今夜、キッチンテーブルの上から
単狩世
第1話 序章・ハッピーエンド
人は不幸になると幸せだった時期を懐かしく思い出すという。
僕は今、不幸だ。十九歳の我が娘が抱える精神疾患、境界性パーソナリティー障害に翻弄されてばかりいるからだ。しかし、一番苦しんでいるのは娘自身だ。この病気は本人と、その周りの人間関係の全てを、ハリケーンのようになぎ倒して不幸にしてしまうのだ。
先日も修羅場があったばかりだ。
時刻は夜、十一時二十分。あとで知ったことだが、そのとき娘は五百ミリリットルのストロングゼロを二本飲み、市販の風邪薬を大量に服用し、ふらつきながら、以前住んでいたマンションの最上階の共用廊下に立っていた。そして僕は自宅のソファーに座って、娘が飛び降りたあとにかかってくるであろう、豊中警察からの電話を待っていた。
通知音がして娘からLINEで画像が送られてきた。今から飛び降りる十四階の高さから地上を写した画像だった。地上には赤と黒と白の車がミニカーのように写っている。娘の心配よりも、車や通行人に当たらなければいいと思った。
「あんたのせいだから あんたが殺したんだからな(笑)」
続けてそうLINEが送られてきた。もう、このセリフには慣れた。いや、今まで何度も聞いて、その度に真剣に心配してきた。そして何度も何度も聞いたので覚悟ができてしまった。
子が自殺してしまう覚悟、それは親も狂わなければできないことだった。
僕は既に狂っていた。狂っていたからこそ冷静だった。今回の人生で幸福を求めることはもう諦めていた。
「遠いな、幸せって」
独り言だ。テレビの上で寝ていた飼い猫のナナが、ちらりと僕を一瞥して大きなあくびをした。
何かを求めては、遠ざかってばかりいたような人生だった。
元妻から逃げて、娘と二人で楽しく幸せに暮らすはずだった。しかし、強力な魔力を持った元妻の呪縛から逃れることなどできなかった。娘にも、まるで持って生まれた才能のように、境界性パーソナティー障害という呪いが発動してしまった。数年前に別れた元妻も、若い頃から境界性パーソナリティー障害の疑いがあったが、この頃は統合失調症の症状が出てきていた。
今まで何度救急車を呼んだだろう。何度夜中にカミソリで切った腕の治療のために病院に行っただろう。何度警察に保護されただろう。何度オーバードーズして呂律の回らない娘に罵倒されただろう。何度嘘を吐かれただろう。何度猛獣のような苛立ちを受け止めただろう。何度精神科の主治医に裏切られただろう。
疲れた。本当にくたくたに疲れてしまった。世界で何番目に不幸なのだろうか? オンラインで順位が確認できないかな。世界規模になるとまだまだランキングの半分にも満たない雑魚なのだろう。
エチオピアのコーヒー農園で働く少年の妹が、人買いに攫われてしまって、助けようにも片足しかない少年は走って追いかけることができない。舗装のされていない不衛生な道路に這いつくばって、悔し涙を流して、妹の名前を叫ぶ少年。もう二度と大好きな妹に会えない……には負けるよな。
オランダのある地方では、中年の夫婦にやっと授かった子どもが、十歳の誕生日に引き逃げに遭い、死んでしまった。政治家が起こした事故だったので揉み消された。復讐を誓った父親は返り討ちにあい、殺されてしまった。残った母親は廃人となり、毎日子どもが学校から帰る時刻になると、家の外で四つん這いになって奇声を発して亡くなった子どもの帰りを待つようになった……これにも負けるな。
アルゼンチンの田舎の村で生まれた重度の障害を持った──そんな馬鹿な妄想をしていたらiPhoneに着信があった。覚悟をもう一度決めて、大きく息を吸い込んで画面を見る。合格通知を見るような心境だ。豊中警察からの着信だった。
「宮本桜さんのご家族ですか? お父さん? 桜さんを今、保護しました。飲酒のせいか意識が酩酊状態なので、救急車も呼んでいます。すぐこちらまで来ることはできますか?」
警察官の声は緊急性のある様子ではなかった。取り敢えずは安心できたが、娘が生き延びたということは、これからも神経がひりひりするような、こんな夜をまた繰り返すということだった。でもそれは僕が一番苦しいのではない。一番苦しいのは娘本人だ。それが可哀そうで心が痛んだ。
そう、人は不幸になると幸せだった時期を懐かしく思い出すという、最初の一文をほったらかしにしていた。
僕は前にも増して昔を懐古していた。昔、というか直子ただひとりだけを思い出していた。青春時代の追憶をだけを、大事に大事に何度も何度も反芻した。自分の脳をハンバーグのタネをこねるように、丹念に脳内細胞の中の直子を探った。おそらく、僕の本能が「生きる」という選択肢を選ぶために直子を呼び起こしていた。
娘もだが、僕も自殺の選択肢があった。でも、僕は生きる道を選んで、もう一度直子に会いたいと強く願うようになった。そして二十年以上前の直子との約束を叶えてみたくなった。だから、この文章を書き始めた。もう直子はその約束など覚えていないだろうけれど。
「誠、いつか本当に私のことを小説に書いてね。私、誠の文章と言い回しが本当に好きだったの。その感性をずっと無くさないでいてほしいの」
「高校の頃はぼんやりとした夢だったけど、現実は厳しいしな。俺には学歴もないし」
「そんなの関係ないよ。いつか本当にチャレンジしてみてね。本になったら必ず買うから。私は私で誠のファンクラブのゼロ番になってあげるから。大丈夫よ。誠ならできる。私にはわかるの」
「ありがとう。覚えておくよ」
まさかこのときの直子も、こんなに遅くなるなんて思ってもみなかったと思う。もっと若い時期に、書こうと思ったことは何度もあった。ノートに、原稿用紙に、ワープロに、携帯に、そしてパソコンに。時代に応じてデバイスも変化していった。
でも、ある日突然、直子との関係が蜃気楼のように消えてしまったので、そんなエンディングにしたくなくて、書き始めることができなかった。いつか必ず直子と再会することを信じて、その想いに縋りついていた。ハッピーエンドで締めくくりたかった。
本当は自分でもわかっている。これは異常だって。ただの執着だって。それも二十年以上も続く異常な執着なので、深刻な病気なんだってことを。そして、きっと直子にとって迷惑なのだってことも。
でも、今からでも書き始める。この文章が小説というカテゴリになるのか判断できないけれど、僕と直子の永い物語を。いつかきみに、どうか届きますように。
二〇二三年一月二日
今夜、キッチンテーブルの上から。
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