第11話 「斎藤の部屋」
夕暮れ時の住宅街を歩いていくと、目の前に二階建てのアパートが姿を現した。外観はごくありふれた鉄骨造りで、学生や独身のサラリーマンが住んでいそうな、何の変哲もない建物だ。しかし表札の一角に「サイトウ」とまだ残っている文字を目にした瞬間、胸がざわめいた。
斎藤ゆかり――塾の経理担当であり、そして俺の口座に桁違いの金を振り込んだ人物。今は、ニュースの事故報道で「死亡」と伝えられた存在。
(……本当に、ここになにか手がかりが残っているんだろうか)
ポケットの中に忍ばせた小さな鍵を取り出す。塾長を通して「グループ会社」の人間から渡された合鍵だ。しかし、俺には理解できていた。グループ会社など建前にすぎない。実際は教団の人間たちが俺をここへ送り込んだのだ。
周囲を何度も確認し、人の気配がないことを見定める。手のひらが汗でべっとりと湿る。覚悟を決めて鍵を差し込み、そっとドアを開いた。
――静寂に包まれた一室。
中に足を踏み入れると、最初に目に飛び込んできたのは、生活感の薄い空間だった。ベッドは整然と整えられ、机の上には何一つ置かれていない。冷蔵庫を開けてみても、ペットボトルの水が一本だけ。まるで誰かが意図的に片づけをして立ち去った後のようだった。
(……やはり教団の人間がすでに調べたのかもしれない)
しかし俺の直感は別のことを告げていた。
ここまで完璧に痕跡を消したのは、斎藤本人かもしれない。彼女は何かを隠すために、すべてを処分し尽くしたのだとしたら。
引き出しを開けても領収書の一枚も見つからない。棚に並んでいるはずの本や雑誌もなく、ゴミ箱は空。日常の痕跡すら存在しない部屋に立ち尽くすと、背中に冷たい汗が流れた。
(斎藤さん……あなたはどこまで覚悟していたんですか)
諦めかけてトイレに入ったとき、ふと目に留まった。タンクの脇、薄暗い隙間に小さな紙片が落ちていた。
しゃがみ込んで拾い上げる。手帳の切れ端のような紙。そこには、走り書きの文字が斜めに踊っていた。
――「田中、詳細要確認」
――「資金 → 奪取、阻止」
――「電力止まれば街全体に影響」
文字を目で追った瞬間、息が詰まった。
(……これは……)
頭の中で点と点が線になる音がした。
巨額の振り込み。田中の死。斎藤の事故。そして教団。
その断片的な情報全てが「電力インフラを止める計画」に繋がっていく。
本当にそんな計画があるのだろうか。そして斎藤は、その計画を阻止しようとして資金を動かしたのか。
今、その資金が――俺の口座に眠っている。
「……斎藤さん……」
声が震えた。彼女の覚悟が、わずかな走り書きから伝わってくる。
だが次の瞬間、強烈な現実感が襲いかかった。
この紙片を持っていること自体が危険だ。もし誰かに見つかれば、俺は教団に「厄介者」として処分される。
迷っている時間はなかった。俺は紙を握りつぶし、トイレに投げ込んだ。
水を流すと、インクがにじんで紙は瞬く間に形を失い、すべて跡形もなく消えていった。
(……これでいい。俺の手元に残すわけにはいかない)
だが胸の奥には、重たいものが残り続けていた。
斎藤の強い意志と、死を覚悟してまで抗おうとした姿勢。その影を俺は確かに感じ取っていた。
アパートを出ると、夜風が容赦なく吹きつけてきた。肌寒さ以上に、胸の奥が凍りつく。
歩きながらスマホを取り出し、銀行アプリを開く。
画面に表示された残高――数億円。
(……この金は、恐らくテロ資金だ)
そう認めざるを得なかった。もう後戻りはできない。
俺は、覗いてはいけないものを覗いてしまったのだ。
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