思春期の誘惑―バスケ部の先輩に憧れて

凪野 ゆう

第1話 放課後の体育館

放課後の体育館は、音がゆっくり冷めていく鉄板のようだった。


さっきまで跳ねていたボールの弾みも、床に残る靴跡の白い粉も、少しずつ静けさに飲まれていく。


私は最後にコーンを回収して、倉庫へ戻した。


「美羽、ありがと。助かる」

振り向くと、篠原葵先輩が笑っていた。

二年生の新キャプテン。コートでは誰より速くて、声はいつも明るいのに、今は少し乱れた呼吸が残っていた。

その音までも、私は好きだと思ってしまう。

部室へ向かう廊下は、窓ガラスがオレンジ色に染めていた。

夕方の光が床に長い影を引く。

外では、誰かの自転車のブレーキが短く鳴った。


更衣室の前で、私は一度立ち止まる。

扉の向こうから、金具が擦れる微かな音がした。

ノックして、そっと扉を開ける。


「入っていいですか?」

「いいよー。今、ジャージ着替えてるだけ」

先輩はロッカーの前で、ジャージのファスナーと格闘していた。

固くなっているらしく、胸元で止まってしまっている。

「これさ、上がらなくて。美羽、ちょっといい?」

「えっ、私がですか?」

「うん。引っ張るとこ、持っててくれたらいけるかも」

私は近づいて、ファスナーの小さな持ち手をつまむ。

金属が指先に冷たかった。

息を止めると、心臓の音だけがやけに大きくなる。

「ごめん、動かないで」

「動きません」

そっと力をかけると、カチ、カチ、と歯車が噛み合うようにファスナーが少しずつ上がっていく。

胸元に差しかかったとき――ほんのわずか、先輩の柔らかさに指の甲が触れた気がした。

一瞬で、血の気が耳まで昇る。

慌てて視線を逸らしたけれど、先輩は気づいていないみたいで「ありがと」と微笑んだ。

その自然さが、余計に私の胸をざわつかせる。


手を離した先輩は、ロッカーからヘアゴムを取り出した。

髪をまとめる指の動きが、やけに美しく見える。

私は自分の視線がどこに置けばいいのか、わからなくなる。


「今日のステップ、よかったよ」

「本当ですか?」

「うん。止まりたいところでちゃんと止まれてた。あれ、簡単じゃないから」

褒められるのに慣れていない私は、うまく言葉が出ない。

頬が熱くなるのを、自分でもどうにもできなかった。

「ねえ、美羽」

「はい」

「明日、朝練前に、一緒にシュート打たない?」

胸の内側で、何かが軽く跳ねる。

私は反射的に頷いていた。

「はい、お願いします」

「よし。じゃ、七時ね。寝坊、禁止」

先輩が笑う。

その笑顔を、誰かと共有したくないと思ってしまった自分に、私は少し驚く。

着替えを終えて、体育館を出る。

空は薄い紫で、風は昼間よりやさしい。

校門までの道は細く、並んで歩くと肩が近い。


「文化祭、どうするの?」

「クラスは展示です。私はポスター係です」

「へえ、美羽の字、きれいだから向いてそう」

「見たこと、ありましたか?」

「体育館の掲示、いつも見てるよ」

そんなふうに言われると思っていなかったから、返事が遅れる。

気づけば、視線は地面の白線を追いかけていた。

「先輩は、文化祭で何かやるんですか?」

「バスケ部、フリースロー体験。子どもたち来るから」

「楽しそうですね」

「美羽も一緒にやろ」

「私でよろしいんですか?」

「美羽がいい」

軽く言っただけなのに、心臓が忙しくなる。

この感じを、なんて呼べばいいんだろう。

校門のところで、別れ道になる。

先輩は自販機で水を買って、一口だけ飲んで、残りを鞄に戻した。


「じゃ、明日七時」

「はい。七時です」

「遅れたら、走らせるからね」

「全力で行きます」

先輩は手をひらひら振って、角を曲がっていった。

私はその背中が見えなくなるまで立ち止まって、それから、深呼吸をひとつ。

夕方の匂いに、少しだけ甘いものが混ざっている。

胸の奥のどこかが、まだ熱を持っていた。


帰り道、スマホの画面に映る自分の顔は、練習の汗よりも別のもので赤くなっていた。

私は明日の目覚ましを、いつもより早い時刻に設定する。


――これが、初恋なのかもしれない。


次の朝練が、少し怖くて。

でも、今まででいちばん楽しみだ。

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