第四話 喉を濡らす蜜
川沿いの町は、夜になると骨の音が鳴るほど静まった。
噂の女が居た。羽織の女、と呼ばれる。深い藍の羽織をいつも肩にかけ、灯の縁で足を止める。
路地の隅、橋のたもと、茶屋の裏。
腰を落としている誰かの隣に、彼女は黙って座る。寒いでしょう、と囁き、羽織をそっと肩にかける。
背の丸い老婆には背を包むように、泣き崩れる若者には両腕が出るように、器用に布を回す。
「この人に羽織をかけてもらったら、少しだけ眠れた」
「話を聞いてくれて、泣き止むまでいてくれた」
「彼女に会うと救われる」
町の人々はそう言い、茶屋の湯気越しに女の背中を見送った。女は笑わない。ただ頷き、布地が擦れる音だけを残して去る。
* * *
茶屋の裏で、酒に呑まれた青年の肩に女は羽織をかけた。
冷たい汗の匂い。震える指。女は自分の指先でその震えを包み、何も言わずにいた。
「……どうして、こんな人間にまでやさしくするんだ」
青年が泣き笑いの声で問うと、女は首を横に振った。返す言葉を持たない者だけが持つ、薄い微笑みを一つだけ浮かべた。
翌朝、青年は川の斜面で見つかった。顔を泥に半分沈め、両手は胸の上で組まれていた。
遺体の傍には、深藍の羽織が脱ぎ捨てられていた。
役人の若い者が羽織を手に女のもとを訪ねた。
「これは……あなたのものですね」
「お手数をおかけしました」
女は深く頭を下げ、桶の水に羽織を沈めた。赤黒い筋は指でこすっても薄くなるばかりで、消えはしない。
布を揉む音、冷えた水の匂い、庭の物干し竿に均等に吊られた暗い布。
乾けばまた袖を通し、夜の町へ出て行く。
「また戻ってきたのね」
洗い上げた布に顔を寄せ、女は小さく呟いた。聞く人間のない呟きだった。
* * *
羽織は何度も戻ってきた。
借金の取り立てに怯える男の背にかければ、数日後に倉庫の梁からぶら下がって見つかった。
病床の老婆の足元にかければ、翌朝には体温が抜けていた。
どの遺体のそばにも、羽織は残された。誰かの手がそれを拾い、女の戸口まで運んでくる。
「また……でした」
届けに来る役人は、毎度同じように言葉を選んだ。
「ありがとうございます」
女の返事は必ず短い。
桶に水を張り、指の腹で汚れを押し広げる。
血と涙の跡は完全には落ちない。泥の粒は縫い目に居座る。
それでも女は布を絞り、静かに広げて干す。匂いは残る。残ったままでいいのだと、彼女の仕草が語る。
茶屋の女将が心配して声をかけることもあった。
「顔色が優れないよ。食べてる?」
「ええ」
「夜は冷えるから、あなたこそ羽織をお持ちなさい」
女は「ええ」としか言わない。
町の人々は噂を重ねた。
「人一倍、他人の不幸を背負ってるんだ」
「可哀想に、あの人の心の方が凍えてしまうよ」
女はそれを否定しなかった。肯定もしなかった。ただ、次の夜も布を肩にかけて出て行った。
* * *
羽織の縫い目に、短い繊維がからむのに女は気付いていた。
人の口の内側から剥がれた皮膜のような、白い糸くず。
爪の間に溜まった黒い筋。
洗い場の桶に溶けた薄い塩の味。
羽織を干していると、道の向こうから声がした。
「あなたが羽織をかけたという少年、今度の週末に法要をするそうです」
「そう……ですか」
返す声は乾いていた。足下の地面に視線を落とす。土の上に水滴が円を描く。その真ん中に短い藍色の糸が一本、張り付いていた。
* * *
ある晩、役人の若者が羽織を抱えて立っていた。濡れた布の重さに腕が震えている。
「また、遺体のそばに……」
若者は続きが言えず、視線をきょろきょろさせた。
女は戸を開け、布を受け取った。
「いつもありがとうございます」
「いえ……その……」
若者は言葉を探した。
「不思議なんです。あなたが羽織をかけた人は、決まって……」
女は頷いた。
「弱った人には、寄り添うものを差し出すべきでしょう」
「寄り添って……」
「寒い夜に、温かい布をかける。それだけで胸の奥が静まるのです」
若者は黙った。襟をただす気配がする。女は続けた。
「私は慰めているのではありません。ただ、弱る瞬間に立ち会っていたいのです」
「救うわけではなく?」
「救える人は、別の人が救えばいい」
女は膝の上の布に視線を落とした。赤黒い染みは、少し乾くと地図のように形を結ぶ。
「泣き声が、肩を落とす背中が、私に来る。だから羽織をかける。『可哀想に』と声をかける。そうすると、その人は少し呼吸を深くするでしょう。目を閉じる。重くなる。……その重みは、この布に残るのです」
若者の喉がごくりと動いた。
「落ちない汚れはどうするんです」
「残しておきます。落ちなくていいから」
女は指先で染みを撫でた。爪の間に赤が入り込み、細い筋をつくる。
「これは証です。弱さに触れた証。私だけの蜜です」
若者は視線を泳がせた。
「……怖くないんですか」
「何が」
「その、また戻ってくることが」
女は微笑んだ。
「戻ってくるのは、皆さんのご厚意です。拾って、届けてくださる」
「違う意味で言いました」
「違う意味も、きっと同じことです」
若者は言葉を失い、短く頭を下げて去った。
戸が閉まる。女は羽織を桶に沈めず、しばらく膝に抱えたまま、そこに顔を押し当てていた。
* * *
この町は、噂に形を与えるのが早い。
やがて自治会は「夜の相談所」を設けた。名目は見守り、実際は「羽織の女」に会いたい者のための場所だ。
「ここに座っていてください。困っている人が来ますから」
町内会長が頼み、茶屋の女将が湯を運んだ。
壁には注意書き。「ここでは責めない」「否定しない」「ゆっくり話す」。
夜、机の前に列ができた。
痩せた主婦、退職した男、うなじに青い痣のある少女。
皆、順番を待って椅子に腰かけ、目の前の女に視線を落とす。
女はひとりひとりに羽織をかけた。肩が落ち、喉の奥の音が柔らいでいく。
時計の針が円を描くたび、羽織の色は濃く見えた。
終わる頃には、布は重く湿っていた。
町の人は言った。
「彼女がいてくれると助かる」
「役所も少し支援を」
「うちの母にも、今度お願いできませんか」
彼女の家の戸口には、礼の品が積まれた。
菓子折り、茶葉、タオル、見舞金の封筒。
それらは誰のものか分からない礼だった。宛名は「羽織の女」。差出人は「皆より」。
ある日、自治会長が書類を携えて現れた。
「町内でまとめた寄付を基金にします。あなたの活動に。あと、相談の時間割を作ります。曜日ごとの担当地区も決めました」
「時間割……」
「これは町のためです。あなたは必要とされています」
「……私は」
言葉が喉でつかえた。
「やめるわけには、いきませんよね」
自治会長は柔らかい笑みで言った。
女は頷いた。頷く以外の仕草を忘れてしまったように。
* * *
羽織は毎晩返ってきた。
返すのは役人、近所の者、見知らぬ男。
「ありがとうございました。母が、よく眠れたと」
「昨日の少年、朝になったら静かになっていたそうです」
「あなたはやっぱり町の宝だ」
羽織を洗っても、臭いは薄くなるばかりで消えない。布の繊維が水の中でほどけ、桶の底に髪の毛のような束をつくる。
女は手を止めない。手の甲に湿疹が広がっても、指先の皮がひび割れても、絞って干す。
干し場に並ぶ藍色の影は、夜になると風にこすれ合って低く鳴った。
女は何度か羽織を捨てようとした。
ごみ捨て場の金網に縛り付け、朝の収集に紛れさせた。
その日の夕方には、玄関先に畳まれて戻っていた。
「落とし物です」
メモが添えてある。筆跡は丁寧で、名前は書かれていない。
一度、女は川に流した。
藍色が水面に小さな舟のように浮かび、やがて橋脚の陰に吸い寄せられ、見えなくなった。
翌日、役人が濡れた羽織を抱えて立っていた。
「橋の下に引っかかっていました。危ないですから……」
女は受け取り、笑顔を作った。
「助かりました」
言いながら、喉の奥のどこかが焼けるように痛んだ。
* * *
ある晩、病院の廊下で呼ばれた。
「末期の子で……最後に、落ち着かせてやってほしくて」
母の両手は冷えていた。父は何度も頭を下げ続けた。
「助かるわけではないのです。少しだけ、楽に」
女は頷き、羽織を肩にかけ直した。
小さな胸。薄い皮膚。点滴の音。
女はベッドの端に座り、羽織を子の肩にかけた。
布が肌に触れる瞬間、子の目がゆっくり閉じられていく。
母は泣き、父は「ありがとう」を何度も繰り返した。
看護師が廊下で目を赤くし、「あなたは本当に、すごい」と言った。
帰り道、女は羽織の内側に顔をうずめ、吐いた。
胃の中に何もないと分かっていても、体は吐く動きを繰り返す。布はその度に湿った。
家に戻ると、自治会長からの手紙が届いていた。
『今月の出動予定表です。夜間二十日、昼間五日。休みは第ニ火曜のみ。町の皆が感謝しています』
女は紙を握りつぶし、開いた。紙には指の跡が残り、汗の塩が白く浮いた。
* * *
夜毎の列は長くなり、羽織の返還は小包で届くようになった。
「うちの祖母が安らかに眠れました。お礼に」
箱いっぱいの饅頭。
「今後もお力を貸してください」
寄付金の束。
「町外からも予約が入っております」
事務方に回される支援依頼。
玄関の内側には、洗い終えた羽織が山のように畳まれた。
内側の匂いは、洗剤と涙と血の混じった、あいまいな甘さを持っていた。
女はその山の上に腰を下ろし、額を膝に押し当てる。
「やめたい」と口の中で言った。
声が、羽織に吸い込まれていく気がした。
翌朝、自治会の掲示板に紙が貼り出された。
『羽織の女の支援制度について』
『遠方の方は郵送による対応も可能です』
『お願い:返送の際は、必ず洗濯せずそのままお戻しください(状態の確認のため)』
女は紙の前に立ち、文字を読んでいる自分の影を見た。影は薄く、紙の白の上で揺れていた。
* * *
一度だけ、役所の窓口で言葉を出そうとした。
「私は、やめます」
職員が顔を上げる。
「なぜですか」
「私がやっていることは……」
喉が乾いた。上唇が紙のように張り付く。
「私は、弱さに……」
「あなたがいなくなったら、困る人が大勢います」
職員は微笑んだ。
「あなたがいちばん分かっているでしょう」
「……私は」
「あなたがここまでやってきたことを、無駄にしますか?……善いことを、諦めますか?」
善い、という言葉が室内の冷たい空気を震わせた。
女は首を振り、窓口から離れた。
廊下の端、消えかけた蛍光灯の下で立ち尽くす。壁の時計の秒針だけが、規則的に女の骨に触れるように鳴っていた。
* * *
その夜、戸口に見知らぬ女が立っていた。痩せて、手首が細い。背に子を背負っている。
「お願いします。夫が、声を上げるたびに、家が冷えるんです」
女は羽織を取った。手が震えた。女は家に案内するように告げた。
* * *
「……ここで」
座敷にひざまずき、夫の肩に羽織をかけた。
男の喉が鳴り、眼がゆっくり閉じる。背の子が泣き出した。
女は羽織を握る手に力を込めた。布地が指で鳴いた。
その家族が帰ると、玄関には別の家族が待っていた。
次いで、また別の。
夜は短い。列は縮まらない。
「あなたにしか頼めないんです」
「あなたがいるから、私たちは眠れる」
言葉は礼の形をしているのに、縄のように絡みついた。
女は視線を落とした。足元の床の木目に沿って、小さな黒い点が連なっている。水滴が乾いた跡だ。
見覚えのある匂いが鼻を刺した。
誰のものか分からない塩の匂い。
*
朝、女は川の手すりに指をかけた。
冷たい鉄。低い水音。
橋の上には、花束がいくつも置かれている。かつてここで見つかった青年のためのものだ。
花の匂いが強く、甘かった。吐き気がこみ上げる。
「おはようございます」
背後で声がした。振り向くと、自治会長が立っていた。
「今日もお願いできますか」
女は頷いた。
頷きながら、手すりから手を離した。
家に戻る途中で、見知らぬ老人が近づいた。
「あなたの羽織に救われたと、うちの女房が」
女は立ち止まり、礼を言った。
老人は続けた。
「あなたのような人間がまだ居てくれると思うと、世の中も捨てたもんじゃない」
女は笑う形をつくった。
笑い終える前に、老人はもう次の角を曲がっていた。
* * *
夜の相談所。
女は机の向こうに座る。
椅子に腰を下ろした男の肩に羽織を回す。
男は涙を流し、深く息をつく。
女の鼻腔には、洗剤と涙の臭い、血と土の臭い、何度も洗っても消えなかった甘い悪臭が混じり合って押し寄せる。
列は尽きない。
羽織は返ってくる。
礼は積み上がる。
予定表は埋まる。
夜は短い。
女は死ねない。
笑おうとしても笑えないとき、頬の筋肉は緊張で痛む。
泣こうとしても涙が出ないとき、目だけが乾いて痛む。
やめようとしてもやめられないとき、喉だけが言葉を持たずに痛む。
女は羽織の裏地に顔を押し当てた。
布は湿っていた。
臭いは抜けない。
* * *
夜更け、相談所の灯が落ちたあと。
机に突っ伏した女は、血の気のない指で羽織を握りしめていた。
肩は上下せず、瞳は乾いて光を映さず、人形のように静かだった。
(私に羽織をかけてくれる人は、どこにいるのだろう)
弱さを欲しがっていた女自身が、いまや自分の弱さに打ちのめされていた。
だが彼女の肩を覆う布はどこにもなかった。
——あなたが弱ったそのとき、誰かが羽織をかけに来るだろう。
それが慰めか、命を吸う布かは、もう誰にも分からない。
——————
次話は 毎日18:00更新。
「舌の塔」──罪を預かることで、欲を積み上げていく司祭。
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