妹が死ぬ未来を変えるまで、何度でも同じ一日を繰り返す

マルコ

第1話 死の朝と最初のループ

目を開けた瞬間、世界が一度きりの呼吸をしたように見えた。


 薄いカーテンを透かして差し込む朝の光が、部屋の空気を白く撫でていく。天井の小さなシミ、窓の外の電線に止まるカラス、遠くの踏切の電子音。どれも昨日までと何一つ変わらないはずなのに、胸のどこかがきしりと鳴っていた。




 コチ、コチ、コチ。


 枕元の目覚まし時計の秒針が刻む音が、今日はやけに大きい。




「お兄ちゃん、起きてる? みそ汁、ちょっと味濃いかも」




 ドアの向こうから、からりとした声がした。


 妹の声だ。寝起きの掠れが少し混じる、いつもの朝の声。




「……今行く」




 返事をすると、ドアの向こうで足音が弾み、階段を下りていく気配がした。


 顔を洗いに洗面所へ行く途中、廊下の壁にかかった古い家族写真に目が止まる。父がこの家を出ていく前の写真だ。母はもういない。二人で暮らすようになって三年。写真の中の俺は、あのときより少し背が伸びているだけで、何も変わっていないのかもしれない。




 台所には湯気が立っていた。


 妹はポニーテールを高く結び、エプロンの紐を背中でぎゅっと結んでいる。味噌の香りと、焼き目のついた鮭の匂いが混ざって、空腹が目を覚ます。




「ほら、座って。ねえ、今日さ、帰りに文具屋寄っていい? 文化祭のポスター描くから、太めのペン欲しくて」




「いいけど、駅前の方? 最近あの通り、工事してるだろ。遠回りになる」




「大丈夫。放課後に友達と行くから」




 そう言いながら、妹はスマホをつい、と伏せた。


 画面に一瞬、通知のバナーが光ったように見えた。差出人の名前は読み取れない。




「誰から?」




「え、あー……クラスの子。今日の小テストの範囲、どこまでだっけって」




 言葉をつなぎながら、箸の先がほんの少し揺れる。


 俺は味噌汁を一口飲んだ。確かに、塩気がいつもより強い。




「……塩、入れすぎ」




「やっぱり? 水足そうとしたけど、時間なくて。ごめん」




 こういう時の妹は、謝る代わりに笑う。


 俺も笑い返す。笑い合えば、たいていの小さなことは笑い話になる。そうやって、この家の朝は形を保ってきた。




 玄関で靴を履きながら、妹がふと振り向く。




「ねえ、お兄ちゃん。最近、夜ふかししてる?」




「してない。レポートでちょっと」




「顔、少し疲れてるよ」




「そっちもな」




「私は若いから平気」




「一歳しか違わねえだろ」




 二人で笑って、家を出た。


 秋の空は薄く、風は乾いている。学校へ向かう途中、駅の向こう側の空き地に大きな仮囲いが立っているのが見えた。新しい商業施設を建てるらしい。重機の音が規則的に響き、そのたび胸の奥が微かにざわついた。




 授業の内容はほとんど頭に入らなかった。黒板に書かれる数式や歴史の年号が、水に落とした砂のように形を保てない。昼休み、窓際の席に座って弁当のふたを開け、ふと視線を落とすと、制服の袖に米粒が一つくっついていた。妹が詰めてくれた弁当は、いつもきっちりと詰められている。卵焼きは甘い。人参は柔らかい。ふとした拍子に、胸の内側が温かくなる。




 午後のチャイムが鳴る。


 放課後、昇降口で靴を履き替えていると、廊下の端で女子の笑い声が弾けた。妹の名前が混じる。教室の窓から外を見ると、駅前方面へ向かう学生が群れになって動き出していた。俺も自転車を押しながら門を出る。帰り道、空き地の仮囲いの前を通ると、工事の誘導員が黄色い旗を振っていた。フェンス越しに鉄骨が組みあがっていく。何気なく見上げたそのとき、耳の奥で、遠くの踏切の音が少しだけ速く聞こえた気がした。




 夕方、家に帰りつくと、リビングのテーブルにメモが置いてあった。


 丸い字で「友達と文具屋行ってくる。すぐ帰る」とある。時計の針は四時二十五分。駅前の文具屋なら、行って買って戻るだけ。十分、十五分。急ぎ足で行けば十分もかからない距離だ。




 ……行くか。


 靴ひもを結び直そうとして、手が止まった。


 意味のない不安が、胸の底からじわじわと立ち上がってきた。別に危ない場所じゃない。駅前は人通りが多いし、商店街は明るい。今日に限ってなんでこんなに胸騒ぎがするのか、自分でも分からない。




 それでも、体は勝手に動いていた。


 玄関を出て、駅へ向かう。秋の夕暮れは早い。西の空へ傾いた太陽が、街の輪郭をくっきりと切り出す。商店街の匂い、焼き鳥の煙、パン屋の甘い香り。人混みを縫うように歩いていると、向こうから妹の姿が見えた。ポスター用の太いペンが覗く小さな紙袋を手に、誰かと並んで歩いている。背の高い男子。制服の襟を少し崩して、笑いながら何かを話している。




 知らない顔だ。


 声をかけようとして、一瞬だけためらった。


 妹がこちらに気づく。目がわずかに見開かれ、その後すぐに笑顔の形に整う。




「お兄ちゃん? どうしたの」




「いや、駅まで……本屋寄ろうかなって。そっちは?」




「文具買って、今帰るところ。こっちはクラスメイトの——」




 彼は会釈だけして、名前を名乗らなかった。


 その代わり、ほんの一瞬、俺の目をまっすぐに見た。試すような、測るような視線。言葉にならない違和感が、皮膚の上をさっと撫でていく。妹は何事もない顔で笑い、紙袋を持ち直す。




「先に帰ってて。すぐ追いつくから」




「一緒に帰るよ」




「だいじょうぶ。ほんとにすぐ。ね?」




 「ね?」のひと言の中に、ささやかな懇願のようなものが混じっていた。


 俺はほんの少し躊躇い、結局、頷いてしまった。




 駅構内は、夕方の人波でざわめいていた。


 改札前の広場を横切り、本屋の平積みコーナーで新刊をぱらぱらとめくる。活字が目に入っては抜けていく。集中できない。胸の奥のざわめきは、さっきよりも大きくなっていた。




 ……やっぱり迎えに行くか。


 本を棚に戻し、改札へ向かって早足になる。そのとき、足がもつれて、スマホを落としそうになった。手のひらにじっとりと汗がにじんでいる。息が浅い。




 ホームへ上がる階段を駆け上がった瞬間、空気が変わった。


 冷たい風。線路から吹き上がるような、鉄の匂い。耳の奥で、ブレーキの悲鳴のような甲高い音がした。誰かが叫ぶ。人の波がざわめき、ざわめきは悲鳴へと変わり、悲鳴は一つの名前を呼ぶ声へと変わっていく。




 嘘だ、と思った。


 走る。誰かの肩を押しのけ、柵に手をかけ、身を乗り出す。見てはいけないと本能が叫ぶのに、目は逃げられない。


 線路の上に、制服のスカートが見えた。手のひらほどの紙袋が、レールの間に転がっている。ペン先が二本、ばらばらに転がっている。顔は——。




 声が出なかった。


 膝が勝手に折れた。地面が遠い。目の前の光景が、テレビの画面の裏側みたいに、薄い膜の向こう側にある。誰かが「どいてください!」と叫ぶ。オレンジ色のベスト。手袋。担架。救急車のサイレン。全部が遠い。




 気づけば、俺は病院の廊下にいた。


 白い壁。消毒液の匂い。スニーカーが床を引きずる音。椅子に座っている女の人が、両手で顔を覆って泣いている。自分の手のひらを見ると、黒ずんだ汚れが爪の間に詰まっていた。線路の油。いつの間に触れたのか分からない。




 医師の口が動く。


 言葉は音になる前に消えた。ただ、その表情だけで十分だった。




 妹の手は、冷たかった。


 病室の空気は静かで、時計の秒針の音ばかりがやけに大きい。指先から体温が消えていく感覚を初めて知った。握っても、叩いても、名前を呼んでも、温度は戻らない。俺の声は喉の奥で潰れ、涙はどこから湧いてくるのか分からないほど途切れなかった。




 夜が来た。


 帰宅してシャワーを浴びたが、油の匂いは嗅覚のどこかに居座り続けた。鏡の中の顔は、知らないやつの顔だ。目が赤い。頬がこけている。口の端が震えている。髪を拭く手が止まり、気づけば床に座り込んでいた。




 リビングのテーブルに、朝の食器が置きっぱなしになっている。


 味噌汁の鍋は冷えて、表面に薄い皮が張っていた。鍋に映る自分の顔を見た。


 あの子がいない世界で、俺は何を食べるのだろう。


 あの子がいない世界で、朝はちゃんと朝として来るのだろうか。




 夜更け、ベランダの窓を開ける。


 遠くでまた踏切が鳴った。電子音は規則的で、容赦がない。生まれてからずっと聞いてきた音のはずなのに、今は拷問みたいに聞こえる。


 空は濁った黒で、星は少ない。風は乾いていて、頬を冷やす。




「もし——」




 言葉が勝手にこぼれた。




「もし、やり直せるなら。俺は、何でもする」




 祈りではない。約束でもない。


 呪いに近い何か。自分自身への命令。


 目を閉じた。瞼の裏が熱い。脳の奥で、鐘の音が鳴ったような気がした。ほんの一瞬、世界が反転したような、体の中心を空気が抜けていくような感覚があった。




 眠ったかどうか分からない。


 意識が黒い水に沈んでいく途中で、誰かが俺の名前を呼んだ気がした。遠くから。井戸の底から響くみたいに、細く、けれど確かに。




 ——お兄ちゃん。




 はっとして目を開けた。




 天井がある。


 白い。薄いカーテン。朝の光。電線のカラス。踏切の音。


 枕元の時計が、コチ、コチ、コチ、と刻んでいる。




 喉の奥が、からからに乾いていた。


 息を吸う。肺が冷たく膨らむ。両手のひらに感覚が戻ってくる。


 ベッドから起き上がる。足裏が床の冷たさを拾う。




「お兄ちゃん、起きてる? みそ汁、ちょっと味濃いかも」




 ドアの向こうから、からりとした声がした。


 昨日の朝と同じ台詞。声の調子も、言い回しも、間の取り方さえも、ぴたりと重なっている。




 胸が、痛いほど縮んだ。




 ゆっくりと、ドアノブに手を伸ばす。


 開ける。そこに、妹が立っている。


 寝癖が跳ね、ポニーテールに結ぶ前の、ふわふわの髪。


 ふくれた頬。笑っている。生きている。




「どうしたの? 顔、こわいよ」




 言葉が出ない。


 代わりに、喉の奥から壊れた音みたいな呼吸が漏れた。


 目元が熱くなり、視界が滲む。


 気づけば、肩を掴んでいた。強く掴みすぎて、妹が「痛っ」と眉を寄せる。




「……今日は、外に出るな」




「え?」




「頼む。今日は、絶対に」




 声が震える。


 妹は目を丸くし、それから、困ったように笑った。




「もしかして、またレポートの締め切り?」




「違う。そうじゃない。今日は——」




 言いかけて、飲み込んだ。


 何をどう説明すれば信じてもらえる? 昨日、いや、あの夜のことを? 俺の祈りのことを? 今、ここにある朝が、二度目であることを?




「とりあえず、朝ごはん冷めるから」




 妹は肩をすり抜け、階段を降りていく。


 俺はその背中を見送りながら、肺の底まで深く息を吸った。


 心臓が、早鐘を打つ。


 頭の中で、言葉が一列に並んでいく。




 ——やり直せる。


 ——今度こそ、守る。




 台所に入ると、湯気が立っていた。


 味噌汁を一口すする。塩気が強い。


 俺は笑って、椀を置いた。




「……水、足す?」




「うん。ちょっとだけ」




 この小さな会話が、こんなにも愛おしいなんて、昨日の俺は知らなかった。


 いや、昨日の俺はもういないのだ。


 二度目の俺が、ここにいる。




 朝食を食べ終えると、妹がスマホを手にした。


 画面に小さく通知が灯る。指先がぴくりと反応して、すぐ伏せられる。




「誰から?」




「だから、クラスの子」




「名前は?」




 妹の眉が、わずかに動いた。




「……しつこい」




「ごめん」




 長く息を吐く。問い詰めるのは違う。今はまず、今日を乗り切ることだ。


 俺は学校に休む連絡を入れた。熱があると嘘をつく。担任は面倒くさがりで、詳しく聞いてこないのが救いだった。




「え、学校行かないの?」




「うん。ちょっと、寝不足で」




「ふうん」




 妹は疑わしげに俺を見て、そして肩をすくめた。


 午前の時間はゆっくりと過ぎた。掃除機をかける妹の後ろ姿を台所から眺める。カーペットの上に残る掃除機のラインが、少しずつ整っていく。洗濯物を干すためにベランダへ出ると、空はやわらかな青だった。風鈴が、風に揺れた。




 昼、インスタントラーメンを二人で作って食べた。


 妹はネギを多めに入れ、卵を落とすタイミングを計りながら「三、二、一」と口の中で数えた。俺はそれを眺めているだけで、涙が出そうになるのを必死で誤魔化す。




 午後三時、妹が立ち上がる。




「買い物、行ってくるね。ほんとにすぐ」




「俺も行く」




「え?」




「一緒に行こう。歩きたい気分」




 妹はしばらく俺の顔を見て、それから、ほんの少しだけ笑った。




「……じゃ、早歩きね」




 駅前の商店街へ向かう道は、人通りが多かった。


 昨日と同じ仮囲い。黄色い旗。重機の音。


 店先のポスターが、風でぱさぱさとめくれている。


 文具屋で太いペンを選ぶ妹の横で、俺は手持ち無沙汰に消しゴムの棚を眺めた。あの男子は現れない。背中の汗は乾かない。




「帰ろっか」




「うん。ちょっと待って、友達に『買えた』って送る」




 妹はスマホを打ち、送信ボタンを押す。


 その瞬間、手首がわずかに震えたのを俺は見逃さなかった。


 画面を閉じる動作が、微妙にいつもより速い。




「誰?」




「だから、クラスの子」




 同じやり取り。違うのは、俺の中で、疑いがただの疑いではなく、具体的な輪郭を持ち始めていることだ。


 昨日、ホームで見た光景。線路に散らばったペン先。紙袋。——紙袋。


 俺は妹の手元の紙袋に目を落とした。透けるビニールの向こうで、昨日と同じメーカーの太いペンが光っている。




「なあ、今日は遠回りしよう。踏切、混むだろ」




「そうだね。商店街の裏の細道、抜ける?」




 裏道は少し暗く、人の気配が少ない。


 足音がコツコツと響く。壁に貼られた古い選挙ポスターが、角でめくれている。


 角を曲がった先で、誰かが立っていた。制服の襟を崩した、昨日の男子。


 彼は俺を見て、わざとらしく肩をすくめた。




「また兄貴、付き添い?」




 妹が小さく手を振る。


 俺は一歩、妹の前に出た。彼は笑うでも怒るでもない顔で、俺の目を見た。




「駅、こっちが早いよ」




「今日は帰る」




 俺が言うと、妹が袖を引いた。




「ちょっとだけ、話すことがあるの。——すぐ終わるから」




 「ね?」のひと言は、やっぱり小さな懇願だった。


 俺は首を振った。彼女の手が、するりと俺の袖から落ちた。




「ごめん」




 その小さな声は、謝罪にも別れにも聞こえた。


 次の瞬間、彼女は走り出していた。男子が「おい」と言って追う。俺も追う。


 細道を抜け、駅の広場に飛び出す。夕方の人波。赤く染まる空。電子音。


 ……間に合う、間に合う、間に合——。




 ホームへ駆け上がる階段の中段で、足が止まった。


 耳の奥で、あの甲高いブレーキ音が蘇る。体の芯が冷える。


 人混みの向こうで、誰かが叫ぶ声。


 俺は全力で駆け上がり——。




 ——見たくなかったものを見た。




 世界が、にわか雨に打たれたインクの文字みたいに滲んだ。


 たった一日を守るために、俺は何もできなかった。




 膝から崩れ落ちるとき、頭の中で鐘が鳴った。


 昨日の夜のそれよりも、はっきりと、容赦なく。


 視界が明滅する。音が遠ざかる。手のひらの感覚が消える。




 暗闇の底へ落ちていく間際に、誰かが俺の名前を呼んだ。


 今度は、はっきりと。




 ——お兄ちゃん。




 目を開けた。


 天井がある。白い。薄いカーテン。朝の光。電線のカラス。踏切の音。


 秒針がコチ、コチ、コチ、と同じリズムを刻む。




「お兄ちゃん、起きてる? みそ汁、ちょっと味濃いかも」




 ドアの向こうから、からりとした声。


 俺は、ゆっくりと息を吸って、吐いた。


 喉は乾いている。足は震えている。だけど、頭の奥のどこかで、何かが静かに定位置に収まった。




 これは、二度目じゃない。


 もう、三度目だ。




 俺はドアノブに手を置いた。


 そして、握り直した。


 今度こそ、守る。守ってみせる。何度だってやり直す。


 ——この朝を、終わりの違う一日に変える。




 ドアを開ける。


 妹が笑う。


 生きている。




 俺は笑い返し、はっきりと言った。




「今日は——俺のわがままを聞いてくれ」




 この世界が何度俺を試すとしても、答えは変わらない。


 救う。必ず。


 そのために、俺はすべてを使う。




 コチ、コチ、コチ。


 秒針の音が、今は鼓動のように力強く響いていた。

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