第6話

「…あなた。一体、何者?」


 セルフィから放たれた、あまりにも直接的な問い。その言葉は、まるで静かな水面に投じられた小石のように、俺の心に小さな波紋を広げ続けている。彼女の深い森の湖面を思わせる翠の瞳は、俺から答えを引き出すまで逸らさないという、静かだが確固たる意志を映していた。


 俺は、その問いに即座に答えることができなかった。何と答えればいい? 異世界から来たとでも言うのか。万物の情報を読み解き、新たな概念を創造する力を持つとでも?そんな荒唐無稽な話を、信じてもらえるはずがない。仮に信じられたとしても、それは俺が最も避けたい『厄介事』の始まりを意味するだけだ。


 俺が返答に窮していると、不意に、俺とセルフィの間にアリシアが割って入った。彼女は、両腕を俺たちの肩に回し、わざとらしいほどに陽気な声で言った。


「まあまあ、そんな固い話は後だ、後! それより、腹が減っただろう? 依頼も無事に終わったことだし、景気づけに美味いものでも食いに行こうじゃないか! あたしのおごりだぜ!」


 その言葉は、張り詰めていた場の空気を強引に弛緩させる響きを持っていた。セルフィは、アリシアの介入に少しだけ不満そうな表情を浮かべたが、パーティのリーダーである彼女の提案を無下にはできないようだった。彼女は小さく息をつくと、俺から視線を外し、前を向いた。俺は、アリシアの配慮に内心で感謝した。彼女は、俺が答えにくい質問をされていることを察して、助け舟を出してくれたのだろう。その大雑把に見える振る舞いの裏にある繊細な気遣いが、少しだけ俺の心を軽くした。


 俺たちは、アリシアに導かれるまま、宿屋の食堂へと向かった。時刻は夕暮れ時、一日の仕事を終えた人々で食堂は賑わいを見せている。冒険者たちの武勇伝を語る大声、商人たちの勘定高い笑い声、そして宿の従業員が忙しなく食器を運ぶ音。それらが混然となり、空間全体を一つの大きな生命体のように脈動させていた。俺たちは運良く窓際の席を見つけ、どかりと腰を下ろす。木の椅子が、一日の疲労を蓄積した体を受け止めて小さく軋んだ。


「さて、何にすっかな。今日は報酬も入ったことだし、奮発してこの店で一番上等な肉の煮込みでも頼んでみるか!」


 アリシアは、壁に掛けられた木製の品書きを眺めながら、楽しそうに言った。依頼の成功で懐が温かいせいか、その声はいつも以上に弾んでいる。俺も、この世界の食文化というものに興味があった。どんな料理が出てくるのか、期待と、ほんの少しの不安をない交ぜにしながら、アリシアと同じものを注文した。セルフィは、いつも通り木の実と水の入った皿を静かに注文している。


 しばらくして、宿の女主人が、湯気の立つ大皿を三つ、俺たちのテーブルに運んできた。目の前に置かれた料理を見て、俺は、自分の抱いていたささやかな期待が、見当違いのものであったことを悟った。


 皿の上に乗っていたのは、分厚く切られた黒パンと、一見すると具沢山に見えるスープだった。黒パンは、その名の通り炭のように黒く、表面は石のように固そうだ。試しに指で押してみたが、ほとんどへこむ気配もない。これは、食べるというよりは、武器として使った方が有効かもしれない。


 そして、問題はスープだった。様々な野菜や、干し肉らしきものが入っているのは分かる。だが、それらが渾然一体となって、食欲をそそるどころか、むしろ減退させるような、どんよりとした茶色の液体を生み出していた。鼻を近づけると、野菜の青臭い匂いと、塩の角が立った匂いだけが、つんと鼻腔を刺激する。


 これが、この店で一番高い料理。異世界の食文化の洗礼、とでも言うべきか。俺は、内心で静かにため息をついた。俺のいた世界の食事が、いかに多様で、洗練されていたかを、こんな形で思い知らされることになるとは。


「よし、来たな! じゃあ、遠慮なくいただくぜ!」


 アリシアは、そんな俺の内心の動揺など露知らず、快活な声を上げると、スプーンで豪快にスープをすくい、口へと運んだ。そして、数回咀嚼すると、こくりと飲み下す。その表情に、特に感動の色は見られない。


「…うん、まあ、いつも通りの味だな。腹に溜まりゃ、それでいい」


 彼女にとって、食事とは、おそらく生命活動を維持するためのエネルギー補給、という以上の意味を持たないのだろう。その割り切り方は、彼女らしいと言えば彼女らしい。彼女は、固い黒パンをスープに浸し、柔らかくなったところを大きな口で頬張り始めた。


 俺は、おそるおそる、自分もスープを一口、口に含んでみた。


 瞬間、口の中に広がったのは、暴力的なまでの塩辛さだった。味付けの基本が、まるでなっていない。ただ、塩を入れれば味がつく、という原始的な発想から抜け出せていないようだ。野菜は煮込まれすぎて形が崩れ、それぞれの素材が持つ本来の風味は完全に失われている。干し肉から出たであろう出汁の味も、過剰な塩分によってかき消され、後にはただ、ぼんやりとした獣臭さが残るだけ。


 これは、料理と呼べる代物ではない。ただの、栄養素の集合体だ。


 俺は、無言でスプーンを皿に置いた。これ以上、この液体を口にする気にはなれなかった。隣を見ると、セルフィもまた、自分の前に置かれた木の実の皿を、ただ静かに見つめているだけだった。彼女は、俺以上に味覚が鋭敏なのかもしれない。エルフという種族は、森の恵みをそのまま食すという。そんな彼女にとって、この人工的で、しかも不出来な料理は、耐え難いものに違いなかった。


 俺は、しばらくの間、思考を巡らせた。この状況は、実に嘆かわしい。だが、同時に、俺の探求心を強く刺激するものでもあった。なぜ、このスープはここまで美味しくないのか。その原因は、どこにあるのか。調理法か、味付けか、あるいは食材そのものの質か。それを解き明かし、改善することはできないものか。


 俺の持つ『吸収』と『融合』の力。それは、なにも戦闘や道具の作成だけに使えるものではないはずだ。料理という、極めて創造的で、かつ緻密な法則性に基づいた分野においてこそ、この力は真価を発揮するのではないか。そんな考えが、頭をもたげてきた。


 俺は、静かに席を立った。俺の唐突な行動に、アリシアが不思議そうな顔でこちらを見る。


「どうしたんだい、ケント? 口に合わなかったか?」

「…少し、試したいことがある。女将さん、厨房を少し貸していただけないだろうか」


 俺は、食器を片付けに来た宿の女主人に、そう声をかけた。彼女は、恰幅のいい、気の強そうな中年女性だった。俺の申し出を聞くと、彼女は怪訝な顔で眉を上げた。


「厨房を? 一体、何に使うんだい、冒険者さんよ」

「このスープを、もう少しだけ、美味しくできないかと思って」


 俺の言葉に、女主人の表情が険しくなった。自分の店の料理に、ケチをつけられたと思ったのだろう。


「ほう。うちの味に、何か文句でもあるってのかい?」

「いえ、そういうわけでは…。ただ、ほんの少し、手を加えるだけで、もっと良くなる可能性があると感じただけだ」


 一触即発、とまではいかないが、食堂の空気が少しだけ緊張した。アリシアが、慌てて間に入る。


「まあまあ、女将さん、そう怒らないでやってくださいよ。こいつ、悪気はないんです。ただ、ちょっとした好奇心からでしてね。どうだい? 試しにやらせてみては。もし、まずくなったら、代金はあたしが倍払いますから!」


 アリシアの言葉と、彼女が懐からちらつかせた銀貨の袋が、女主人の態度を軟化させたようだった。彼女は、まだ不満そうな顔つきではあったが、腕を組んで一つため息をつくと、顎で厨房の方をしゃくってみせた。


「…好きにしな。ただし、食材を無駄にしたり、火事でも起こしたりしたら、承知しないよ」


 許可は、出た。俺は、女主人と、そしてアリシアに短く礼を言うと、食堂の奥にある厨房へと向かった。その背中に、セルフィの、静かだが強い興味を帯びた視線が注がれているのを感じながら。



 宿屋の厨房は、想像していた通り、質素で実用本位な場所だった。石でできた分厚い壁、黒光りするほどに磨き込まれた木の調理台、そして、部屋の中央には巨大な石造りのかまどが鎮座している。壁には、使い込まれた鉄製の鍋やフライパン、そして用途も分からないような調理器具がいくつも吊るされていた。決して衛生的とは言えないが、ここで日々、多くの人々の食事を賄ってきたという、生活の歴史が染みついている空間だった。


 俺はまず、調理台の上に、市場で買い付けておいた自分の道具を広げた。名も知れぬ、数種類の乾燥ハーブ。ごつごつとした、岩のような塩の塊。そして、保存食として持っていた、干し肉。これらが、今日の主役となる。


 俺は、まず、乾燥ハーブの入った小袋の一つを手に取った。そして、その中の一片を指先でつまみ、意識を集中させる。


 『吸収』。


 脳内に、そのハーブの全てが流れ込んでくる。植物としての分類、主な成分、含有される精油の化学構造式、そして、それが持つ独特の芳香と、わずかな苦味。熱を加えることで香りがどう変化するのか、他の食材と合わせた時にどのような相互作用を起こすのか。そのハーブに関する、ありとあらゆる情報が、俺の知識として再構築されていく。


 次に、岩塩の塊に触れる。これも同様だった。主成分である塩化ナトリウムの純度、混在するマグネシウムやカリウムといったミネラルの含有量、そして、それらがもたらす、単純な塩辛さだけではない、複雑な旨味と後味。


 最後に、干し肉。これは、俺にとって最も重要な素材だった。指先が触れた瞬間、俺はその肉の本質を理解した。豚肉を塩漬けにし、燻製にしたもの。その過程で、肉のタンパク質がアミノ酸へと分解されている。特に、グルタミン酸やイノシン酸といった、いわゆる『旨味成分』が豊富に含まれている。これが、料理に奥行きと満足感を与える、味の核となるのだ。


 俺は、それら三つの素材の情報を、頭の中の仮想空間で何度も組み合わせ、その結果をシミュレートした。これは、単なる足し算ではない。それぞれの素材が持つ特性を、最大限に引き出し、かつ互いに高め合う、最適な比率と組み合わせを見つけ出す作業だ。ハーブの爽やかな香りで干し肉の獣臭さを抑制しつつ、その旨味を岩塩のミネラルが下支えし、全体の味を引き締める。それは、まるで複雑な数式を解くかのような、あるいは未知の魔法術式を構築するかのような、知的で創造的なプロセスだった。


 やがて、俺は『解』にたどり着いた。


 俺は、厨房の隅にあった石臼を借り受けると、三種類のハーブと、砕いた岩塩、そして細かく刻んだ干し肉を、導き出した完璧な比率でその中に入れた。そして、石の棒で、ゆっくりと、丁寧に、それらをすり潰していく。ゴリ、ゴリ、という硬質な音が、静かな厨房に響く。


 これは、単なる物理的な混合ではない。俺の意思と、俺の持つ力が、この混合プロセスに介在している。それぞれの素材が持つ根源的な情報が、俺のイメージ通りに再構築され、一つの、全く新しい概念へと昇華していく。


 『融合』。


 やがて、石臼の中には、淡い緑色を帯びた、極めて微細な粉末だけが残った。その粉末からは、これまでこの厨房のどこにも存在しなかった、複雑で、芳醇で、そして食欲を猛烈に刺激する香りが立ち上っていた。それは、ハーブの爽やかさと、燻製肉の香ばしさ、そして岩塩が持つ大地の香りが、奇跡的なバランスで調和した、未知の香りだった。


 俺は、その自ら創造した『万能香辛料』を、小さな革袋に慎重に移し替えた。そして、大鍋に残っていた、あの絶望的に美味しくないスープを、かまどの火で再び温め直す。


 スープがくつくつと煮立ち始めたところで、俺は、革袋から、ほんの一つまみ、万能香辛料をその中に振り入れた。


 変化は、劇的だった。


 香辛料がスープの表面に触れた瞬間、じゅわ、という微かな音と共に、それはあっという間に液体の中に溶けていった。そして、次の瞬間、鍋から立ち上る湯気の質が、全くの別物へと変貌を遂げた。先ほどまでの、ぼんやりとした野菜の匂いは完全に消え去り、代わりに、先ほど俺が創造した、あの芳醇な香りが厨房全体に一気に広がったのだ。それは、腹の底から空腹を呼び覚ますような、抗いがたいほどに魅力的な香りだった。


 その匂いに誘われたのだろう。厨房の入り口から、宿の女主人が、訝しげな顔でこちらを覗き込んだ。


「…な、なんだい、この匂いは…。あんた、一体、何を入れたんだい?」


 彼女の声には、戸惑いと、隠しきれない好奇の色が浮かんでいた。俺は、何も答えず、小さな木の椀に、温め直したスープを少量だけ注ぎ、彼女に差し出した。


「…味見を」


 女主人は、疑わしげに俺の顔とスープを交互に見比べたが、やがて意を決したように椀を受け取り、その中身を一口、用心深くすすった。


 そして、彼女の目が、驚愕に見開かれた。



 俺が、湯気の立つスープ皿を三つ乗せた盆を手に食堂へ戻ると、アリシアは退屈そうにテーブルに頬杖をついていた。俺の姿を認めると、彼女は呆れたような、それでいて少し楽しそうな声で言った。


「お、戻ってきたな、料理長。ずいぶんと時間がかかったじゃないか。一体、どんな魔法を使ったんだい?」

「…魔法じゃない。ただの料理だ」


 俺はそう答えながら、三人の前に、生まれ変わったスープを置いた。見た目は、先ほどのものとそれほど大きくは変わらない。だが、立ち上る香りは、もはや比較することすら馬鹿馬鹿しいほどに、天と地ほどの差があった。


 アリシアは、その匂いを嗅いだだけで、目を丸くした。


「なっ…!? なんだ、この匂いは…! さっきのスープと、同じものなのか!?」


 彼女は、信じられないというように、皿に顔を近づけてくんくんと匂いを嗅いでいる。その姿は、大きな犬のようで、少しだけ微笑ましかった。


 俺は、無言で彼女にスプーンを促した。アリシアは、半信半疑のまま、恐る恐るスープを一口、口に運んだ。


 次の瞬間、彼女の動きが、完全に停止した。


 夏の空のように澄んだ碧眼が、これ以上ないというほどに大きく見開かれている。そして、その表情は、驚愕から、信じられないという困惑へ、そして、やがて至福の恍惚へと、めまぐるしく変化していった。


「…う、美味い…」


 彼女の唇から、絞り出すような声が漏れた。


「なんだこりゃあ! 美味すぎる! ただの野菜スープだったはずなのに、なんでこんなに深い味がするんだ!? 肉の旨味と、なんだかよく分からんが良い香りが口の中に広がって…!」


 一度、味を認識した彼女の勢いは、もう誰にも止められなかった。彼女は、先ほどまでの退屈そうな様子が嘘のように、夢中でスープを口に運び始めた。固い黒パンをスープに浸し、その最後の一滴までを惜しむかのように、皿を綺麗に平らげていく。


 俺は、その様子を静かに見守りながら、もう一人の人物に視線を移した。セルフィだ。


 彼女は、アリシアのように騒ぎ立てることはなかった。ただ、目の前の皿から立ち上る未知の香りに、わずかに戸惑っているようだった。彼女は、俺と、アリシアと、そしてスープの皿を、順番に見比べた後、やがて、意を決したように、ゆっくりとスプーンを手に取った。


 そして、ごく少量だけスープをすくい、その小さな唇へと、静かに運んでいく。


 その瞬間を、俺は見逃さなかった。


 スープが彼女の舌に触れた刹那、それまで一切の感情を映さなかった彼女の翠の瞳が、かすかに、しかし確かに、揺らめいたのだ。いつもは静かな湖面を思わせるその瞳に、小さな驚きと、そして純粋な感動のさざ波が立った。それは、ほんの一瞬の出来事だったが、俺には、彼女の心の奥深くで起きた、大きな変化のように感じられた。


 セルフィは、しばらくの間、口に含んだスープの味を確かめるように、じっと動きを止めていた。そして、やがて、こくりと喉を鳴らしてそれを飲み下すと、もう一度、今度は先ほどよりも少しだけ多くの量を、スプーンですくい上げた。


 彼女は、何も言わなかった。だが、その黙々と、そしてどこか大切そうに食事を進める姿そのものが、何よりも雄弁な賞賛の言葉となっていた。


 俺は、その光景を眺めながら、奇妙な満足感を覚えていた。俺がこの世界に来てから、初めて、自分の力で、誰かを純粋に喜ばせることができた。それは、ゴブリンを倒した時のような、力で状況をねじ伏せるのとは全く違う、穏やかで、温かい達成感だった。


 食事とは、ただ腹を満たすだけの行為ではない。それは、人と人との心を通わせ、分かち合うための、極めて重要な儀式なのだ。俺は、自分が生きてきた世界で当たり前のように享受してきたその文化の価値を、この異世界で、改めて認識することになった。


 そして、俺のこの力は、そのための、この上なく強力な道具になるのかもしれない。平穏な生活。それは、ただ静かに、目立たずに暮らすことだけを意味するのではない。気の置けない仲間と、温かい食事を囲み、笑い合う。そんな、ささやかで、何気ない日常の積み重ねこそが、俺の求める本当の平穏なのかもしれない。


 俺は、自分の前に置かれたスープの皿に、ようやく手を伸ばした。自分で作り出した、この世界で初めての『料理』だった。

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