第8話

 宿屋の食堂は、朝の活気に満ちていた。木の扉が開閉するたびに、街の喧騒とひんやりとした空気が流れ込み、室内に漂う焼きたてのパンの香ばしい匂いや、肉を煮込む濃厚な匂いと混じり合う。俺たちの座る窓際のテーブルには、朝の柔らかな光が差し込み、使い込まれて艶の出た木目の表面を照らし出していた。目の前では、アリシアが巨大な猪肉の燻製ステーキにかぶりついている。その食べっぷりは、いつ見ても豪快という言葉がしっくりくる。厚切りの肉をナイフで切り分けるのももどかしげに、最後は骨を手で掴んで、野生の獣のように肉を喰いちぎっていた。彼女の生命力は、その旺盛な食欲にこそ源があるのかもしれない。その隣では、セルフィが静かに木の実を一つ、また一つと口に運んでいた。彼女の食事は、アリシアとは対照的に、常に最小限で、まるで森の小動物が栄養を摂取する儀式を見ているかのようだ。だが、その落ち着いた所作の中にも、昨夜の出来事を経て、俺に対する態度に微かな変化が生まれているのを俺は感じ取っていた。以前のような、値踏みするような鋭さは少しだけ後退し、代わりに、解き明かせない謎を前にした研究者のような、純粋な知的好奇心がその翠の瞳の奥に宿っている。


 俺もまた、目の前の黒パンと、昨日とは打って変わって香辛料の効いた温かいスープに手を伸ばす。賑やかで、騒々しくて、それでいて不思議なほどに心地よいこの朝食の風景。アリシアの快活な笑い声、セルフィの静謐な存在感、そして俺自身のぎこちない適応。血の繋がりも、育ってきた環境も全く異なる三人が、こうして一つのテーブルを囲んでいる。この数日で、これが俺たちの『日常』になりつつあった。それは、孤独だった俺にとって、間違いなく温かく、かけがえのないものだ。だが、その一方で、俺の心の奥底では、この日常に対する感謝とは別の、新たな欲求が静かに、しかし確実に育ち始めていたのも事実だった。


 この共同生活は、楽しい。それは偽らざる本心だ。だが、同時に、息が詰まるような感覚を覚える瞬間がある。俺の持つ『吸収』と『融合』という力。その本質を誰にも明かせないまま、常に仲間たちの目を意識し、その異常性を隠し通さなければならないという緊張感。それは、一日中、薄い氷の上を歩き続けているような、絶え間ない精神的な負荷を俺に強いていた。俺には、時間が必要だった。誰の目も気にすることなく、一人きりになれる時間が。そして、場所が必要だった。この規格外の力を、心ゆくまで試し、その特性を分析し、そして何よりも、精密に制御するための訓練を行うことができる、私的な空間が。


 昨夜、俺は一つの考えを固めた。この力は、仲間たちの穏やかな生活を守り、豊かにするためだけに使おう、と。だが、その誓いを実行するためには、まず俺自身がこの力を完全に掌握しなければならない。森の中で初めて力を使った時のように、泥の槍をイメージした結果、巨大な岩の杭を生み出してしまうような、そんな大雑把な制御では話にならない。アリシアの長剣に潜む金属疲労のように、危機を事前に察知できたとしても、それを修復する具体的な方法を編み出せなければ、何の意味もない。料理に使った香辛料の生成は、その第一歩だった。だが、あれはまだ、応用範囲のほんの入り口に過ぎない。錬金術、鍛冶、あるいは魔法薬の調合。この力は、あらゆる生産活動において、この世界の常識を根底から覆す可能性を秘めている。その可能性を探求するためには、どうしても実験と研究のための場所、いわば俺だけの『工房』が不可欠だった。


 俺は、最後の一口のスープを飲み干すと、意を決して口を開いた。


「なあ、二人とも。少し、相談があるんだが」


 俺の改まった口調に、骨に残った最後の肉片までしゃぶり尽くそうとしていたアリシアが、きょとんとした顔でこちらを向いた。セルフィも、手にしていた木の実を皿に置き、静かに俺の言葉の続きを待っている。


「この街で、俺自身の部屋を借りようと思う」


 その言葉が引き起こした反応は、実に対照的だった。


「はあ? 自分の部屋だぁ?」


 アリシアは、素っ頓狂な声を上げた。その夏の空のように澄んだ碧眼が、不満と、ほんの少しの寂しさをない交ぜにしたような色を浮かべて、俺を真っ直ぐに見据えている。


「なんだい、ケント。あたしたちと一緒に、この宿屋で暮らすんじゃ、何か不満でもあるってのかい? 言いたいことがあるなら、はっきり言ってみな!」


 彼女の口調は、まるで弟分に裏切られた姉御のような、大袈裟な響きを持っていた。だが、その根底にあるのが、純粋な仲間意識から来るものであることは、俺にも痛いほど分かった。彼女は、俺がパーティから離れていってしまうのではないかと、心配しているのだ。


 俺がどう説明したものかと言葉を探していると、それまで黙っていたセルフィが、静かに口を挟んだ。


「…違う。彼は、そういう意味じゃない」


 その声は、いつも通り抑揚に乏しいものだったが、その言葉はアリシアの勢いをぴたりと止めるのに十分な力を持っていた。セルフィは、俺の方に視線を移すと、続けた。


「…あなたには、一人で、考える時間。そして、何かを試す場所が必要」


 そのセルフィの言葉に、俺は内心で舌を巻いた。彼女には、お見通しだった。俺が、ただのプライベートな空間を求めているのではなく、その先に、何か別の目的を持っていることを。彼女の鋭い観察眼は、俺の行動の裏にある動機を、正確に読み解いていた。


「…まあ、そういうことだ。少し、調べたいこともあるし、荷物を置いておく場所も必要だからな。それに、自炊もしてみたい」


 俺は、セルフィの助け舟に乗りつつ、当たり障りのない理由を付け加えた。特に、自炊という言葉は、昨夜のスープの一件があった後では、それなりに説得力を持ったようだ。アリシアは、まだ完全に納得したわけではないようだったが、セルフィにまでそう言われては、反論のしようがないらしかった。彼女は、ぶすっとした表情で腕を組むと、ふいと顔をそむけた。


「…ふん。まあ、あんたがそう言うなら、あたしがとやかく言うことじゃないか。けどな、ケント。部屋を借りるからって、パーティを抜けるなんて言い出したら、承知しないからな!」


「分かってる。そのつもりはない」


 俺がはっきりと答えると、アリシアはちらりとこちらに視線を戻し、少しだけ安心したように、その表情を和らげた。


「よし、話は決まりだな! それじゃあ、善は急げだ! 早速、街の不動産屋を回ってみようじゃないか! こういうのは、あたしに任せときな!」


 切り替えの早さも、彼女の美点の一つだった。一度決まれば、行動は早い。彼女はそう宣言すると、残っていたエールを勢いよく飲み干し、威勢よく席を立った。俺も、彼女のその前向きな勢いに引きずられるようにして、立ち上がる。こうして、俺の、この世界で初めての『城』を探すための、ささやかな冒険が幕を開けることになった。



 アークライトの街には、専門の不動産屋が数軒存在していた。冒険者や商人が絶えず出入りするこの街では、住居の需要もまた高いのだろう。俺たちは、アリシアの案内で、その中でも最も古くから営業しているという、一軒の店を訪れた。年季の入った木の看板が掲げられたその店は、こぢんまりとしていながらも、壁には物件情報が書かれた羊皮紙が所狭しと貼られており、活気のある場所だった。


 店の主人は、人の良さそうな、小太りの中年男性だった。彼は、アリシアの顔を見るなり、愛想の良い笑みを浮かべてカウンターから身を乗り出してきた。


「おや、これはこれは、『白銀の風』のアリシアさんじゃありませんか。今日はどういったご用件で?」

「よう、親父さん。実は、こいつの部屋を探してるんだ。一人で住めて、多少物音を立てても文句の出ないとこ。心当たりはないかい?」


 アリシアが単刀直入に用件を伝えると、主人は値踏みするような目で俺の全身を眺めた。俺の旅装は、まだ新しく、お世辞にも金回りが良さそうには見えない。彼の表情が、あからさまに『金は持っているのかね』と語っていた。


「なるほど。して、ご予算はおいくらほどで?」

「…月払いで、銀貨十枚までだ」


 俺がそう答えると、主人の愛想の良い笑みが、わずかに引きつった。銀貨十枚。それは、俺がこれまでの依頼で稼いだ報酬の、ほぼ全てに近い額だった。だが、それでもこの街の家賃相場からすれば、かなり低い金額であるらしかった。


「銀貨十枚、ですか…。ううむ、そのご予算ですと、ご紹介できる物件はかなり限られてまいりますが…」


 主人はそう言いながらも、商売人の性か、壁に貼られた羊皮紙の中から数枚を器用に剥がし、カウンターの上に並べてみせた。そこには、建物の簡単な見取り図と、家賃、そして所在地が、俺の読めない文字で記されている。アリシアが、その内容を俺に説明してくれた。


「こっちは、市場の裏手にある部屋だな。家賃は安いが、かなり狭いし、日当たりも最悪だ。それに、周りが酒場だから、夜は相当うるさいだろうぜ」

「こっちは、職人街の一角か。広さはそこそこだが、鍛冶屋の隣だから、一日中、槌の音が響いてくるな。…ケント、お前さんがやりたい『調べ物』とやらには、向かないかもしれねえな」


 どの物件も、一長一短、というよりは、短所の方が多いものばかりだった。静かな環境を求めれば家賃は跳ね上がり、家賃を抑えようとすれば、何かしらの不便を受け入れなければならない。それは、俺のいた世界と何ら変わらない、現実の厳しさだった。


 アリシアが、見かねたように口を開いた。


「…なあ、ケント。足りない分は、あたしが少し出してやってもいいんだぜ? 共同の作業場だと思えば、パーティの経費で落とせるだろうしな」


 その申し出は、非常にありがたかった。だが、俺は静かに首を横に振った。


「いや、いい。自分のことは、自分で何とかする。これは、その第一歩だ」


 俺のその言葉に、アリシアは少しだけ驚いたような顔をしたが、やがて、何かを理解したように、にっと歯を見せて笑った。


「…そうかい。分かったよ。男の意地ってやつだな。よし、親父さん! もう少し、粘り強く探してみてくれ! こいつは、将来、大物になる男なんだぜ!」


 根拠のない彼女の太鼓判に、俺は苦笑するしかなかった。だが、彼女のその応援が、俺の心を少しだけ温めてくれたのも、また事実だった。


 その後、俺たちはさらに数軒の不動産屋を巡り、何件かの物件を実際に見て回った。埃っぽい屋根裏部屋、湿気の多い半地下の部屋、今にも崩れ落ちそうな古い木造アパートの一室。どれも、俺が求める『工房』としては、満足のいくものではなかった。時間だけがいたずらに過ぎていき、太陽が空高く昇り始めた頃には、俺もアリシアも、さすがに少し疲れの色を見せ始めていた。


 そんな時、それまで黙って俺たちの後をついてきていただけのセルフィが、不意に足を止め、ある一点をじっと見つめた。それは、俺たちが今いる大通りから、一本脇に入った、細い路地の入り口だった。


「…あそこ」


 彼女が、白く細い指でその路地を指し示した。


「…マナの流れが、淀んでいる。でも、悪い気配じゃない。古いものが、静かに眠っている感じ」


 彼女の言葉は、いつものように断片的で、詩的な響きを持っていた。だが、その言葉に何かを感じ取った俺は、無言でその路地へと足を踏み入れた。アリシアも、不思議そうな顔をしながら、俺たちの後に続く。


 路地は薄暗く、両側を高い建物の壁に挟まれていた。その突き当たりに、その建物はひっそりと存在していた。二階建ての、小さな石造りのアパート。壁は蔦に覆われ、窓枠のペンキは剥げ落ちている。長い間、誰も住んでいないことは明らかだった。だが、不思議と、荒れ果てたという印象は受けなかった。セルフィが言ったように、ただ、静かに時を重ね、眠りについているかのような、穏やかな空気がそこには流れていた。


 建物の入り口には、一枚の古びた木の板が打ち付けられており、そこには『入居者募集』の文字が、かすれてほとんど読めない状態で書かれていた。



 俺たちは、先ほどの不動産屋の主人を連れて、再びその古いアパートの前に立っていた。主人は、俺たちがこの物件に興味を示したことに、心底驚いているようだった。


「お客さん、本気ですかい? この建物は、もう十年以上も借り手がついとらんのですよ。見ての通り、古くて不便ですし、街の中心からも少し離れてますからな…」

「いいから、中を見せてくれ」


 俺のその言葉に、主人はやれやれといった風に肩をすくめると、錆びついた鍵束の中から一本を選び出し、埃をかぶった木の扉の鍵穴に差し込んだ。ぎ、という耳障りな音を立てて、扉はゆっくりと内側へ開いていく。


 内部に足を踏み入れた瞬間、俺の鼻腔をくすぐったのは、古い木と、埃と、そして長い時間だけが作り出すことのできる、独特の匂いだった。ひんやりとした空気が、頬を撫でる。一階の廊下を進み、軋む階段を上って、二階の一番奥の部屋。そこが、俺が見初めた場所だった。


 部屋は、がらんとしていた。広さは、宿屋の俺の部屋の二倍ほどだろうか。決して広くはないが、一人で暮らすには十分すぎるほどの空間だ。壁は、漆喰がところどころ剥がれ落ちて、下の石材が剥き出しになっている。床板は、歩くたびにミシミシと頼りない音を立てた。部屋の奥には、小さな窓が一つだけあり、そこから差し込む光が、室内に漂う無数の埃を、銀色の粒子のように照らし出していた。


 だが、俺は、この部屋が気に入った。


 何よりもまず、その静かさがいい。大通りから一本入っているだけで、街の喧騒は嘘のように遠ざかっている。これならば、俺が研究や実験に集中するのを妨げるものは何もないだろう。そして、セルフィが感じ取ったように、この部屋には、奇妙なほどに落ち着いた空気が流れていた。マナの流れが淀んでいる、と彼女は言った。それはおそらく、この建物が古い石材でできていることと、長い間、人の活気がなかったことによるものだろう。だが、その淀みは、外部からの余計な干渉を遮断する、一種の結界のような役割を果たしているのかもしれない。俺の能力のような、異質な力を使うには、むしろ好都合な環境と言えた。


 俺は、部屋の中央に立つと、床板にそっと手のひらを触れさせた。


 『吸収』。


 建物の構造、素材の強度、築年数、そして、この部屋で過去に暮らしていた人々の、おぼろげな記憶の断片。それらが、一瞬にして俺の中に流れ込んでくる。大きな問題はない。多少の補修は必要だが、基礎はしっかりしている。この場所ならば、俺の『城』として、十分に機能するだろう。


「…ここに決める」


 俺がそう宣言すると、不動産屋の主人は、信じられないというように目を丸くした。


「よ、よろしいのですか? 本当に、ここで…?」

「ああ。家賃は?」

「は、はあ…。銀貨八枚で、いかがでしょう…?」


 彼は、おそるおそる、というように値段を提示した。おそらく、相場よりもかなり安い金額なのだろう。俺は、迷わず頷いた。


「それでいい。契約してくれ」


 こうして、俺の新しい住居は、あまりにもあっさりと決まった。それは、他の誰から見れば、ただの古くて薄汚いアパートの一室に過ぎないのかもしれない。だが、俺にとっては、この異世界で初めて手に入れた、自分だけの、かけがえのない領土だった。



 契約を済ませたその日の午後から、俺たちは早速、新しい部屋への引っ越し作業を開始した。引っ越し、と言っても、俺自身の荷物など、ほとんどないに等しい。宿屋に置いていた着替えと、先日購入したばかりの冒険者用の装備一式。それらを革袋に詰め込むだけで、準備は終わってしまった。


 問題は、家具だった。がらんどうの部屋では、生活することはできない。最低限、寝台と、机、そして椅子は必要だ。俺たちは、街の中古家具屋を巡り、できるだけ安く、そして丈夫そうなものを探し回った。ここでも、アリシアの交渉術と、セルフィの、物の本質を見抜くかのような鋭い観察眼が、大いに役立った。アリシアは、店の主人相手に、姉御肌の迫力と愛嬌を巧みに使い分けて値切り交渉を行い、セルフィは、俺が選んだ家具の脚にそっと触れて、「…こっちの木。歪み、少ない」などと、的確な助言を与えてくれる。彼女たちの助けがなければ、俺は質の悪い品を、相場以上の値段で掴まされていたかもしれない。


 購入した家具を、アパートまで運び込むのが、次なる難関だった。寝台のような大きな家具を、男手一人で二階まで運び上げるのは、骨の折れる作業だ。だが、ここでも、俺の仲間は、その能力を遺憾なく発揮してくれた。


「よっと! こんなもん、あたしに任せときな!」


 アリシアは、そう言うと、屈強な男が二人でようやく持ち上げるような、重い木製の寝台の枠を、一人で軽々と肩に担ぎ上げてしまった。騎士としての鍛錬で培われたその膂力は、並の男を遥かに凌駕している。彼女は、額に汗一つ浮かべることなく、軋む階段を軽快な足取りで上っていった。その姿は、頼もしいというよりも、もはや畏怖の念すら抱かせるものがあった。


 一方のセルフィは、力仕事こそ手伝わなかったが、その代わりに、驚くべき器用さで、俺たちの作業を支援してくれた。運び込まれた家具は、長年の埃をかぶって薄汚れている。セルフィは、どこからか取り出した濡れた布で、その汚れを一つ一つ、丁寧に拭き清めていく。その指先の動きは、まるで精密な機械のように正確で、無駄がない。あっという間に、古びた家具は、本来の木の色合いを取り戻し、見違えるように綺麗になっていった。さらに彼女は、俺が気づかなかった床板のささくれや、壁の小さな亀裂を見つけると、懐から取り出した小刀で器用に削り、あるいは森で採ってきたという粘着性の高い樹脂で、それを塞いでいく。彼女の手にかかれば、この古びた部屋も、少しずつ、人が住める快適な空間へと生まれ変わっていくようだった。


 俺もまた、黙々と作業を続けた。床を掃き、窓を拭き、運び込まれた家具を、頭の中で描いた最適な配置へと動かしていく。大変な作業ではあった。だが、不思議と、苦痛は感じなかった。むしろ、自分の手で、自分の居場所を作り上げていくという、静かな喜びに満たされていた。そして、その作業を、当たり前のように手伝ってくれる仲間が、すぐそばにいる。その事実が、俺の心を、じんわりと温かくしていた。


 全ての作業が終わった頃には、西の空が茜色に染まり始めていた。部屋の中には、最低限の家具――寝台と、机と、椅子が一つずつ――が運び込まれ、掃除も隅々まで行き届いている。先ほどまでの、埃っぽくて生命感のなかった空間は、今や、新しい生活の始まりを告げる、清潔で、静かな場所へと変貌を遂げていた。


 俺とアリシアとセルフィは、運び込んだばかりの机を囲むようにして、床に直接座り込んだ。体は汗と埃で汚れ、心地よい疲労感が全身を包んでいる。


「いやー、疲れたな! でも、どうだ、ケント! なかなか良い部屋になったじゃないか!」


 アリシアが、汗を拭うのも忘れて、満足そうに部屋の中を見渡しながら、豪快に笑った。その声が、がらんとした部屋に明るく響き渡る。


「これで、あんたも今日から一国一城の主だな! まあ、あたしたちがいつでも遊びに来られるように、合鍵はもらっとくけどな!」


 彼女の冗談に、俺は苦笑を返すしかなかった。


 セルフィは、部屋の隅、窓際の床に静かに座り込み、外の景色を眺めていた。窓から吹き込む夕暮れの風が、彼女の銀色の髪を優しく揺らしている。彼女は、しばらくの間、何も言わずに外を眺めていたが、やがて、こちらを振り返り、ぽつりと、呟いた。


「…悪くない」


 その短い言葉には、飾り気も、余計な感情も含まれていない。だが、それ故に、彼女がこの場所を、そして、この場所で新しい生活を始めようとしている俺のことを、確かに認めてくれているのだということが、ストレートに伝わってきた。


 俺は、そんな二人の姿を、順番に眺めた。アリシアの、太陽のような明るさ。セルフィの、森の奥にある湖のような静けさ。全く異なる個性を持つ二人が、今、俺がこの世界で初めて手に入れた『自分の城』に、ごく自然な風景の一部として存在している。


 俺は、孤独を求めて、この部屋を借りたはずだった。誰にも邪魔されず、一人で自分の探求に没頭するために。だが、この、がらんとした、殺風景な部屋が、不思議と寒々しく感じられないのは、なぜだろうか。むしろ、この二人がいることで、この何もない空間が、温かい、帰るべき場所として、俺の目に映っている。


 血の繋がらない、種族も違う、出会ってまだ数日の仲間。だが、俺たちは、共に森を駆け、同じ釜の飯(たとえそれが美味しくないものであっても)を食べ、そして今、こうして一つの部屋を作り上げるという共同作業を成し遂げた。その積み重ねが、俺たちの間に、目には見えない、しかし確かな繋がりを育んでいるのかもしれない。


 これから、この部屋で、俺の新しい生活が始まる。それは、きっと、俺が当初思い描いていたような、孤独で静謐な探求の日々とは、少し違うものになるのだろう。時折、この騒がしい姉御が、酒瓶片手に押しかけてくるに違いない。そして、この物静かなエルフが、俺の実験を、興味深そうに、窓辺からじっと観察していることもあるだろう。


 だが、それでもいい。いや、むしろ、その方が、いいのかもしれない。


 俺は、ただただ窓の外に広がる、異世界の夕暮れの空を眺めていた。

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