第3話 初授業はサボタージュ


 パァァァァァンッ!!


 乾いた破裂音が、静まり返った食堂に響き渡る。

 私の右手には、まだじんわりと熱が残っていた。羞恥と怒りで全身が震え、呼吸がうまくできない。目の前では、頬に真っ赤な手の跡をつけたアイン先生が、きょとんとした顔でこちらを見ている。

 –––––––––やってしまった。貴族令嬢として、いえ、人としてあるまじき行為。指導教員を、公衆の面前で、平手打ちするなど。


「……ぷっ」


 沈黙を破ったのは、意外にもギデオンだった。


「く、くく……あはははは! 最高だ、ローゼンタール! まさか教師に手を上げるとはな! これで退学か? いや、面白い、実に面白い!」


 腹を抱えて笑うギデオン。その声で、凍り付いていた周囲の空気も動き出す。遠巻きに見ていた生徒たちの、好奇と侮蔑が入り混じった視線が、ナイフのように突き刺さる。


「セラフィ、だめ! 落ち着いて!」

 シャルロットが真っ青な顔で私の腕を掴む。だが、その声も遠い。私の視線は、目の前の男––––––アイン・クラウゼルに縫い付けられたままだった。

 怒られるだろうか。あるいは、軽蔑されるだろうか。どちらにせよ、私の大学生活は、今日この瞬間に終わったのだ。


 しかし、アイン先生の反応は、私のあらゆる予想を裏切った。

 彼は、怒りも、悲しみも、驚きすらも見せず、ただ面倒くさそうに自分の頬をポリポリと掻いた。そして、大笑いしているギデオンの方へ、呆れたように視線を向ける。


「–––––––––ほら、見たか」

「……は?」


「これだけムキになるってことは、図星なんだよ。……おめでとう、脈アリだぞ」


「なっ……なな、何を馬鹿なことを!」

 先程までの余裕はどこへやら、ギデオンの顔がみるみるうちに赤く染まっていく。アイン先生は、そんな彼に追い打ちをかけるように続けた。


「まあ、あんたみたいなタイプは、まず外堀から埋めるのが定石なんだがな。いきなり本人に突っかかっていくのは、三流のやることだ。–––––––––もっとも、あんたの家も、三流みたいなものか」


「き、貴様ッ! 我がアドラー公爵家を侮辱するか!」

「事実だろ? ローゼンタール家に何連敗中だっけか? ま、そんなんだから、好きな子一人、まともに口説けないんだ」


 淡々と、しかし的確に。アイン先生の言葉は、ギデオンのプライドを的確に抉っていく。先程まであれほど雄弁だったギデオンは、ただ「ぐ、ぬ……」と口をパクパクさせるだけ。彼の取り巻きたちも、どうしていいか分からずオロオロしている。


 完全に場の空気を支配したアイン先生は、ふぁあ、と大きな欠伸を一つすると、食べかけのランチプレートを手に立ち上がった。


「さて、と。––––––––––––午後の授業は『基礎魔術』の工房で。遅れるなよ」


 それだけを言い残し、彼はまるで何事もなかったかのように、騒ぎの中心から悠々と立ち去っていった。

 残されたのは、顔を真っ赤にして立ち尽くすギデオンと、呆然とする私たちだけ。ギデオンは、何かを叫ぼうとして、しかし何も言えず、結局「覚えていろ!」という陳腐な捨て台詞を残して、そそくさとその場を後にした。


「……な、何だったの、今の」

 シャルロットが呆然と呟く。

 私にも、分からなかった。ただ、頬を叩かれたはずのあの男が、叩いた私や、因縁の相手であるギデオンよりも、遥かに格上の存在であるかのような、奇妙な錯覚だけが残っていた。





 ・・・




 午後の授業が始まる少し前、私とシャルロットは、学園の最も古びた西棟の、そのまた一番奥にある扉の前に立っていた。

 埃をかぶったプレートには、かろうじて『基礎魔術マテリア』の文字が読み取れる。


 意を決して扉を開けると、そこは工房というより、ただの物置だった。

 用途不明のガラクタが山積みになり、床は埃で白くなっている。鼻を突くカビ臭い匂いに、思わず顔をしかめた。

 すでに数人の生徒が集まっていたが、皆、私と同じように絶望的な表情で立ち尽くしている。


(–––––––––この人たちが、これからを共にするクラスメート……)


 私は、冷静になるために周囲を見渡した。

 壁に寄りかかり、腕を組んで目を閉じている、柄の悪い大男。その隣で、巨大な魔導書を胸に抱き、顔を隠すように俯いている小柄な少女。


 少し離れた場所では、瓜二つの双子が、警戒するように周囲を観察している。また、教室の後方では、そんな彼らを面白そうに眺めている、皮肉屋めいた笑みを浮かべた少年が一人。

 腕を組み、不機嫌さを隠そうともせず、汚れた壁を睨みつけている令嬢のような出立ちの女子生徒と、その脇には、建物の古い様式に夢中なのか、壁の紋様を指でなぞっている男子生徒もいる。

 そして、今にも泣き出しそうな顔で入口の付近に立ち尽くす、気弱そうな少女がもう一人。

 

 ……見事に、一癖も二癖もありそうな者たちばかり。そして、誰もが等しく、絶望と諦念の空気を漂わせていた。


 そして、部屋の奥。唯一片付いている机に突っ伏して、我らが指導教員、アイン・クラウゼルは、すやすやと寝息を立てていた。

 やがて、予鈴が鳴り響くと、彼はむくりと身を起こし、眠たげな目で私たちを一瞥した。


「…………全員、揃ってるな。よし」


 彼は立ち上がると、パン、と一度だけ手を叩いた。


「んじゃ、授業を始める––––––と言いたいところだが、今日の俺はどうーーーーーーしても外せない用事があってだな」


 彼は心底申し訳なさそうな顔で–––––––––その実、全くそんな感情がこもっていない棒読みで–––––––––続ける。


「端的に言って、今日は自習だ。–––––––––それでは皆様、また明日。また来週、いや、来年?まぁ、その時まで〜」


「「「…………は?」」」


 生徒の誰かから、間の抜けた声が漏れる。私も耳を疑った。今日は自習? それが、国立魔術大学の、最初の授業?

 ひらひらと手を振り、さっさと工房から出ていこうとするアイン先生。その背中に、ついに堪忍袋の緒が切れた声が突き刺さった。


「お待ち、なさいッ!!」


 声の主は、私ではなく、今まで不機嫌そうに壁を睨みつけていた茶髪の令嬢––––––あの顔、社交界でかつて見たことがある。オーヴィル公爵家の令嬢––––––カレン・オーヴィルだった。


「自習ですって? ふざけないで! 私たちは、このような掃き溜めに追いやられた挙句、あまつさえ初日から授業を放棄されるために、この学校に来たのではなくってよ!」

 カレンの怒声に、他の生徒たちも同調するようにざわめき始める。


「そ、そうよ! いくらなんでも、無責任すぎるわ!」

 私もカレンに続いた。ここで引き下がっては、本当に見捨てられてしまう。



 しかし、アイン先生は振り返りもせず、面倒くさそうに耳をほじるだけだ。

「無責任ねぇ。俺は、お前たちの自主性を尊重しているんだがな。いわゆる『アクティブ・ラーニング』というやつだ。最近流行ってるらしいぞ––––––感謝してほしい位だね」

「詭弁ですわ!」

「詭弁も方便。じゃあな」


 今度こそ出ていこうとする彼に向かって、再度引き止める声をかけるカレンや私。

しかし、アイン先生は意にも介さない様子で、そのまま去っていってしまった。


––––––ぱたん。


間抜けな音を立てて、おんぼろな「基礎」の教室のドアが閉まる。


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