悪夢と現状
「ありがとうね、りぃや」
離れに戻って子澄さんにそう声を掛けられた時、堰き止めていた涙が決壊した。
「私の為だったのねぇ。私の為に、殿方の中に入っていってくれたのね」
「でも、駄目でした!」
「でも、私はあなたのその心が嬉しかった」
子澄さんが泣きじゃくるわたしを抱き締めてくれた。
「それに志才様相手に良くやったと思うわよ」
「あの人、キライです……!」
「あらあら」
ふふ、と笑い声。
その柔らかい声と、衣に焚きしめられた香の甘い香りが刺々しくなっていたわたしの心を少しずつ癒やしてくれる。
「そういえば……妹って……」
子澄さんの胸の中で段々と落ち着きを取り戻したわたしは、ふと彼女が志才さんに放った言葉を思い出した。
──『私の可愛い妹に』
「ごめんなさい。嫌だったかしら?最近ずっとりぃやと過ごしていてね、貴女が妹なら良いのにと思っていたから、つい口を突いてしまったわ」
「嫌じゃないです!!わたしも、子澄さんがお姉さんだったら嬉しい」
美人で優しい子澄さん。本当に彼女が姉ならどんなに素敵だろうと思う。
「ありがとう。私たちはもう姉妹よ」
子澄さんはそう言ってくれるけれど、いつまでも彼女の柔らかい胸に顔を埋め、背中を撫でられているわたしは、まるで赤ん坊のようだ。
文若さんに子供扱いされても仕方ない。
「子澄さん……わたし、もっと勉強します。そして……文若さんにもいつか大人だと認めてもらえたら、わたしを助けてくれた子澄さんと文若さんを、きっと助けるから!」
「ええ。困ったときはお願いね。」
でも、その前に一緒に夕餉を食べましょう。ね。とたった今姉になったその人は微笑んだ。
夜が更けても文若さんと志才さんが何やら話し合う声はずっと母屋の方から聞こえてきていた。
時々熱が入ったかのように高まる志才さんの言葉を聞き取ろうと、わたしはその度に無意識に耳を傾けてなかなか寝付けない。
夜の静寂の中。微かな羽音がする。
この邸に来て数日後に、あれは蝙蝠の音だと文若さんが教えてくれた。
わたしはまだ音の正体を見たことがないから、それが本当か嘘なのかは分からない。
微睡みに落ちる寸前、遠くから馬の蹄の音が聞こえた気がした。
それが原因かもしれない。
その日の晩に見た夢は、蝙蝠の羽を持った漆黒の馬が出てきた。その馬は炎の中で嘶きながら、逃げ惑う人々を踏み付ける。
踏みつけられた人たちの中に見覚えのある顔がある。あの母親と流民たち。それから恵伯さんに──子澄さんと文若さんだ!
みんな苦しそうに顔を歪ませて、傍観するわたしに向かって手を伸ばして助けを求めている。
「りぃや」
「りぃや」
この世界でわたしに優しくしてくれた人たちが、言葉の通じない化物の圧倒的な暴力によって踏み躙られている。
「りぃや」
「璃耶」
突然、両脇からわたしの名を呼ぶ声。
「理想では現実を救えないんだよ」
右を向くと奉孝さんが、いつかと同じ言葉を放った。
「何も知らぬおまえは誰も助けることはできない」
左からは志才さんの声。
左右のふたりは声を揃えてわたしに問いを投げ掛ける。
「いつまでも無知なままで、おまえは一体この時代に何をしに来たのだ?」
そんな事を言われても、わたしにだって分からない。
自分がなぜ突然こんな時代に放り込まれたのか。漢詩や漢文は好きだったけど、杜甫や李白が生まれる前の三国時代になんて行ってみたいと夢想したことすらなかったのに。
「分からない……。わたしにだって、わたしがなんの為にここにいるのかなんて、全然わからない……。早く現代に帰りたいよ」
その方法も分からないのに「帰りたい」と望むこと自体過ぎたる夢だ。それでもわたしには、もうひとつ譲れない願いができた。
「でも、この時代で出来た大切な人たちを護りたいって思っちゃいけないのかなぁ?!」
「りぃや」
誰かの呼ぶ声がする。
「りぃや、起きて。朝だよ」
男の人の声だ。どこかで聞いたことがある。
「ホラ、早く起きないと荀兄が行ってしまうよ」
早く起きないと文若さんが行ってしまう?
「どこに?!」
ガバリと跳ね起きると、牀で眠るわたしを覗き込むような姿勢の奉孝さんがいた。
一ヶ月ぶりに見るその顔は少しやつれていて、無精髭すら生えている。
「……奉孝さん?」
夢で見た冷たい瞳じゃない。その冷たさを柔和な色で隠したいつもの奉孝さんの瞳だ。
「再会の挨拶は後でね。もう皆前庭に集まっているよ」
「文若さん、どこかに行くんですか?!」
「あれぇ?聞いてないかな」
おかしいなぁ、とでも言うように奉孝さんがバリバリと頭を掻いた。フケが飛び散ってとても汚い。
「
「徐州──?!」
なぜその可能性を考えなかったのかと頭を抱えそうになる。
文若さんは身長もそんなに高くないし、筋骨隆々でもない。見るからに文官といった格好をしていたから思い至らなかったのだ。
まさか、彼自身が戦場に赴くなんて。
ホワイトカラーの人間がまさか戦争の最前線に行くはずがないと、現代の常識で考えてしまっていた。
「そもそも荀兄は徐州への戦支度の為に曹州牧の側を離れて鄄城に来ていただけだからね。そりゃあ、戦が始まるとなればあちらに合流する──あ、りぃや?!」
奉孝さんの言葉を最後まで聞くことなく、わたしは枕元に置いていた軟玉の珠を手に取って前庭へ駆け出していた。
──『私が子澄やおまえをそうすると思うのか?』
昨夜、既に軍に合流すると分かっていた文若さんはどんな想いでそう口にしたのだろう?
やっぱりわたしはまだ無知な子どもで。無思慮に無遠慮に首を突っ込むべきではなかったんだ。
「文若さん!」
奉孝さんの言った通り、前庭にはすでに旅装束の文若さんと志才さん、それに彼らを見送る子澄さんと恵伯さんが揃っていた。
「あら、りぃや。起きたの?」
「昨夜は志才殿がうるさくてよく眠れなかっただろう?無理に見送る必要はなかったんだぞ」
子澄さんと文若さんが同時にわたしを見て口を開く。
「これを、文若さんに……」
わたしは右手に握り締めていた物をそっと文若さんの手のひらに転がした。
「子澄さんが、わたしを護ってくれると言っていたでしょう?だったら、きっと文若さんの事も護ってくれると思うんです」
「りぃや……」
手渡された軟玉の珠を見つめて文若さんはわたしの名を呟くだけだった。
その瞳の奥に隠された想いさえ、今の今までわたしは見ようともしていなかった。
「文若さんの留守中、わたしはもっと学んで子澄さんと恵伯さんを守ります!だからこちらのことは心配なく!」
昨夜のことを謝罪するのは違うと思ったから、ごめんなさいとは言わなかった。
けれど、出会ってからこの人がずっとわたしに対してそうしてくれたように、わたしも旅立つ彼にただ「安心」を与えてあげたい。
「おまえ自身のことも守らねばならぬぞ」
(好きだ──)
柔らかな笑顔に、場違いな想いが去来する。
(文若さんのことが好き)
こんな時に自分は何を思っているんだろう?感傷と好意を勘違いしてしまいそうな、こんな時に。
「子澄、恵伯。家のことを頼む。何かあれば本宅へ戻っているように」
「畏まりました」
子澄さんが家長としての命令に頭を下げて答えている。
「奉孝。私の留守中、子澄とりぃやを頼んだぞ」
「あなたの頼みならば、命に代えても」
文若さんがわたしを飛ばして隣の奉孝さんに声を掛ける。奉孝さんはいつもの軽妙な態度を納めて背筋を伸ばしてその言葉に答えた。
わたしには、やっぱり何も頼むことはないのかな。
(そうだよね。文若さんにとってわたしはまだ子どもで。自分の身は自分で守れと言うことくらいしか──)
無力さを痛感しながらも妙な自尊心が邪魔をして自己嫌悪に陥りそうになった
時。
「りぃや。昨夜の弁舌は見事だった。とてもひと月前に史を学び始めたとは思えぬほど」
昨夜のあの騒動を文若さんが蒸し返す。
「今度は志才さんに負けません」
「うん」
わたしの宣言を、文若さんは笑わなかった。
ただわたしの瞳を見つめて頷いただけだった。
「その才気溢れるお前の智で子澄や恵伯を扶けてやってくれ。この玉は戻って時に必ず返そう」
「──っ。はい!お帰りをお待ちしています!」
少しだけ認められたようで嬉しかった。
◆◆◆
南に旅立つふたりの、馬に跨った背中が見えなくなるまでわたし達は門の外で見送っていた。
「見た?志才の顔。自分には何もないのかよって顔してたよね」
ふたりの姿が見えなくなると、途端に面白そうに奉孝さんがわたしの肩を叩く。
いつ帰ってきたのかとか、今まで何してたのかとか、志才さんのこととか……文若さんのこととか。
聞きたいことは山ほどあるけど、とりあえず今は。
「臭い!!奉孝さん、臭いです!フケもシラミも垢もノミも酷いです!近付かないでください!!」
この手を、肩から離すのが先決だ。
「郭君。湯を用意するので、まずは湯浴みをしていらしたら?」
志才さんがいる内は頭から被った紗で顔を隠していた子澄さんが、その薄い布を取り払いながら奉孝さんに提案する。
「そんなに酷いかなぁ?自分じゃ気付かないもんだね」
奉孝さんはそんな事を言いながら脇のあたりの臭いを確認しているけれど、臭いはともかくフケ、シラミ、垢は自分でも充分気付けると思うんだけど?
「とにかく、その汚れを清めないうちはりぃやに近付かないでくださいね」
「えー。話すこと、いっぱいあるんだけど……」
「郭君」
不満そうな奉孝さんを子澄さんが低く名を呼んで窘める。なんだか、どこかで見た構図だ。
「りぃや、じゃあ積もる話は後でね!」
子澄さんに襟元を引っ張られ、ずるずると邸の中へ連行されていく奉孝さん。
その彼が「あ!」と声を上げた。
「ひと月ちょっとで随分言葉を覚えたんだね、りぃや。驚いたよ!」
そんな嬉しい言葉を残して、奉孝さんは湯殿に消えていった。
「え?荀兄に伝言をお願いしたんだけど、聞いてない?」
湯浴みを済ませて離れにやって来た奉孝さんは「今まで何してたんですか?」という質問に口を尖らせてそう答えた。
「徐州に行った、とだけは聞きましたけど」
「挨拶できなくてごめんね、って伝えておいて、とも言ったんだけど……」
「…………ああ!」
かれこれひと月以上前の記憶を掘り返す。言葉の勉強が忙しくて忘れていたけれど、確かに文若さんが言っていた。
「アレ、文若さんの嘘だと思ってました」
「えぇ。なんで?」
「だって奉孝さんって、わたしのことどうでもいいと思ってるじゃないですか」
わたしの言葉に奉孝さんは目を泳がせて、何かを言い繕おうとして──やめた。
それから右肘を突いて牀にだらしなく寝そべる。
(わたしのベッドなんだけど──)
湯浴み後だから許してあげるけど。
「キミって、本当に頭が良いんだねぇ。つくづく良い拾いものをしたんだな、俺は」
「助けてもらったことには変わりないですから、別に奉孝さんがわたしのことをどう思ってようがどうでもいいです」
奉孝さんが目を瞠る。
なんですか、と尋ねると彼は口元を手で隠して、反対の手をひらひらと振った。
「いやぁ、キミ、随分と荀兄に似ちゃったね。自分がどう思われてようがどうでもいいなんて!」
「いけませんか?」
問いながら、心の中では(違う)と思っている。
わたしは文若さんのように何か揺るがない指標があって他人からの視線に無頓着な訳ではない。
ただ、守りたい人ができた今のわたしには、そんな事を気にしている心のゆとりがないだけだ。
「いけなかぁないけどねぇ。若い娘ってのは、もっとこう、男からの評価を気にするもんでしょ」
「わたしには必要ありません。わたしは文若さんと子澄さんに恩を返して──そして、元いた国に帰るだけですから……」
「ふ……ぅん」
相変わらず口元を隠した奉孝さんが、つまらなそうに──それでも瞳の奥で何かを値踏みするかのように呟いた。
「じゃあ、キミのその覚悟に免じて、りぃやが知りたいこと何でも教えてあげるよ。荀兄にもキミの教育係を引き継ぐよう言われたしね」
そう言って奉孝さんは本当にわたしの質問に答え始めた。
奉孝さんは文若さんの依頼で徐州へ行っていて昨夜遅くに帰ってきたらしい。徐州各地の偵察と、民への風説の流布が奉孝さんに託された仕事だったとの事だ。
「そのせいで徐州からの流民が増えていたんですか?」
自分たちの流言のせいで流民になった人に危害を加えられそうになっても「避ける権利がない」と言った文若さんの言葉を思い出す。
その流言に、奉孝さんも関わっていたということだ。
「流民が増えて良いことなんてあるんですか?しかも、その人たちは別に悪いことなんてしてないのに……」
「うん。流民が増えれば徐州だけじゃなくて周辺の
「……!!──奉孝さん、城門前に集まった人たちは朝になったら入城を許されるって言ってたのに……!」
「だって、あの時はキミが落ち込んでるように見えたからさ」
当然の事のように笑って言う奉孝さんが恐ろしく見える。でもわたしは黙って彼の言葉の続きを待った。
「民っていうのは、その州の資産なんだよ。平時は畑を耕して税を納め、戦時には兵となって戦に出る。これを離散させることは、これから攻め込もうとしている曹軍に有利に働くわけ」
「でも……」
「民兵を接収できなくさせる、というのは曹軍の
あの人は優しいからね、と奉孝さん。
奉孝さんは、茶化すことはあっても決して文若さんを悪く言うことはない。
「そもそも、なんで徐州を攻めなきゃいけないんですか?」
根本的な事を尋ねるわたしに、奉孝さんはニヤリと人の悪い笑みを見せた。
「徐州には鉄がある」
「鉄……」
「もう春秋の時代ではないからね。戦をするには鉄はいくらあっても足りないくらいだ。それに徐州の
「どうしても欲しいくらい良い場所ってことですか?」
子どもじみたわたしの問いに奉孝さんが「そうだね」と笑いながら頷く。
「海もあるし河もある。交易の要所でもあるし、董卓が権力を握っても徐州
わたしは頭の片隅にあるおぼろげな三国志の知識を総動員しながらその説明を聞いていた。
総動員したって、わたしの持っている知識は劉備と曹操と孫権が争って三国を鼎立したってことくらいだ。
曹操が残した詩や諸葛亮の出師表なんかも書写したことはあるけれど、そんなもの今はなんの役にも立たない。
目を瞑って眉間に皺を寄せていたら、何かを勘違いした奉孝さんが「後で子澄さんに地図を持ってきてもらおう」と言ってくれた。頭を悩ませていた原因は地理ではないけれど、文若さんに兗州付近の地理だけしか教えてもらっていなかったわたしにはありがたい。
「奉孝さん、この間まで徐州に行ってたんですよね?やっぱり良いところでした?」
鄄城周辺の荒れた畑を思い出す。
徐州があまり戦乱に巻き込まれることもなく豊かなら、あんな畑もないのかもしれない。
「今の徐州は駄目だね」
「どうしてですか?」
「刺史が良くない」
刺史、というと、何度か話に出ている「陶謙」と言う人のことだろう。
「下邳に
「は?」
刺史というのはその州の長官なのだと文若さんに教わった。日本でいえば都道府県知事みたいなものかな?とその講義の最中にわたしは思ったものだった。
そういう立場の人が賊と一緒になって略奪をする?
何を言っているのか分からなくて頭痛がしてきた。
「この時代の人たちって、それが普通なんですか?」
頭を抱えながら訊くと、奉孝さんは口元に手を当てて驚いたように口を開いた。
「まるで自分はこの時代の人間じゃないような口振りだな」
──しまった。
文若さんと子澄さん夫婦とはまた違う気安い態度に油断して、今まで胸に秘めていたわたしの秘密を──違う時代からやって来た人間だと、あっさり口を滑らせてしまった。
「あ、あの……!」
「ねぇ、りぃや。情報は『この時代』どんな財宝にも勝る価値を持っているんだよ」
「それは……」
どの時代でも一緒です。
答える声はどんどんと小さくなって、最後はもごもごと自分の口の中だけでこだました。
「ふぅ…ん。まぁキミの持っている『情報』は後で聞かせてもらうとして」
ニヤニヤと嫌な笑い方をしてから、奉孝さんは「陶謙のやり方は」と話を戻す。
「本当のことを言うと刺史や州牧が賊と手を結ぶってのはよくある事なんだよ。普段は畑を耕している民兵よりも賊のほうが戦いに慣れていて武力になるからね。でも、まるで賊の方に使われるようにして略奪を共に行って、自分も戦利品を山分けしてもらうってのはねぇ……」
よくあることとは言え、馬鹿のすることだよ。
と、奉孝さんが冷たく切り捨てる。
「で、しまいには陶謙の庇護下の闕宣がこの間、天子を
「えぇ?!」
奉孝さんの口から出てくる徐州の現状はさすがにわたしでもめちゃくちゃだと分かる。
「キミはさっきなんで徐州を攻めなきゃいけないのかと聞いたが、曹州牧の治める泰山で略奪を働かれ、資源豊富な州の長が天子を僭称する賊と一緒になってその略奪に加わっていた。逆に攻めない理由はあるのかと俺は問いたいね」
「──」
わたしの知る曹操孟徳という人は、三国志における劉備に対する悪役だ。たまたま見た映画なんかでは曹操こそ、帝位
でもその一方で、わたしは曹操が遺した数々の詩文を読んだ。彼の詩からはいつも作者の繊細な心を感じ取ることができた。
だからわたしは世間一般で語られる「曹操」と、詩人「曹操」がいつまでも一致しなくて戸惑っていたのだけれど──。
「曹操は、陶謙のようにはならないと言い切れるんですか?」
わたしの言葉に奉孝さんがまた目を瞠った。
牀に寝そべっていた体を起こして「キミねぇ」とため息を吐く。
「曹州牧のことをそんな風に呼んでは駄目だよ。荀兄に眉を顰められるよ」
「あ……」
文若さんの厳しい眼差しの前ではこんな失態は犯さなかったから、これも多分に奉孝さんの態度の気安さが原因なのだろう。
「文若さんと子澄さんには内緒にしてください」
礼節を重んじて、その大切さを教授してくれたあの夫婦にバレたら失望させてしまう。そんなことにならない様にと必死に奉孝さんに頼み込んだ。
「俺には無礼な子って思われても良いってこと?」
揶揄うような問い掛けにわたしは驚きをもって返す。
「奉孝さんはこんな事で失望しないじゃないですか?」
「え?」
完全に虚を突かれたという顔で瞠目する奉孝さん。
「え?誰だか分かれば実は呼び方なんて如何でもいいと思ってるでしょう?」
今まで見てきた彼は形式よりももっと違う何かを重んじるように見えたからそう返したのだけれど。
「違いましたか?」
「俺が礼節を知らぬとでも?」
「違います。奉孝さんは形式的な礼節に囚われないで、礼を尽くす相手を選んでいるって事なんですけど……」
そしてその相手の中にわたしは当然入ってないし、おそらく曹操も入ってはいないのだと思う。それだけだ。
「──キミは順調に人を見る目を養っているようだね。感服したよ」
そう言って、奉孝さんは牀に投げ出していた足をゆっくりと床に下ろした。真っ直ぐにわたしに向かって対座して崩れた襟元を整える。
「では、俺はこれからキミにも礼をもって接することにしよう。曹州牧は陶謙のようにはならないのかと訊いたね?その答えは分からない、だ。今は大丈夫かもしれないと思えても人がどう変わるかなんて誰も──おそらくその人自身にも分からないことだからね」
そうなのかもしれない。
人は人を語るときに何か「信念」を見つけ出して語ろうとするけれど、人間は置かれた状況や周囲の人によって常に容易に変節する生き物だ。
他人が「何かをする訳がない」と断じれる人は逆に信用できない。
「でも俺は、俺の信じる良くも悪くも『変われない人』が曹州牧を信じているから、今のところは彼を信じてみようと思って動いているんだよ」
子澄さんが文若さんのことを話すときにたまに見せる少し哀しそうな表情。「変われない人」と言ったとき、それと同じ顔を奉孝さんがした。
わたしには彼らのこの表情の意味が、まだ分からない。
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