殺人カノジョと9月の蝉

渡貫 真琴

第1話

 私の頭の上から冷たい液体が降り注いだ。

 少しベタつく。

 ジュースかなにかだろうか。

 そんな事を考えていると、頭の上から笑い声が聞こえた。

「あ、ごめんなさーい。

 手ぇ滑ったわ」

「やば」

「え、てか何。ガン無視?ウケる」

 空になった紙パックを私の机に置いて、西野さんと金子さんの2人は自分の席に戻っていった。

 私は何も言わずに立ち上がって、ハンカチでジュースを拭う。

 夏休み明けの教室は嫌に静かだった。

 教科書を拭き終わる頃には、私の名前、岸朋子の文字はすっかり滲んでしまっている。

 そうしているうちに授業は始まってしまったけれど、明らかに濡れている私に先生は声をかけなかった。

 私は空になった隣の席を見る。

 南野くんが居なくなった時と同じように、大人達には私が見えていないようだった。


 いじめが始まったのは突然だった。

 南野くんは少し大人しい男の子で、黙っていると涼し気な線の細い人だった。

 高年生になってクラスが始まり、隣の席になった私はすぐに南野くんと打ち解けた。

 彼は推理小説を好んで読む人だったし、恋愛小説を好んで私とはジャンルが違ったけれど、本の話が出来るってだけで楽しかった。

 でも、次第に2人で話しているとからかわれる事が増えていった。

 特に率先していたのが西野さんだった。

 後から知った事だけど、西野さんは中学の時に南野くんに告白して振られているらしいから、私達の関係に思う所があったのかもしれない。

 大人しい南野くんは困ったようにはにかむだけだった。


 だから、いじりすぐに虐めにエスカレートして、南野くんは転校してしまった。

 次の獲物に私が選ばれるのは当然だった。

 私は彼と仲が良かったし、南野くんをいじめた人達には軽い注意も無かったのだから。


 放課後になり、本を読んでいた私は視線を感じて顔を上げる。

 西野さん達が私を見て笑っていた。

 寒気のするような笑顔だった。

 きっと何かを仕掛けようとしている。私はすぐに教室を出る。

 でも、数歩も歩かないうちに前を歩いていた山本先生が私を呼び止めた。

「うわっ、岸、お前なんか臭うぞ」

 山本先生は私のクラス担任だ。

「西野さん達にジュースをかけられたので。

 先生、止めてくれませんか」

「またそれか」

 山本先生は大げさにため息をついた。

「あのなぁ岸、先生も暇じゃないんだ。

 喧嘩ぐらい自分で何とかしてくれないと」

「……複数人でジュースをかけたり、教科書をカッターで切るのが喧嘩なんですか」

 自分でも驚いた。

 無駄だと分かっているのに飛び出した私の抗議に、山本先生は眉をひそめる。

「岸はもっと物わかりの良い子だと思ってたよ」

 先生の目には何の感情も宿っていない。

「うちの校長はね、学校にはいじめが無いって言ってるんだよ。

 いじめがない学校で、いじめがあるぞって騒いでみろ、校長からは良い迷惑だ。

 俺の出世にも関わる」

 つるりとした瞳で、先生は私を見下ろす。

 確かに瞳の中にいるはずの私は、先生にはのだ。

「深刻に考えることはないさ。

 俺もこうやって相談に乗ってる。

 そうだろ?」

「もう、良いです」

「そうか?なら良かった。

 あー、そうそう、このプリントなんだけどさ、名前なんだっけか……あの不登校の子に届けてくんない?」

 吐き気がした。

 私はプリントをひったくると、口を押さえて山本先生の横をすり抜ける。

 視界の隅に、私を嘲るような表情の西野さん達が見えた。

 頭がおかしくなりそうだ。

 私は気持ち悪さに耐えながら学校を飛び出した。


 学校から離れて、私は木陰の下で息をつく。

 夏も終わりに近づいているというのに、空は澄んで、木は青々としている。

 どこかでセミが鳴いていた。

 それでも、息苦しいのは夏のせいじゃなかった。

 世界はなぜこんなに明るいのだろう。

 これでは私が異物みたいだ。

 手に握ったプリントを見ると、強く握っていたせいでしわくちゃになっている。

 少し考えた後、自分のプリントをあの子――不登校の澄田なぎさにあげる事にした。

 私の母が三者面談に来てくれた事は一度もなかった。それならあの子に綺麗なプリントを渡してあげたい。

 私は日傘をさして、陽炎の中を歩いた。


 澄田さんの家は学校から距離がある。

 特にこの炎天下とあっては、彼女にプリントを渡しに行く役割は誰もやりだからない。

 熱風が吹いて、私の吐息が漏れる。

 夏の午後は存外に静かだった。

 雲一つない青空を眺めながら歩く内に、私の心も落ち着きを取り戻していた。

 冷静になると、さっきの山本先生への態度はマズかったな、などの後悔がふつふつと湧き上がってくる。

 山本先生は何もしないけど、今はまだ敵じゃない。彼にも目を付けられることだけは避けたい。

 そこまで考えて、私は可笑しくなった。

 意味がない。

 事態の解決は不可能、逃げることもできやしない。

 母にとって私は、自分の人生を縛り付けている忌々しい楔なのだ。

 もし転校したいと言い出せば、今度こそ張り手だけでは済まないはずだ。

「あ~あ、馬鹿みたい」

 敢えて口に出してみる。

 分かり切った事を考えるのはやめて、私は足を止めた。


 周囲には人の気配がまるで無い。

 元々は住宅街だったこの地域は、今や空き家が点在するだけのゴーストタウンと化している。

 その中にある、貧相な2階建てアパートの一室に澄田なぎさは住んでいるらしかった。

 らしいと言うのは……未だに私が彼女の顔を見てないからである。

 103 号室のインターホンを鳴らすが、無反応。

「澄田なぎささーん!居ますかー!」 

 私の呼びかけにも無反応。

「……今日は学校で大事なプリントもらったから持ってきたんだよ」

 私はプリントを玄関の下の隙間から家の中に投げ入れた。

 もう慣れたものだ。

 最初にプリントの配達を押し付けられた時は、何時間待っても出てこない彼女に困り果てたものだった。

「じゃあ、行くね。

 ……学校なんて行かなくてもいいと思うけどさ、いつか声聞かせてね」

 声も姿も知らない彼女にいつもの声をかけて、私は振り返る。


「やっぱ似た者同士仲良いのな」


 背後にクラスメイトの高橋が立っていた。

 驚いている間に、視界がひっくり返る。 

 高橋に押し倒されている。

 なんで、どうして?

「いや、西野たちに10万やるからお前とヤッて来いって言われてさ。

 この辺なら誰も居ないからつけてたんよ」

「は……!?

 自分が何やってるか分かってるの!?

 犯罪だよ!?離して!触るなっ!誰か!」

「暴れんなって」 

 次の瞬間、頬に何かがぶつかって頭を地面に打つ。視界が赤黒く染まり息ができない。

 殴られたのかもしれない。

 ぐったりとした私を押さえつけて、高橋は私の服を弄る。

「おい、調子のんな。

 お前みたいなブスと好き好んでヤるかよ」

「誰か!警察呼んで!」

「チッ」

 また殴られた。痛い痛い痛い痛い痛い。

 何で?何もしてないのに。

 辛い思いをしたくないだけなのに。

 腕に力が入らない、抵抗する気力は枯れてしまった。

 もう全てがどうでもよくなって、私は体を投げ出して泣いた。

「最初から大人しくしとけよ」

 生臭い汗の匂いが覆い被さる。


 みんな死ねばいいのに。


「ねー、五月蝿いよ!

 ここで子作りしないでくれる?」


 灰色の世界が息を吹き返す。

 高橋の後ろに、一人の女の子が立っていた。

「澄田なぎさ……?」

「そうだよ、プリント運びの人」

 唖然としていた高橋は、慌ててズボンのチャックを締める。

 しかし、すぐに下卑た笑みを浮かべた。

「おい、ひきこもり。

 お前んち貸せよ。コイツとヤるから」

「えー、なんで?

 貸す必要ないじゃん」

「……お前状況わかってんの?

 一人暮らしだろお前、山本から聞いてんだぞ」

 高橋の恐喝に澄田さんはケタケタと笑い出した。

 笑い声はよく響いて、青い空に吸い込まれていく。

「アハハハハハハハハッ!

 何それ!状況わかってんの?だって!

 君面白いね」

「んだとテメェ。

 バカにしてんのか?」

 高橋の態度が戸惑いから見下すようなものに変わる。

 私は咄嗟に高橋を羽交い締めにした。

「早く家に戻って!

 鍵閉めたら警察に電話して!」

 でも、決死の行動は簡単に振り解かれて、私はまた殴られた。

 いつの間に倒れたのか、地面に転がった私は澄田さんに視線を向ける。

 私の視線に気が付くと、彼女は微笑んでみせた。

 それは日差しを遮るアパートの影に潜って燦然と輝いている。

「なんか、あったかいね」

 澄田さんはそう呟くと、後ろに隠していた腕を軽く振り抜く。

 ズルっという音と共に、ナイフが高橋の両目を一直線に繋いだ。

「あああああああっ!?

 な、なんだよこれっ!?

 いでぇ、見えねぇっ!」

「え、ナイフだよ」

 澄田さんはズレた回答をしながら、微笑んで高橋の喉を切り裂いた。

 血が派手に噴き出し、喉の脈動がまるで噴水のように見える。

「掃除大変なんだけどな」

 眉を顰めて、澄田さんは高橋の心臓をさくさくと突き刺した。

  高橋の大きな身体がぶるりと震えて、動かなくなる。


 澄田さんが私を見た。

 むせかえる様な夏の匂いは血の香りに塗りつぶされている。

「逃げないの?死んじゃうよ?」

 確かに。

 どうして私は逃げないんだろう?

「あ、分かった。

 驚いて腰抜けちゃったんでしょ?」

 私はゆっくり首を振る。

「 えー、じゃあ何で?」

 澄田さんは私に顔を近づけて、目を覗き込む。

 眼球を潰すのが好きなのかな。

 痛いのは嫌だけど。

「多分、もうどうでもいいんだと思う。

 生きるとか、死ぬとか」

 澄田さんは目を丸くした。

 それから、何が面白いのかにこにこと笑顔を浮かべて、至近距離で顔を舐め回すように観察してくる。

「な、なに?恥ずかしいんだけど……」

「ね、名前なんて言うの?」 

「岸朋子だけど」

「朋子ね!私は澄田なぎさ。

 なぎさって呼んでね」

「え」

「人の捌き方教えてあげるからね。

 ほら、死体運ぶの手伝って」

 なんだかおかしなことになってきた。

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