奴隷たちへ

七夜 燕

第一章 死の森編

第1話 プロローグ

 ◆ プロローグ


 それは、僕のせいだろう――

 突然、聞いた事があるような、懐かしいような……そんな声がふと耳に入った。


 連日の猛暑が一段落した九月末、僕は自分以外の人間から搾取され続ける人生に疲れ果てていた。

 今年の春先、強い倦怠感、頭痛と耳鳴り、眩暈の症状が出たので診療内科で受診すると、自律神経障害と診断されてしまった。それから半年程度の間、休職をしている。

 社会人になって二十五年。結婚をして、家を建て、子宝にも恵まれた。一般的なそれなりの生活をしていたはずなのだが、今の健康状態はよろしくない。

 一人息子が大学進学をするという大事な時期。休職中は会社から傷病手当金が振り込まれるので、経済的な不安は少ないと言える。

 こんな状況だが、詰まるところ、これからを生きていくためには仕事をして収入を得続けなくてはならない。

 僕は社会復帰を果たすためのリハビリ生活を日々続けている。

 最近の日課になっている夜の瞑想を続ける。結論が出ている問に、なにか別の回答がないかを考え続けていた。


(なんのために働かなくてはいけないのだろう?)


 世間一般で言われている「働く理由」が脳裏を過る。お金、家族、食事、幸せのため……どれもが正解。

 だが、四半世紀の間、無我夢中で走ってきた人生だ。少し立ち止まっても罰は当たらないだろう。


(焦らずに少しずつ治していこう……)


 瞑想でよく目にする座禅の姿勢で、静かに心臓の音や体温、重心の位置に意識を向けながら自問自答を繰り返していると、身体に感じていたはずの重心が軽くなる感覚があった。

 驚いて目を開いてみると、自室ではない全く別の空間。

 確かに座禅の姿勢をしていたはずなのに、いつの間にか仰向けになって空を見ていた。

 服装は自室で着ていたまま、長袖Tシャツに長ズボンで裸足。

 広大な空間だが、身体に感じている気温は適温といっていい。

 視線だけ時計回転に、ぼんやりと広い円柱状の空間を眺める。

 空には宝石を散りばめたように星が輝き、長く円柱状に伸びた宇宙空間のようだ。色とりどりの星々が身を競い合うように煌めいていた。

 起き上がって周りに目を向けると、壁には本棚とは言い難い書架が螺旋状に夜空に向けて伸びている。

 見えている範囲の書架にはびっしりと本が並べられていた。


「なんだ? この変な空間、夢か?」


 見たこともない場所なのだから、夢以外のなんでもない。

 足元に目を向ける。大理石の床には自分と空の星々が映り込み、思わず息を呑んだ。

 幻想的。この表現がこの場所で一番しっくりする表現だろう。

 夢であることには間違いないのだが、これほど美しいと思える空間を他に知らない。

 歩きながら周囲を見渡していると、金髪の長い髪、白いドレスがとても印象的な人影が目に飛び込んできた。

 女性は少し跳ねるように身体を動かして、なにかを言っているようだ。

 距離があって言葉をうまく聞き取ることはできなかったが、先ほどの淀みのない澄んだ声を聞けば若い女性だと分かる。

 なにか良いことでもあったと見て取ることができた。


「申し訳ありません。ここは何処でしょうか?」


 少し距離はあるが、離れたところから女性に声を掛けた。

 我ながら初対面の相手に、変な質問をしているという自覚はある。

 声を掛けられた女性は、一瞬、身体を強張らせて僕の方を向いた。

 随分と驚かせてしまったようだ。これ以上警戒されないよう注意しつつ、ゆっくりと彼女に歩み寄っていく。


「驚かせてしまい、申し訳ありません。気が付いたらこの場所にいました」


 わざとらしく片手を頭に添えて近くまで来ると、はっきりと驚いている表情を視界に捉えることができた。

 白い衣に映える長い髪、宝石のような碧眼。その姿は清楚と高貴さを兼ね備えていた。胸の膨らみが圧倒的すぎて、現実感と幻想の境目を見失いそうだった。

 当然と言えば当然だ。突然、見ず知らずの男に声を掛けられれば驚くだろう。言葉だけではなく、姿勢も正して努めて礼儀正しく振舞う。


「なぜ……人間がこの書庫に!」


 彼女は少し眉間に皺を寄せ胸の前で手を握りながら、美しい碧眼で僕を真っすぐに見つめていた。

 その声には少し怒気を帯びているような感じさえある。


「驚かせてしまい申し訳ありません。ここは何処なのしょうか。気が付いたらこの場所にいたのです」


 女性の反応に少し戸惑いはしたが、僕は軽く会釈をしつつ、もう一度の謝罪と疑問を丁寧に投げかけた。

 問いかけに女性は、少し深く呼吸をするとしっかりとした口調で返答する。


「ここはアカシックレコードと呼ばれる書庫です」


 なにを言っているのだろう? 彼女の言葉に面食らいつつ、落ち着いてゆっくりと言葉を返すことにした。


「アカシックレコード。都市伝説とかで聞いたことはあります」


 そう口にしていたが、内心では「あぁ、これはやはり夢だ」と思った。

 冷静に考えれば普通に日本語でやり取りしているし、彼女から発せられる言葉も流暢な日本語だ。

 少し溜め息をつき、本当に馬鹿らしい夢だと呆れながらも、折角の異空間だと思い直し、珍しいこの空間を探索するために振り返り歩き出した。


「あっ、ちょっと!」


 彼女に背中を向けて遠ざかろうとすると、呼び止めようとする声が聞こえてくる。

 なにか口にしようとしているようだが、無視して一番近くの本棚に向けて歩いていくことにした。


(アカシックレコード、過去から未来まで世界の記録を保管している書庫の名前だったか?)


 前に動画でそんな物を見たなと頭を指で掻きながら、一番近くの書架まで歩いてきた。

 並べられた本に右手の人差し指を掛け、表紙を見ようと一冊取り出してみた。

 ざらついた表紙に手が触れた時、本は薄っすらとした淡い光に包まれていく。

 題名には日本語でも英語でもない象形文字のような物が書かれていた。


「見たこともない文字だ」


 書架に並べられた他の背表紙の列を左から右へと確認していくが、どの本にも似たような読めない文字ばかりが書かれていた。

 目の前の書架には、読める本がないことがと分かった。違う本を探すために螺旋状の階段に向けて歩き始める。

 螺旋階段を途中まで登った時、後ろからなにかが駆け上がってくる音が響いてくる。


「待ってください!」


 大きな声がしたので振り返ると、視界には金色の髪の毛だけが目に入った。


(近い……)


 階段の上の段にいるからか、彼女との距離が近すぎるのが原因か。美しく艶のある髪が視界を埋め、女性特有の少し甘い香りが鼻孔を蕩かす。

 頭から視線だけを下にずらし、見下ろすような形で目の前の女性を目にした。

 身を包む白いドレスに引けを取らない透き通った艶やかな白い肌、布の面積が少ないからだろうか、胸元の存在感だけが僕の視界を奪って離さなかった。

 見てはならないと、慌てて視線を頭に戻して冷静を装いながら返答した。


「なにか?」

「私を無視して勝手に、はぁっはぁっ……勝手に書庫を歩き回らないでください!」


 冷静を装う僕とは対照的に、彼女は前屈みで両手を膝に置いている。

 やはり、勘違いではなく彼女は僕に対して怒っていると感じる。

 なぜ夢の中で見知らぬ金髪女性に怒られているんだろうという思いがあった。


(不可抗力だと思うが、一瞬、視線が胸元に行ってしまったことがバレたのか?)


「ここの本は、あなたが勝手に触れていい物ではありません!」


 息を整えその美しい青い瞳を真っすぐに向けて来る。

 胸元を見てしまったことにとは違ったようで少し安堵してしまう。


「それは申し訳ありませんでした。触れぬよう見て回ります」


 冷たくそう返答するが、彼女は引き下がろうとはしなかった。


「いけません! こちらに来てください」


 突然、彼女に左腕を強く握られ、足早に螺旋階段を下り、最初にいたであろう場所まで戻されてしまった。

 握られた腕には確かな温もりと、少しばかりの痛みを感じる。これが夢ではないのかという思いが芽生え始めていた。


「私はハニスと申します。あなたは?」


 僕の腕から手を放すと、彼女は初めて自分の名前を口にした。考えてみれば自己紹介もしていなかった。


「僕は……」


 あれ……名前が思い出せない。夢だからか?

表情には出していないと思うが、焦りと不安で心がざわついた。


「申し訳ありません。自分の名前が思い出せないのです」


 軽く頭を下げて女性にお詫びした。


「名前はともかく、なぜここに私が選定していない人間がいるのです?」


 彼女は人差し指を俺の鼻先向け眉間に皺を寄せていた。

 名前も思い出せない焦った状態で、思考が上手く整理できないでいた。


「少しお待ちください。仰っている言葉に理解が追い付いていません。不思議な質問をされますね、あなたも人間でしょう?」


 そう正直に伝え、この場を切り抜けるため、質問をして逃げることにする。


「私は神の子です」


「ぷっ……いや、失礼。真顔で『神の子です』と、本当に言う人がいるとは……」


 僕の反応を見て、むぅっと少し拗ねて横を向いてしまう。

 本当に、何か月ぶりだろう? 思わず吹き出して笑ってしまった。

 その横顔はとても可愛らしいものだった。

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