第3話 鬼になる者

 カフェのバイト終わり、俺はまたげんぶんけんの部室に顔を出した。机の上には黒塗りの調書や雑誌記事のコピーが散らばっていて、その横には掲示板ログのプリントが無造作に積まれている。



---

【DV彼氏・夫 総合スレ】


18: 名無しさん@DV被害 20XX/10/03(火) 21:58:12

元彼が「殴るか?殴るか?」って拳をシャドーボクシングみたいに振ってきた。

威嚇されるだけで身体が固まって、結局殴られたこともあった。


21: 名無しさん@DV被害 20XX/10/03(火) 22:10:44

チー牛っぽい元彼に顔を何度も殴られた。

「無視するな!」「お前のせいで俺が壊れる!」って怒鳴りながら。

私はただ静かにしていただけなのに。


24: 名無しさん@DV被害 20XX/10/03(火) 22:22:19

説教モードで殴られたこともある。

「俺を追い詰めるな」「お前が悪いんだ」って言われて、

理由が分からないまま一方的にやられた。


---



 誰がこんなもの出したのか。一枚読んで、俺は思わず口にした。

「……否定もしてないのに、“無視するな”とか“追い詰められた”とか勝手に思い込むんだな。被害者からしたら意味が分からないだろ」


 綾乃が資料を閉じて、冷静に答えた。

「その通りよ。研究でも指摘されているけれど、DV加害者は“脆い自己”を抱えていて、相手の仕草や沈黙を“攻撃された”と過剰に解釈してしまう。

ドットンはそれを“脆弱な自己の過敏反応”と呼び、スタークは『DVは暴力ではなく支配の制度』と説明している。

つまり“無視するな”“お前のせいだ”という言葉は、怒りの爆発じゃなく、支配を正当化する仕組みなの」


 ほのかが不安そうにポッキーをいじりながら口を開いた。

「……じゃあ、被害者は理由が分からないまま殴られるってことですよね」


 綾乃はうなずいた。

「そう。相手が何をしても“加害の口実”にされてしまうから」


 俺は息をついた。

「……理屈が通じないってことか」


 その時、片倉が紅茶を机に並べ、柔らかく言葉を添えた。

「研究でも示されていますが、加害者は“自分こそが傷つけられている”と語りながら暴力に出る。

考えてみれば、鬼や怨霊に“されてしまった”のは本来被害者の側でした。

『お前が俺を傷つけた』と存在を反転され、怪異として語られることで、声を奪われてきたのです。


DV加害者の“被害者モード”も同じ構造です。本当の被害者は声を奪われ、加害者の言葉によって“加害者扱い”されてしまう。

暴力は単なる力ではなく、“語りを奪う仕組み”でもあるのです」


 部室の空気が、ひやりと冷たく感じられた。



---


その夜。


 帰り道のエレベーターで、俺は背中に妙な圧を感じた。

 靴音はしないのに、すぐ後ろに誰かが立っているような――。


 振り返る。

 ……誰もいない。


 ただの錯覚だろう。

 けれど、背筋をなぞる寒気は収まらなかった。


「……まさかな」


 扉が閉まる音が、やけに重たく響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る