第2話「声だけのSNS」
五年前、SNSでの誹謗中傷による事件が相次ぎ、社会問題となった。十代の少女が心ない言葉に追い詰められ、尊い命を絶った。中年男性が匿名の集団リンチに遭い、職を失った。そのたびにメディアでは「匿名だから悪口が書ける」「顔が見えないから残酷になれる」といった決まり文句が繰り返された。
国会では連日、対策が議論された。規制か、自由か。監視か、放任か。答えの見えない論争が続く中、ひとつの画期的な提案が浮上した。
「文字を捨てよう。声に戻ろう」
政府と大手IT企業が手を組んで発表したのは、革命的な「声だけのSNS」だった。顔写真も文字も一切禁止。投稿も返信も、すべて音声で行う仕組み。マイクに向かって話すと、最新のAIが声紋を解析し、不適切な表現を瞬時に検閲する。攻撃的な言葉は自動的に削除され、残るのは「穏やかで本音の声」だけ。
発表会で開発者は高らかに宣言した。「人間の声には温もりがある。文字では伝わらない感情がある。これこそが、真のコミュニケーションです」
会場からは拍手が鳴り止まなかった。
高校三年生の町田悠斗も、サービス開始初日にアカウントを作った。クラスの半分はすでに登録済みで、話題についていけないのは耐えられなかった。アプリを開くと、画面はシンプルそのものだった。フォロワーの数と、「声の波形」を表す緑の線、そして再生ボタンだけ。タイムラインを眺めていると、同級生から芸能人、政治家まで、様々な人の声が並んでいる。
最初に再生したのは、クラスの人気者、高橋の声だった。「今日は青空がきれいだね。雲がゆっくり流れてて、なんか平和な気分」続いて、隣の席の佐藤が投稿していた。「お昼ご飯はラーメンにしました。味玉トッピング最高!みんなも食べてみて」
たわいのない日常が、まるで教室の雑談のように響く。文字では冷たく感じられた言葉も、声になると不思議と温かみを帯びていた。攻撃的な表現は削除されるため、タイムラインは穏やかな空気に満ちている。「これはいいかも」悠斗は素直にそう思った。
初投稿は緊張したが、マイクに向かって「はじめまして、よろしくお願いします」と話すと、すぐにクラスメートから温かい返信が届いた。みんなの声が聞こえる世界は、確かに優しかった。
しかし、数週間もしないうちに奇妙な感覚に襲われるようになった。きっかけは、ずっと気になっていた同級生、美咲の投稿だった。彼女はクラスでは物静かで、普段の声は少しハスキーなのが魅力的だった。ところが投稿を再生すると、まるでアイドルのように甘く透き通った声が流れてきた。
「今日は図書館で勉強してました。静かで集中できる〜♪」
語尾の上がり方も、普段の美咲とは明らかに違う。翌日、直接話しかけてみたが、やはり声は別人だった。別の日には、普段は細い声の同級生の田中が、やけに低音で威厳ある声になっていた。まるで大企業の社長のような重厚さで「今日の授業は興味深かった」と語っている。
不審に思って調べてみると、「VoiceBeauty」「SoundMaster」といった声色加工アプリが大流行していることがわかった。顔を盛るように、声も盛る時代が到来していたのだ。
「だって、文字より声のほうが印象に残るでしょ? なら可愛く、かっこよくしたいじゃん」休み時間に聞いてみると、友人たちは当然のように答えた。「えー、悠斗まだ素の声で投稿してるの? ダサくない?」「みんなやってるよ。バレないバレない」
AIは確かに暴言や攻撃的な表現は削除するが、加工された声は「内容に問題なし」として通してしまう。技術的には何の問題もない。しかし、そこに残されたのは現実以上に嘘だらけの世界だった。
やがて影響はSNSの枠を超え始めた。ニュース番組までもが「声だけの放送」を採用するようになった。アナウンサーの声は水晶のように透き通り、政治家の演説は雷鳴のように堂々と響く。視聴者は「顔に惑わされない、純粋な情報」として歓迎した。だがそれが本当に本人の声なのか、誰も確かめようとしなかった。確かめる術もなかった。
転機は、悠斗が尊敬するシンガーソングライター、RENのライブ配信だった。深夜の生配信で披露された新曲は、これまで以上に美しく、魂を揺さぶる歌声だった。悠斗は涙を流しながら聞き入り、すぐに友人たちにシェアした。「RENの新曲、やばかった。生で聞けて本当に良かった」
ところが翌朝、芸能ニュースサイトに衝撃的な記事が掲載された。「REN、喉頭炎で緊急入院 医師『声帯に重篤な損傷、当面発声困難』」記事によれば、RENは一週間前から入院しており、昨夜の時点では声を出すことすら困難な状態だったという。
「じゃあ昨日の歌声は……?」悠斗は震える指で質問を投稿した。返ってきたのは、当然といわんばかりの反応だった。「AIボイスでしょ、当たり前じゃん」「今どき生声なんて古いよ」「AI使っちゃダメなんて法律ないし」
コメントは冷静で、誰も騙されたとは思っていなかった。むしろ悠斗の驚きを古臭いものとして嘲笑していた。
それからというもの、悠斗の世界は一変した。耳に入る全ての声が疑わしく思えてくる。クラスメートが話しかけても「これは加工された声じゃないか」と考えてしまう。教師の授業中の声でさえ、「もしかしてAIが代読しているのでは」と疑念が湧く。
最悪だったのは、家族の声まで疑うようになったことだった。「お疲れさま、今日はどうだった?」母親のいつもの温かい声が、突然作り物に聞こえる。父親の「明日は早いから早く寝ろよ」という何気ない言葉も、AIが生成した可能性があるのではないかと思えてくる。
もちろん現実では、家族が声を加工する理由はない。論理的に考えれば馬鹿馬鹿しい疑いだった。しかし一度芽生えた不信は、理屈では抑えられなかった。
ある夜、悠斗は母親に思い切って聞いてみた。「お母さん、今の声、本当にお母さんの声?」「え? 何を言ってるの?」母親は困惑した表情を見せたが、その表情さえも疑わしく思えた。もし音声をAIが生成しているなら、表情だって偽装できるのではないか。「ごめん、なんでもない」悠斗は自分の疑念に恐ろしくなった。
学校でも状況は悪化していた。授業中、先生の説明を聞いていても内容が頭に入ってこない。「この声は本物だろうか」という疑問が常に頭を占めているからだった。友人との会話も辛くなった。相手が何を言っても、素直に受け取れない。加工アプリの存在を知ってしまった今、純粋にコミュニケーションを楽しむことができなくなっていた。
「最近、悠斗変じゃない?」「なんか話してても上の空っていうか」クラスメートの会話が聞こえてきたが、それすらも演技ではないかと思えてしまう。
悠斗は声だけのSNSを開くのが苦痛になった。タイムラインに並ぶ「穏やかで優しい声」の数々が、全て嘘に塗り固められた幻想にしか思えない。美しく加工された声、AIが生成した可能性のある声、検閲によって毒気を抜かれた声。そこにあるのは、人間の生の感情でも、真の交流でもなかった。ただの「完璧に調整された音の羅列」だった。
深夜、ひとり部屋で考え込んでいると、ニュース速報が流れた。声だけの政府会見で、総理大臣が重要な政策発表を行うという。画面には音声波形だけが表示され、威厳ある声が政策を説明していく。国民はその声に聞き入り、SNSでは「力強い声に安心した」「信頼できるリーダーだ」といった称賛が溢れていた。
しかし悠斗には、それがAIなのか人間なのか判別がつかなかった。いや、もはや判別する意味があるのかさえわからなくなっていた。「人間の声は温もりがあるから安心できる」サービス開始時の売り文句が頭をよぎった。確かに声には温もりがあった。しかしその温もりが本物か偽物かを見分ける術を、人々は失ってしまった。
皮肉なことに、匿名性を排除し、攻撃性を除去し、人間らしさを追求した結果、最も人間らしいもの――真偽を見分ける直感、相手を信頼する力――を失ってしまったのだ。
悠斗は窓の外を見上げた。満月が静かに夜空を照らしている。その月光は本物だろうか。それとも巧妙に投影された映像だろうか。一度疑い始めると、全てが偽物に見えてくる。声だけのSNSが奪ったのは、匿名性でも攻撃性でもなく、他者を信じる力そのものだったのかもしれない。
翌朝、悠斗はアプリを削除した。しかし現実世界でも、彼の耳は疑いに満ちていた。クラスメートの「おはよう、悠斗」という挨拶が聞こえてくる。その声は温かく、親しみやすい。
そして悠斗は、人類が手に入れた「最も人間らしいコミュニケーション」が、最も非人間的な不信の世界を作り出したことを知った。声に温もりを求めた結果、心は氷のように冷え切ってしまった。皮肉なことに、誹謗中傷よりもはるかに恐ろしい「優しい嘘」の時代が、ついに始まったのだった。
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