけ会ったとき。それで彼の部屋で……私が初めてじゃないっていったら、なんじゃそれって言ってた。彼も初めてじゃなかったくせに」
「そうか……なんともコメントしづらいね」
「いやな気持ちにならないの?」
「いやな気持ちに……ならないわけがないよ……流石に。でも結果は変わらない。過去の書換えはできない。受け止めるしかない。仕方がないとも言える。惚れた弱みとも言える。でも俺は俺の場所でずっと待ちたい。いつか直子に言ったけど、俺は直子の帰っていける場所になりたい。そんな場所がひとつくらいあっても別にいいんじゃないかな?」僕は横になったまま天井を見ながら言った。
直子はゆっくり起き上がって座り、しばらくうつむいて黙っていた。
「……なんでよ……どうしてこんな女を待てるの?
……ねぇ、どうして待てるのよ……どうしてそんなに優しいの? 強いの?
……この前……本屋さんの前で誠が描いたポスター見かけたよ……いろんなところで見かける……水光社でも……駅のホームでも……つい探しちゃうの……
なんか誠が……あの船に乗って、どこか遠くまで行って……いなくなってしまうような気持ちになった……
よく見たらすごく古い船だし、ポスターの中から帰ってこれなくなっちゃうんじゃないかって思った……
あんなにっ、あんなに荒れた、暗い! さびしいっ、海なのに! 私を! 私のことを! 置いてけぼりにしてっ!
きっとたったひとりで誠しか乗っていない船でっ! あの海をっ! 黙ってっ! 内緒でっ! 孤独にっ! ひとりぼっちでっ!」
直子はしゃくりあげながら涙声で言った。口元が戦慄いていた。
「一緒の船に乗ってあげられなくてごめんねぇ。でも私をひとりぼっちにしないでぇ。お願いだから……」
と、吐き出して直子は僕にすがりついて泣いた。強い力で僕の背中を掴んでいた。
あの船のイラストが、自分の心情を露呈していたことに僕は気がつかなかった。僕のやせ我慢を直子は僕よりも先に見抜いてしまっていた。どんなに直子の前で強がっていても、僕の無意識の世界では、もう僕はあの古い船に乗って逃げだしていたのだ。
僕は全然タフではなかった。ただの弱い男だった。なんであんなイラストを描いてしまったのだろう。僕は何も成長していなかった。未熟な僕の存在でこんなにも大好きな直子を傷つけて悲しませて泣かせていたことを悔いた。
僕は直子の両肩を掴んで、鼻水と涙でぐしょぐしょになった直子の目を真っ直ぐ見て言った。
「俺こそごめん。もう迷わない。もう二度と、直子を、こんな気持ちにさせない。本当にごめん。そして気にかけてくれてありがとう」言いながら僕も涙が溢れた。
直子が涙と鼻水と汗で髪がたくさん張り付いた顔をあげた。
「もう心配しないで。本当に大丈夫だよ。俺はずっと待っているから。物理的に座標が変わっても、ここでずっと直子を待ってるから」
僕は直子の頬の涙を指で拭いながら言った。
「わけわからんけど、わかったー」直子はまた抱きついて泣いた。
僕は「Dear dear」と言って直子の髪を撫でた。
*
その夜、安達が「ちょこっと、よか?」と言って部屋に来た。
「なんじゃいようわからんばってん、応援すっで。一緒に食えばうまかぞ。ほれ」と言ってジョージアのザ・ブレンドとポテトチップスをくれた。そしてそそくさと自室に帰って行った。
下宿は壁が薄いから、当然隣の部屋の安達にも今日のことは聞こえていたはずだ。安達は安達で気まずくて、音を立てないようにじっとフリーズしていた姿を想像したら笑った。
その夜、直子に電話した。
「もしもし、今日はあれからどうだった?」
「誠くんね。こんばんは! ちょうどよかった。ちょっと聞いてよ。あの後、鶴田がなんで先に弁当食っちゃうんだって、かんかんに怒って、俺は腹が減ってたけど我慢したのになんでお前はそんなに自分勝手なんだって、それになんで俺の分の弁当がないんだって、普通彼女が彼氏の弁当作ってくるもんだろ! それくらい言われなくてもわかれよ! って。
私もー腹がたって腹がたって、かーっとなって、あんたのために気を使ってこんなことになってるのに、なんであんたなんかにこんなこと言われなきゃならないのよ! って言ってやったの! あー思い出すだけでムカつくわぁっ!」
直子がこんなに怒ったのは初めてだった。
「それでどうなったの?」
「知らん! 知らん! 知らん! あいつなんか全部落ちて浪人したらいいのよ! 一生引き籠って、ヒゲぼうぼうになって、ぶくぶくに太って爪伸び放題になって、ハゲたらいいのよ! お弁当箱投げつけてあいつの自転車蹴飛ばして走って逃げたわよ! そしたらあいつ、おい! って怒って呼ぶのよ! 更にムカついたわ! お弁当箱ももういらない!」
「めちゃくちゃ怒ってるね?」僕は笑いそうになったけれど、まだ我慢した。
「怒るわよ、おおいに直子ちゃんは怒ってるわよ! マジで損した。時間を返してほしい! ってさっきからキャッチホンめちゃくちゃ鳴ってるわ。これきっとバカ鶴田よ。バカで間抜けの鶴田よ。聞こえる? キャッチホンの音。プップッって。この音さえ不快。もう遅いわ。どんなに愚かな自分の大罪を懺悔しても、直子ちゃんは絶対に許さないわ。でもこれですっきりした。よくわかったわ、あいつの本性が。あ! あいつ確か私のこと我儘女っても捨て台詞で言ってたわ。思い出した! くそムカつくわ! 無視よ! 無視無視!」
直子が面白いほど怒っていたので、僕は笑ってしまった。
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