第18話 「塾長の視線」

 夕方の塾。控室の蛍光灯は白々しく光り、誰かのペンが走る音と、プリントを仕分ける紙の擦れる音が交じり合っていた。

いつもと変わらないはずの時間。けれど俺の胸の鼓動だけが場違いに大きく鳴っている気がした。


「田村君」


不意に名前を呼ばれて振り返ると、黒木塾長が立っていた。穏やかな眼差しのはずなのに、その奥に何かを探るような色が見えた。


「……はい」


声がわずかに震えていた。自分でも分かる。

黒木はにこりと笑ってから、何気ない調子で口を開いた。


「最近、疲れてないか? 顔色が少し悪いように見えるが」


「だ、大丈夫です」


反射的に答えた瞬間、喉が渇いて唾を飲み込む音がやけに大きく響いた。

黒木の視線が、ふっと俺の動きをなぞるように降りてきた。そこには何の敵意もない――ただの気遣い、そう思いたい。だが俺には、奥底で別の意図を隠しているように見えて仕方なかった。

バレてる? いや、何を? 金のことか? 違う。金はまだ誰にも気づかれてないはず……。もしや、斎藤の部屋で俺だけが見つけてしまった、あのメモのことか?

返事が遅れてしまった。黒木の目がほんの少し細くなる。

慌てて笑顔を作り、「本当に大丈夫です」と取り繕った。黒木はそれ以上は追及せず、「そうか、それならいい」と言って、他の講師たちに軽く声をかけながら去っていった。


ただの会話。そう割り切ればいい。

だが背中に冷たい汗が伝っていく。


斎藤の部屋で拾った走り書き――あれを見たのは俺だけだ。もし、黒木に悟られたら……俺は、終わりだ。


机に置いたプリントを握る指先に、じわりと力がこもった。紙の角が折れ曲がり、白地に細かな皺が刻まれていく。


周りではいつも通り、同僚講師が笑いながら談笑している。ペンを回す音、缶コーヒーを開ける音、些細な日常の音が途切れなく続いている。

なのに俺の世界だけが、別の色に塗り替えられていた。


俺は、まだ"ただの講師"で通せているのか?


授業に向かう足取りは重く、廊下に響く靴音がやけに遠く聞こえた。

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