Track13. 死と向き合うということ

 

 未来から、この時代に来る直前。何をしたのか。何が起こったか。帆乃花の第一声は、「轢かれた」だった。嫌なことを思い出したと、帆乃花は震える両手を目に当てた。慌てて花音はそばに駆け寄り、何も言わずにそっと帆乃花を抱きしめる。そして藍花も、帆乃花の一言で申し訳なさそうにしていた。


「……ごめんなのだ帆乃花ちゃん、この話は、やめておくのだ」


「いや、まって、いい」


 がらっと一変した空気に耐えられず藍花が立ち去ろうとすると、帆乃花は首を振って即答した。


「話す、話せるからっ」


 苦しそうに声を振り絞っている帆乃花を見て、悠月はすかさず言葉を返す。


「帆乃花さ、もし、今無理に話そうとしててしんどくなりそうなんやったら、今は止めた方がいい。聞けるときに、僕らはいつでも聞くから」


「いやっ、そうじゃないの。話せるけど、みんなが……」


 帆乃花は何かを言いかけて、また口をつぐんだ。少なくとも、帆乃花の心配そうな表情から、良い話ではないことは確かだった。

 花音は一度座り直して、帆乃花の手を握る。


「僕はええで。帆乃花が良いなら、なんでも僕は聞く」


「うちも聞くのじゃ。隣に居てるから、だいじょぶじゃよ」


 全員が帆乃花に向かって頷いた。

 藍花ももう一度正座した。


「じゃあ、あのね。……あのねわたし、お盆で。法事が終わって、ままと、口げんかした」


 ちらり、帆乃花はすぐ隣の花音の顔をうかがって、話を続けた。


「それで、そのまま家を飛び出して、走って、軽トラに……」


 段々とか細くなっていく帆乃花の語尾に、悠月と藍花はうつむいて、花音は口元に手を持っていった。


「……それで、身体から抜けたのだ?」


「うん。そう。そうだ、ぽんって。身体が宙返りしたって思ったら、わたしは地面に倒れてて……、頭と足から血が出てたのを、上から見てた。そのままどっかに入っちゃって、気づいたら、空を飛んでた……」


「…………」


 誰も、何も返せず、いたたまれない空気だけが流れた。悠月は布団を静かに掴んで、花音はまた、黙って帆乃花を抱きしめて。藍花はあくまでも冷静に事実を受け取っていた。

 数秒、数分、沈黙が続く。何を話したらいいのか、どう切り出したらいいのか、特に悠月は過敏になって、周りの顔をうかがっていた。自身の娘に起きた交通事故。それを娘自身の口から聞いて、本来親なら真っ先に言葉を何かかけるべきなのだろうけれど、悠月は何が正解なのか、分からなかった。人の死に直結する話題となると、なおさら何も言えなくなる。

 いや、言いたくないだけだ。昨晩、父として、家族として、なんてあれだけ帆乃花を意識しておきながら、結局は今、他人事なのである。言葉をつぐんで、体裁を考えてしまっている。昨日に今日だ。父親なんて、親なんて簡単に分かるはずがない。でもそれは言い訳かもしれないと、悠月は悶々とした。

 掛け時計の秒針音だけが、チチチチと、やけに大きく聞こえていた。


「……ごめんなさい」


 長い、長い沈黙を最初に破ったのは、帆乃花本人の謝罪だった。

 謝らせて、しまった。


「やっぱり、困らせちゃった」


 帆乃花はなんとも表現のし難い苦笑いを浮かべた。


「あ、いや、ちゃう。突然で言葉が出んかっただけで」


「そうじゃよ、帆乃花ちゃんはなんも……」


「わたし、いつも余計なこと言うんだ。がっこの友達にも、ままにも、ぱぱにも。昨日、昨日だって、わたしままに言っちゃったの」


 帆乃花は花音の手を取った。ひんやりとした自身の両手で、温もりのある柔らかい手を包んだ。


「もう、働くのやめてって。ままも死んじゃうって。独りにしないでって。でもわたし、言葉ぐちゃぐちゃでうまく言えなくて、まま、独りですごく頑張ってるから、頑張ってるのに、そう言っちゃったから、怒らせちゃった。わたしの、せい」


「……それは、ごめんなのじゃ、うちが言うのは違うかもじゃけど」


「まま、も」


 悠月はその言葉に引っかかって、帆乃花は小さく頷き、例のピックを取り出した。


「これは、ぱぱが……。が持ってたピック。仏壇にあったの、盗った」


 その一言を聞き、悠月も花音も、さらに絶句してしまった。

 けれど悠月自身なんとなく、薄々その理由を察していたような気もしていた。


「じゃあ、もしかして、僕も」


「……うん。心臓、をね」


「…………」


 肩を落とした。身体がどしりと重たくなった。死を迎える歳が比較的早いことを承知したからというわけでは決してない。悠月はその二文字を聞いてすぐ、母のことを思い出した。帆乃花も結局、そういうことなのだと。自分は、子を持ったとしても絶対に独りにはしない。そう決意したとしても、どこかひとつふたつ、親が親なら、子は子になるのだろう。いつかの独りの生活がまた、砂嵐の映像となって悠月の頭の中でざらざらと流れた。

 片親になって、一番目にした言葉は『チンして食べてね』である。悠月も今、独り暮らしをして実感している。生活費、学費、水道代に電気代、携帯代。祖母と料金の確認を取る度に、それらを管理することの重荷を、今になって分かってきている。

 小学生の悠月は、基本独りで食事をし、独りで出来そうな家事を行い、独りで眠る。その繰り返し。以前よりも、暮らしの音が少なくなった。部屋の広さに驚いた。母という人が見えなくなっていった。ならばきっと、帆乃花も。


「……情けなさすぎやろ」


 幻滅した。一瞬で自分自身を許せなくなりそうになった悠月に、すかさず帆乃花は「ちがう」と否定した。


「ちがうんだよ。ぱぱ、頑張りすぎてただけなの。授業参観も運動会もベースの発表会も来れないくらい、わたしたちをいちばんに考えて頑張ってくれてたの。わたしが寝たときにぱぱは帰って来るから、全然お話も出来なくて。ままとはちゃんと仲いいんだよ、でも朝は早くて夜は遅いから、わたしとはいっつも、すれ違ってすれ違って、なかなか話せなくて、ぱぱが心臓やってぽっくり逝った日だって、わたしがのんきに朝寝てたときで、起きたらもう、ぱぱは――」


 帆乃花の言葉ひとつひとつが、熱を帯びていく。途切れる間がない。気づけば帆乃花の頬にもしずくが伝って、ほろりほろりと、すーっと、花音の腕へ、畳に染みて、一粒一粒こぼれていく。帆乃花は亡き父のピックを、強く、強く握りしめていた。


「久々に見たぱぱの顔、ちょっと、やせてた。身体、冷たかった。どんな顔したらいいかわかんなかった。何言えばいいか分かんなかった。最後にお話したのなんて亡くなる半年くらい前とかだよ、新しいおもちゃ買ってってだだこねて困らせて。それで最期だった。そんな最期だったの。だから安心したんだよ昨日、手、ぽかぽかしてたから」


 帆乃花は水を張った真ん丸の目を悠月に向けた。その後すぐに、花音の腕を掴む。


「ままもね、心がしんどくなっちゃってたけど、今、わたしのために朝から晩まで、晩から朝まで働いてくれてる。だからわたしがしっかりしなきゃだめなの。そうしないと生活が止まるの。ままの頑張りが消えちゃうの。わたしっ、子どもだから! 見てるしかできないからっ! きのう、言いたかったのは、もう頑張らなくていいとか、もっと頑張ってとか、そんなんじゃなくてっ、ちがくて、いっしょにごはん、食べてくれたらそれで、それでっ……」


 嗚咽が漏れる。

 目に見えて分かるくらいには、帆乃花の手が震えに震えていた。

 今日に怯えた娘を見て思う。

 本当に。なんてことをしてくれたのだ、と。悠月はただひたすらに、自分自身の愚かさに、心のなさに、呆れた。自分が一番嫌だった生活を、抜け出したかった温もりのない生活を、自分の子にも、押し付けてしまった。

 そこにわがままは無かった。仕方ないと思わせてしまった。子どもなら、もっと正直に、欲張って、転がるように暮らすべきだ。悠月は自身の経験を経て、そう思っていたけれど、自分自身が、それを潰したのだ。それにこの話を、帆乃花は他の人にしたのだろうか。受け止めてくれる人は、居たのだろうか。この子は『つらい』を、言葉にしたことはあるのだろうか。

 今何か、なんでもいいから伝えなければ、この子は一層崩れていく。そう悠月は思って言葉を振り絞ろうとしたけれど、畳みかけるように、「だからっ!」と、帆乃花の鼻声混じりの強い言葉が一室に響いた。


「わたしは、ぱぱが、ままもっ! こんな危険な幽霊たちと向き合うのだけは、絶対に嫌! 嫌なの、嫌だよもう、ここでもっ、死んでるみたいに暗い部屋で過ごすの!」


 帆乃花はこれでもかと顔を真っ赤にして、悠月を睨みつけていた。花音はひたすらに、うつむいて肩を震わせていた。

 怖さの欠片も感じられない、丸っこい目をとがらせて、精一杯の威嚇をしている。

 こんな話を聞かされて、今、このときにすべき返答なんて簡単だ。だったらやめる。帆乃花のそばに居る。危険なことはしない。もう独りにさせない。そう言うべきなのだ、親ならきっと。それが正解なのだ。帆乃花が居るという時点で、未来は明るいということなのだから。悠月は、帆乃花に向かって正座して、しっかり面と向き合った。


「……帆乃花」


 悠月は言葉を探す。

 娘は今、どんな気持ちなのだろう。怒っている、泣いている、悔やんでいる、悲しんでいる。全部かもしれない。それを理解できない自分が、憎い。少しでも分かるべきだと思う。だから考えるしかないのだ、と。

 けれどもそれと同時にひとつ思ってしまうことがある。この時代で生きる悠月にとっては、あくまでも未来の出来事だ。帆乃花の抱えている重さなんて想像でしか補えないし、境遇は近しいとはいえ、心の底から帆乃花のことを理解できるかと言われると苦しいところがある。家族とは言ったものの、まだ一日ちょっと過ごしただけ。どうしても、どうしても心のどこかで、理解できないのは仕方ないことだろうと、他人事になってしまうのは仕方ないことだろうと、第三者の目で居る自分もいる。

 それでもと、悠月は寄り添いたいと模索する。帆乃花の中では今、現在、起こっている問題であり。少なくとも元を辿れば自分が発端で、こうして目の前で泣いている。ともに過ごしてきた年月は、悠月にとっては一日でも、帆乃花にとっては生まれてから毎日だ。まずそれだけは理解しておかなければならない。だから。


「帆乃花。この時代の僕が言うのもやけど、それはほんまに、申し訳なかった」


 悠月は深く、頭を下げた。


「……そんなことになってるとは思わんかった。もっと、“家族”してるんやろなって想像してた。僕も、ぽかぽかした生活、欲しかったからさ。あんな生活は自分だけでええ。って、思ってたのに。それが自分の子にも、って、ほんまに情けない。ごめん」


 言葉は合っているのか、悠月は不安になった。間違いなく本心ではあった。

 謝って、それからどうする。悠月は自分に問いかけた。

 昨日今日逢ったばかりの自分の娘に、帆乃花に、自分が言えることはなにか。

 まだ高校生である自分が、この子がこの時代に居られる間、なにができるのか。

 単純に、だったらやめるを、言えば済む? 狐化なんて知らない、東雲さんはもういいやって、諦めたら帆乃花は喜ぶ? それだけは絶対に違う。

 思い起こした。過去に悔やんだあれこれを。おじちゃんと過ごす日常を。先の夢、『手を握って欲しい』と純粋に願った、あの煌びやかな女性のことを。そして、共に公園で流星を眺めた、名も知らない影。仁兵衛の遺した、言葉や、景色。そして、昨日舞い降りた、未来の娘との、質素だけれど、くだらん時間。

 悠月は全部、大切にしたいと思った。

 

「あの、やから、っていうのも変やけど、ざっくりやけど、帆乃花のやりたいこと、この時代におれる間、いっぱい一緒にするっていうのはどうやろうか。僕らは帆乃花のぱぱとままやけど、ここやと高校生やからさ。できる範囲は、もしかしたら限られてるかもしれん。けど、高校生やけど、帆乃花のぱぱとままやから。それは変わらんから。帆乃花がもしええなら、どう……やろ?」


「ぱぱ……」


 帆乃花はうつむく。自分の心を整理するように少しの間考えて、ひとつ頷いた。悠月の顔を真っすぐに見つめる。数秒、無言で目を合わせたのちに、「うん」と、ぎこちなく、ほころんだ。けれど悠月は、それだけを言いたかったわけではなくて。その後を言おうか言うまいか、ほんの僅か間を空けて、帆乃花の手を取った。


「それで、さ。そのためにぱぱは東雲さんとも、向き合いたいって思ってる」


「――えっ」


 悠月のその一言で、またすぐ帆乃花に影が差した。


「僕が仁兵衛やからとか、世界が危ないからやとか、それも大切かもやけど。僕、人の気持ち考えんの、へたっぴやから。いらんことばっか昔から言うて、人に嫌な思いさせてばっかで。けどぱぱは、幽霊さんが視える。話せる。色んな時代の人がおるから、色んな気持ちを教えてくれんねん。東雲さんもそう。あの人の言葉に助けられたこともある。ぱぱが向き合うことにこだわんのは、"帆乃花の気持ちに寄り添えへん”が嫌やから。分からんまま、一緒に過ごしたくないから」


「……なんで」


「狐化のことは、まだよう分からんけど。少なくとも、東雲さんはぱぱのことをちっちゃいときから見てくれてた、先生、とか、第二のママ……みたいなもんやからさ。誰よりも僕が、まず向き合うべきやと思ってる。帆乃花も、東雲さんも、全部大事やねん、僕は」


 悠月はぎこちなく微笑んだ。自分に殺意を込めてきた幽霊に、もう一度遭う。仮に見知った人物であったとしても、それがどれほど危険なことか。けれども悠月は、東雲さんには感謝してもしきれない恩があるのだ。

 しかし帆乃花はその顔に、生前の父を思い出す。やからごめんねというようなその顔は、どの時代であろうとなんら変わらなかった。怒りが湧いてくる。誰に対してもその顔をし続けてしまったから、亡くなったんじゃないのか。どうしてそんなに他人を見ようとするんだ。どうしてそんなにヒーローを気取るんだ。何を抱えていようが死が隣にあるなら逃げるべきじゃないのか。家族のために頑張ってくれてありがとうなんて、生きてる範囲で頑張っているから言えることじゃないか。

 帆乃花は悔しそうに唇を噛んで、握られた手をぱしんと振りほどいた。

 そうして悠月に飛びかかりまた腹を叩き始めた。


「なんでっ! ねえなんでっ! ほのかはそういうこと言って欲しいんじゃないっ! 自分の首見てなんでそれが言えんの、馬鹿なんじゃないの、死に行くようなもんじゃんっ! あんときだって、もしぱぱがちゃんとお休み取って、人間ドックとか行ってたら気づけてたかもしれないんだよ、もう死んでからじゃ遅かったんだよ!」


「あ、いやっ……、けど帆乃花と暮らすには……」


「娘のため嫁のため友達のためって、それで先に死んでるんじゃただの無駄死にだよ、ありがた迷惑だよ! そんなん言うならまずほのかから見てよ! ほのかの今の気持ちを分かってよ! ……だからっ、だからぱぱもロックもっ、嫌いになっちゃうんだぁっ!」


「え、ちょっ、帆乃花っ!?」


「帆乃花ちゃんっ!?」


 悠月と花音を押し退けて、帆乃花は向こうに置いていた『月光刀』に手を伸ばす。

 刀をぎゅっと抱きしめて、また勢いのままに玄関へ駆けだした。

 あっという間に姿が見えなくなってしまった。


「ちょっ、どこ行っ!」


「悠月くんっ!」


 勢いのまま追いかけようとして、悠月は花音に服をつままれた。


「……あのっ、あの、今、ほんまの意味で、帆乃花ちゃんの気持ちが理解できんのは、悠月くんだけやと思うのじゃ。うちも藍花も、追いかけるから」


 花音は目元を腫らしながらも、いつも通り、柔らかい目をしていた。


「うちは、悔しいけど、何も言えないのじゃ。ぎゅってしてあげることくらいしかできないのじゃ。うち昨日、帆乃花ちゃんと一緒に寝たのじゃ。いっぱい、いっぱいお話してくれて、寝落ちするまで話し続けて。そんだけ、ただただ、お話がしたかったんじゃと思う。まだ、何を言えるかはわかんないけど、帆乃花ちゃんとお話したいこと、いっぱいあるのじゃ」


「……ん、分かってる。のんちゃん。だいじょぶ」


「うん」


 悠月は頷いて、先に、駆けだした。横開きである木組みの玄関は、開けっ放しにされていた。丁寧に閉めて、石塀に囲まれた草木生い茂る庭へ出る。石畳をとんとんと踏み、木陰の揺れる小道へと。右左どちらへ行ったのだろうか、見回しても帆乃花の姿はとうに無かった。素早い。とはいえ多少重量のある刀を持った小学生の女の子だ、そんな遠くへ行けるはずがない。思い当たる場所を、探っていくしかなかった。


「あのっ! うちら暁月神社と国道らへん探すから、悠月くんは田んぼ側お願いなのじゃぁ!」


「わかったぁー!」


 玄関からの、花音の慌ただしい声を聞いてから、悠月はそのまま右へ曲がる。

 暁月家と暁月神社、隣接しているわけではないけれど、神社はすぐそこである。悠月は人気のない路地を走り出した。


「ほのかぁー! どこやー!」


 近場で言えば昨日出逢った公園。見渡して、日曜なのにそもそも人が居なかった。これまた淋しい場所である。拓けている空間なのだから、隠れようもなかった。


「安直かっ」


 星野家の裏。家とフェンスの狭いスペース。ひとり分くらいは余裕だけれど、まあ流石に無いだろうと確認するが、まあ無かった。頭をかきむしった。


「さすがに僕みたいなことはせんか……」


 他にも、親友の自宅兼駄菓子屋、コンビニ、花屋、公民館、近場のあちこちを覗いてみたけれど、全く見当違いだった。相変わらず町民と幽霊が混在しているある意味賑やかな町で、刀を持っているとなれば幽霊以上に分かりやすい。とはいえ帆乃花のことはまだまだ知らない。こういうとき、何を考えてどこに走るのだろう。帆乃花のことが全く分からなくて、悔しくなった。また車と接触していなければいいが。気づけば花音からも、暁月神社にはいないという連絡が届いていた。

 息を切らして走り回って、偶然、ご近所さん、というかお隣さんとばったり会った。

 六十代、女性。腹周りが横に広い、典型的な「あらちょっと聞いて」なタイプの、谷町さんだ。


「あれ悠月くん! 偶然やないの、どうしたんそんな焦って。え首どないしたん」


「あのっ、刀を持った女の子みませんでしたか! あ、刀って言っても百均のやつでっ、身長は小さめで、髪がえーと……」


 悠月は慌てて身振り手振りしていると、谷町さんは納得したという風に手をぽんとして、ぱあっと口を開けた。


「あー! あの子かもしれん」


「え、見たんですか!」


「そうそう! 刀持ってたわ。ここらであんま見ん子やったから、気になって。向こうの方に走っていったで、えーらい急いどった」


 谷町さんが指を指した方向は、まだ悠月が足を運んでいない区画だった。「ありがとうございます!」と相手の返答も聞かぬままに走り出して、道中、おや、と気づく。


「……あっ」


 その向かう方向とはまさに、神社のおじちゃんがいる、名もなきいつもの廃れた神社だった。

 田園風景のみ広がるその区画でめぼしい場所といえば、本当にその神社しかない。もしこれで違っていたら、いよいよバンドメンバーにもお願いしないといけなくなる。それだけは避けたい。走って走って、春風を切って、階段の目の前まで来た。欠けた鳥居を見上げる。悠月はよしと身構えて、お願いします、お願いしますと何度も祈りながら、一段一段、足を上げる。


「ほのかぁー! ほのかあーっ!」


 らしくない、大声を出しながら、たんと息を切らしてここの階段を昇るのは初めてだ。額に汗が溜まってきたのが分かった。鳥居をくぐると、正面には変わらず苔だらけの石段がある。そこに同じく変わらず居座っている軍服の少年。物珍しい顔をしてこちらの様子をうかがっていた。


「……どしてん坊主、んな大声出して。うわ首ぃ!」


「いや、あの……ふぅ、うぅ、しんど、あぁぁ」


「ちょっ、大丈夫かいな、一旦座れここ、ほれ」


 おじちゃんはとんとんと石段を叩いて、悠月はふらふらのままに石段に座り、両手をついた。息を整えるのに、いつも以上に時間がかかった。


「何があってんそんな」


「えーっと、あのっ、ふぅ。はー。話すと長くなるんですけど、ほんまに多分過去イチ長いんですけど。っていうかおじちゃんこそだいじょぶやったんですか昨日。影だらけやったんじゃ」


「ああ! そうびっくりしたで、うじゃうじゃおって。やられる思たわ。せやけど見ての通りや。おじちゃん足遅いけど敵から隠れんのは得意やからな。なんとかなったでぇ」


 そう言いながら、おじちゃんは片目をつぶって銃を構えるジェスチャーをした。


「それはなかなか触れていいのか分からんラインの理由……、いやそうやあのね!? 女の子! 女の子見ませんでした!? 刀持ってる、身長これくらいなんですけど!」


「あー。まあまあ、落ち着けって坊主」


 悠月がどたばたと立ち上がったのを見て、おじちゃんは「一旦座り」と呑気に石段をぽんぽんと叩いた。


「無理です無理です! ずっと探し回ってんですよ一時間くらい! めっちゃ、めっっちゃ大事な子で!」


「ほーう? 大事な子け。そらおじちゃん気になるわ。何があったかくらい聞かせてや」


「いや一刻も早く見つけないとで……!」


 かつてなく強い眼差しをおじちゃんに向けると、ふっ、と痺れを切らしたようにおじちゃんは笑って、そのまま人差し指を口もとに持っていった。静かに、ってこと? 悠月は一瞬ぽかんとすると、さらに状況を伝えるべく、おじちゃんは首だけを下に動かした。悠月はそれを辿る。視線の先。石段の裏。賽銭箱の下。雑草うごめく野良猫の溜まり場。一瞬中をちらりと見ると、何か棒状の、出っ張りが見えていた。幾重にも巻かれた、網目の目立つ、細い……、あっ。


「坊主。ほら座れって。坊主のながーい話、おじちゃんが聞いたるやんか」


「…………はい」


 悠月はひとまず安心して、石段に座り直した。

 深呼吸をしながら、一旦スマホを立ち上げる。

 花音にひとつ、文章を送った。


「それが……ですねおじちゃん、昨日おじちゃんと別れた後なんですけどね」


「おう」


「かくかくしかじか、かくかくかくかく」


「は!? なんやてぇ!?」


 昨日起きた、信じられないような話をしながら、花音からの返事を待つ。

 既読はまだつかず、一旦閉じずにこのまま置いておくことにした。

 花音には一言、『見つけた』と、メッセージを送っておいた。

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