第3話 8月31日 夕方②

「む? 人の子か……何年ぶりかのう」

 夕日に染まる世界で、俺と少女だけになってしまったかのような錯覚をしてしまう。こんなに寂れた場所だというのに、俺にとってこの光景は、あまりにも鮮やかだった。

「本当に、最後に会ったのは何年前じゃったか……まさかここまで捨て置かれるとはおもわなんだ」

 獣耳の少女は、俺の麻痺してしまった思考を無視して、言葉を続ける。

「しかし……はて、お主は儂の姿は見えるのかの? 別にここを手入れしに来たようには思えぬが」

 そこまで言われて、俺はようやく自分を取り戻した。

「え、っと、君は……一体」

「おお! 儂の姿が見えるのじゃな!? 何百年ぶりかのう! 生身で儂を見ることができる人間は!」

 少女は興奮して俺にまくし立てるが、はっと我に返ると小さく咳払いをした。

「……ごほん、儂はこの社に祀られている稲荷よ。まあ随分と力を失ってしまっておるがの」

 普通に考えて、そんなはずは無いと切り捨ててしまいそうな言葉だが、彼女の頭についた獣耳と尻尾、そして「見えるのか?」という発言がそうさせてくれない。それに、こんな場所でこんな服装で、一人で居る少女なんて、あまりにも非現実的すぎる。

「せっかく会えたのに残念じゃのう。儂にはもう、願いを叶える力は残っておらん。せいぜいこの神域を守る程度しか出来ない存在よ」

 そう話しながらも、自分を稲荷神だと称する少女は楽しげに俺の姿を見回す。

 たしか稲荷神というのは、穀物の神様だったはずだ。ただ、五穀豊穣や商売繁盛だけで無く、諸願成就という色々な細かい願い事を叶える神様でもあった。

 彼女の話と俺の中の知識をすりあわせると、何か矛盾があるようには思えない。だが、神霊がこんなにはっきりと、実在するかのように居ることなどあり得るのだろうか。

「ふむふむ、今はこのような姿が学生の装いか。詰め襟をした黒の蘭服もいいが、こちらの装いもなかなか涼しげで良いのう」

「ちょ、ちょっとさ、一人で納得しないでくれよ!」

 一通り俺の制服姿を見て満足した少女は頷くが、俺としては何一つとして納得がいく物が無い。そもそも歌っていた理由も、ここで何をしているかも、具体的には何も分からないのだ。せめて説明くらいはして貰わないと……

「なんじゃ小童、どうせお主も何かしらの願い事があって来ただけじゃろうが」

「違うって、歌が聞こえて、誰かいるのかと思ってここまで来たんだよ。そしたらお前がいただけなんだって」

「ほぅ」

 俺がそう訴えると、少女は驚いた顔をして息を漏らした。その仕草は見た目に反して非常に老成していて、実際の年齢が遙かに高いことを思わせた。

「なるほどなるほど……波長が合致したか」

「波長?」

「夕暮れ時……まあ大体今くらいの時間から、空が完全に暗くなるまでの間は逢魔が時と言ってな、それくらいは分かるじゃろ?」

 逢魔が時、昼間は人間の世界で、夜は妖魔や人外の世界だ。草木が眠り、完全な静寂の世界である丑三つ時と同じく、この時間帯は人間とそれ以外が出会ってしまうことがよくある。まあ、俺が体験したのはコレが初めてだが、怪談では時々聞くモチーフだ。

「それに加えて、お主の霊感と儂の波長が一致したことで、儂の歌が聞こえてきたということじゃな。姿が見えるどころか、遠くから歌まで聞こえるとは、いよいよ珍しい人間と出会えたというわけじゃな。そうなるとおぬし、霊感が強いじゃろう? 人間霊を見るくらいの経験はそれなりにあったりするか?」

「いや、いやいや、俺には霊感なんて全然無いし、こんな経験も初めてだよ」

 当然ながら、幽霊を見た経験も、こういう存在をお目にかかったことも無い。だから今めちゃくちゃ混乱しているわけで……

「ふむ、そうか、妙じゃのう。ただの人間が儂らと波長が合うことは無いじゃろうから、何かつながりはあるはずなのじゃが……」

 少女は考え込むように小首をかしげる。その姿は稲荷神という威厳も何もなかった。

「人間霊や動物霊なら生きている人間と波長が合いやすいのは分かるが……いや、あるいは……なるほどのう、鈍感すぎるというのも、ある意味では霊感なのか」

「えっと……つまり?」

「うむ、お主はあまりにも霊感がなさ過ぎて一周回って本来見えない儂が見えている。ということじゃな!」

 ケラケラと笑う少女に脱力しつつ、とりあえず、もうそういう存在が見えていると納得するしかないようで、半ば諦めつつも俺は頷いた。

「うむ、しかし……そうか、久しぶりの対話できる人間だというのに、ここまで来た理由がただの好奇心とはのう」

 はあ勿体ない。と少女はため息をつく。俺としても、こんな奇妙な体験は滅多に出来ないと分かっては居たが、じゃあ何をすれば良いかと言われると、困ってしまう。願い事も無ければ、小粋なトークスキルも無いのだ。

「じゃあ、名前を教えてくれよ。あと社の手入れ方法とか」

 いろいろ考えた末に絞り出した質問に、少女は目の色を変えて飛びついてきた。

「社の手入れをしてくれるのか!?」

「いや、まあ気が向いたときにな……」

 そもそも、ここまで来たのはあの歌声に誘われて来たのがきっかけだ。少女の様子からは感じられないが、あまりにもあの歌が寂しげで、ここまで来てしまった。それをなんとかしてやりたい、というのが願いと言えば願いなのだろう。

 周囲の木々は彼女の社を完全に飲み込もうとしていたし、ここに至るまでの道も、いつかなくなってしまうのではと思ってしまうほど寂れていた。

「いいんじゃよ、そこまで難しいことでは無い。早速教えてやろうかのう!」

「あんまり期待するなよ、俺だって高校生だから、まあまあ忙しいんだぞ」

「構わぬ構わぬ、いやあ今日は良い日じゃ、さてさて何から教えようかのう」

 少女があまりにうれしそうなので、俺はため息をつきつつ、週一くらいは掃除をしてやろうかな、等と考えた。まあ、まずはあの石段をきれいにするところからだろうが……

「なあ、それで、お前の名前はなんて言うんだ? 俺は宗真って言うんだけど」

「儂、儂か……お主の好きに呼んでよいぞ、なにせ、本名は非常に長い上に沢山あるからのう」

 少女は笑いながら答えと、社の裏手まで駆けていった。そこに掃除用具入れがあるようで、俺に手招きをしている。

 たしかに日本の神には様々な名前があり、それらは実際別々の神だったり、場合によっては同じ神だったりもする。

 例えば火中出産の逸話で有名な「木花之佐久夜毘売」(コノハナサクヤビメ)には「神阿多都比売」(カムアタツヒメ)と言う本名があり、また出典によっては漢字と読み仮名両方で表記揺れがあり、コレという決まった名前を決めづらいのは確かだ。

 実際彼女自身が話す「稲荷神」(イナリカミ)も、倉稲魂(ウカノミタマ)という五穀を司る神と同一視されることもあるし、仏教の荼枳尼天(ダキニテン)と聚合されることもある。そうなると、彼女に名を名乗れというのは酷かもしれない。

「じゃあ、ナリ……とか?」

 考えたが「イナリ」のまんまだとあまり名前という感じはしないので、一文字消して「ナリ」にするという非常に安直な名付けになってしまった。

「ふむ、まあ良いじゃろ。それでソーマよ、掃除の方法だが――」


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