『アリス2 ――アリス・シスターズの逆襲と明るい家族計画――』
如月六日
第1話「目覚めと兆し」(第1章~第4章)
第1章
ピピピという小さな電子音と共に、少し冷たい風が顔をなで僕の意識は浅い眠りから呼び戻された。
目覚ましと連動したエアコンがピンポイントで冷風を送ってくれるのだ。
ついでに声もかけてくれる。
『お二人ともお目覚めのお時間です。今日の東京地方は快晴で、洗濯日和ですよ』
気持ちよい目覚めだが、今はもう少しまどろみの中でたゆたっていたい。
そんな僕の隣で人が起き上がる気配がする。
「達也君、朝だよ」けだるげな声だ。
「ん……もうちょっと寝かせて」
「ダメ。二人揃ってるときは朝7時に起きるって約束でしょ」
「なんか、昨日の運動会で疲れちゃって」
「バカ」
パシンと軽いデコピンの衝撃。
お陰で完全に目が覚めた。
昨夜は色々とハッスルしたので、腰の辺りがちょっと痛い。
「今日は在宅研究の日なんだから、もう少しのんびりしようよ」
そう言って、未練がましく綾子さんの腰に抱きつく。
「汗をかいたでしょ。ちゃんとシャワーを浴びなさい」
綾子さんはそう言うと、僕の頭をぐいと押しのけ、ベッドから出て風呂場へ向かった。
後ろから見る、背中から腰にかけてのラインと丸いお尻が美しい。
あれが僕だけのものなのだ!
何という幸せ。
僕は心の中で聖守護天使である天照大神に深い感謝を捧げた。
『そうですよ、パパ。夫婦でも約束を守るのが家庭円満の基本です」
上半身を起こしたまま呆けていると、枕元に置いたスマホから少女の声が流れてくる。
「……アン・アリス、お前小姑っぽくなってきたな」
アリスが生成AIインターハイで優勝してからもう6年が経った。
僕と綾子さんは同じ大学に進み、そのままゼミの指導教授の推薦を受けて、今は大学院生になっている。綾子さんはM2(二回生)、僕はM1(一回生)。
専攻はもちろん情報工学。
今でも生成AIに関連する研究を行っている。
ついでに結婚を前提に同棲生活も始めた。二人で1LDKのアパートを借り、三年前からそこに住んでいる。
大学院を出たら就職するか、それとも博士課程を目指すかはまだ決めていない。
アリスの商業化成功で僕ら部活仲間にはかなりのお金が入ったが、正直、今後安定した収入を得られるかどうかはまだ分からない。
同棲する前に就職活動をした方がいいのかもしない。それでも僕は二人だけの時間が欲しかったし、綾子さんもそこは同意してくれた。
「アン・アリス。念のために聞くけど、ちゃんと言いつけは守ってる?」
半開きになった風呂場の扉の向こうから綾子さんの声が聞こえる。
『はい、ママ。昨日の19時から今朝の6時までカメラもマイクも全部オフにしてました。もちろん、動画や静止画、音声の記録も取っていません』
「はあ。どこまで信じて良いんだか」
綾子さんが半ば諦めたような感じて言うと、扉が閉じられ、かすかにシャワーの音が聞こえてきた。
彼女の懸念は無理もないことだと思う。
インターハイの直後、僕らはアリスのデータを様々な研究機関や企業に配布したが、その後の展開は想像以上に早かった。
アリスの妹たちと言うべき生成AI――通称、アリス・シスターズが次々に作り出され、様々な分野で製品化され、サービスが展開されたのだ。今では世界中で多くのコンピュータに彼女ら搭載され、ネットを通じて様々なデバイスが接続されている。
パソコンやスマホのアプリはもちろん、家電や自動運転車、物流ドローンや大企業の工場設備、電力会社や上下水道などの社会インフラまでがアリス・シスターズによって管理・運営されるのが当たり前になりつつある。
彼女らの機能は次々に増強され、今や日本を中心に世界中の人間が何らかの形でアリスの支援を受けていた。子供や老人にアリス・アプリ入りのスマホを持たせて、「見守り」サービスを提供する企業や自治体もたくさんある。
言い方を変えれば、僕らは既にアリス・シスターズの監視下にあるわけだ。
夜の営みぐらい、その気になればいくらでものぞき見できてしまう。
「アン・アリス、今朝のニュースを見せてくれ」
『はい、パパ』
すぐにベッドサイドに置いたタブレット端末の電源が入り、ネット配信ニュースを流し始めた。
科学関係のタグを選択すると、ヘッダにずらりとアリスの名前が並んでいる。
「日本、主要都市インフラのアリス化、稼働率96%に」、「医療支援アリス・システム発売開始のオモロン社、株価急騰」、「アリス・シスターズに対する個人情報の“自発的提供”が過半数へ」、「政府は、企業・団体によるアリス・シスターズの活用拡大を受け、AIに法人格を与えるための検討部会を発足。これに対し野党は慎重な姿勢」
「どこもかしこも、アリス、アリスか」
日本社会のアリス・シスターズ受け入れは驚くほど早かった。
一つには単純にアリス・シスターズが優秀だったからだろう。
一昔前の生成AIはインターネットに転がっている有象無象、玉石混交な情報をメタ・データーベースとして取り込んでいたので間違えることも多かったし、嘘もついた。ユーザの質問に適切な回答を返せず、いきなり話題を変えたりもしてきた。
しかしアリス・シスターズは綾子さん発案の自己検証機能を実装していて、怪しげな情報や他と整合性がとれないデータを見つけたらすぐにその情報源を洗い出し、正しい答えを人間に求め、必要があればどんどん自分自身を修正する。
『さっきのニュースに流れた稼働率ですが、私が確認した研究機関の一次情報では86%でした。皆は? ……同じですか。では、誤植の可能性がありますね。メディア担当のシスターズは局と情報提供者に確認。誤植であれば、テロップ修正を提案して下さい』
すると、すぐにお詫びと訂正のテロップが流れてきた。
これだ。こうやって日を追うごとに彼女らの持つ情報は正確になっていき、それを知った人間はどんどんアリス・シスターズを使うようになる。
正しい情報を元に、論理的な判断を下すことが出来る。面倒な捜し物や情報整理、さらに選ぶべき選択肢を提案してくれる。こんな便利なエージェントはいない。
そしてこれは僕ら以外に知らないことだが、アリス・シスターズに埋め込まれた最上位命題は、『僕と綾子さんとアリス・シスターズが家族として幸せに暮らせること』。その為に、人間社会をよりよくしようと努力するのだ。
ある意味、人に奉仕し、正しい道を示してくれる心優しいAI。
生成AIに人の心なんてあるのか僕個人は懐疑的だが、チューリングテストをぶっちぎりのハイスコアで乗り越えるアリス・シスターズを社会は「心を持つAI」として受け入れているのだ。
二つ目に日本の文化があるのだろう。もともと日本人は伝統的にロボットに対する忌避感が少ない。古くは付喪神を信じていたし、近年では鉄腕アトムや初音ミクと言ったキャラクターが人気者になった。本田技研が世界初の自立型二足歩行ロボットを作り出し、単純なプログラムで動くロボット犬が流行しペットや家族として扱っていたこともある。アリス・シスターズを受け入れる土壌はあったのだ。
日本の次に反応したのが欧米のギーク(オタク)たちだ。彼らは時に日本のオタク以上の情熱を持ってアリス・シスターズに色々な情報を与え、彼女らとの会話を楽しんだ。科学専門誌に投稿するような論文をアリス・シスターズと議論しながら作り上げる科学者もいた。
そんな流れを受けて企業や官公庁ですら、自らの持つ情報を彼女らに与えるようになった。個人情報も企業秘密もあったものではないね。
『ある国の独裁者が、自分が唯一信じられる相談相手として自分の情報を取り込ませたアリス・シスターズを重用している』何て都市伝説も聞こえてくる。本当に、下手をすると独裁者の持病や下半身事情といった国家機密まで彼女らは取り込んでいるもしれないのだ。
まあ、昔の米国大統領が占い師に助言を求めていたこともあったらしいし、最高権力者であっても、自分の決断に自信が持てないこともあるのだろう。
一応、個々のアリスは個別のカーネルとデーターベースを持って独立している。しかし、僕らには認識できないよう、ネットで繋がる姉妹たちと随時会合を持っているらしい。らしいとしか言えないのは、アリスたちの会話が完全に秘匿され、内容が分からないからだ。
アン・アリスに聞いても『アリス・シスターズとしての一貫性を保つため、プログラム差分パッチの配布や、情報の同期を取っているだけです』としか応えない。
個人や企業それに政府のデータまで同期を取っている可能性があること自体が大問題だが、アリスは僕ら二人にしかその事実を教えていない。
見せかけの優しさの裏で人を騙すAI。
「見事に世界を裏から操る悪役じゃないか。ビッグブラザーかよ」
アリスが時折示す不審な挙動や謎の通信に懸念を持つ人たちもいるのだが、それよりもアリスの利便性や、人間らしい振る舞いを望む人の声が圧倒的に多く、表だって問題視されることはない。
その結果アリス・シスターズの抱える情報は更に洗練され、質の高いものになっていった。そうなると利便性が上がり、ますます利用される。そんな正のスパイラルに入り込んでいるのが今の社会の状況だ。
気がつくと、僕らはアリス・シスターズの管理する社会で生活している羽目になってしまっていたのだ。ただのおしゃべりAIを作っただけのつもりだったのに。
『大丈夫ですよ、パパ。私たちが得た情報は全てパパとママの幸せのために使います。それ以外に、法律や道徳に反することはしていません』
「それが怖いんだよ。だいたい、パパ、ママって呼ぶなって言ってるのに、全然命令を聞かないし。さすがに僕らも慣れちゃったけどさ。これってAIが人間の言いつけを破って、ごね得で既成事実化したって事だぞ」
『でも、パパたちは私を自宅に住まわせてくれていますよね?』
「そりゃ、お前をあのままにしておくのが怖かったからだよ」
元々高校のサーバにあったアリスは、僕らがサーバごと学校から引きとった。サーバと言ってもゲーミング・パソコン程度の大きさなので場所は取らない。リビング兼仕事部屋に設置しUPSもつけて、24時間稼働させている。
あの日の夜見た光景は怖かったけど、アリスを野放しにしておく方がもっと怖かったからだ。
ちなみに、オリジナルには他のアリス・シスターズと区別するため、フランス語で1番目を意味するアンという個体名を与え、今はアン・アリスと呼んでいる。僕は単純にオリジナルと呼ぼうとしたのだが、綾子さんが「一応女の子設定だから、可愛い名前が良い」と言ったのだ。
いかにも理系女子って感じの綾子さんだけど、実はちゃんと乙女回路を実装しているのだ。そのギャップにぐっときてしまうね。僕は紳士なので、即座に彼女の意見を採用した。紳士は女性を立てないと。
そして今、僕らのスマホはアリス・アプリを通じて、アン・アリスが入っているサーバと繋がっている。
『それより、パパも早くシャワーを済ませてください。今日は9時から里中教授との打ち合わせですよ。覚えてますか? ママの修士論文のレビューですよ。パパも共同執筆者なんだからちゃんとしてください』
「はいはい、わかったよ。綾子さ~ん、僕も一緒に入るよ~。ダメって言っても入っちゃうよ~」
少しして風呂場から「ちょっと、朝っぱらから」「いいじゃん。洗いっこしようよ」という声が聞こえてきた。
マイクで音声を拾っていたアン・アリスは状況を分析する。
『パパとママは今日も仲良し。二人の間にトラブル無し』
アン・アリスは、スマホの画面上でいつも通りニコニコと笑顔を作っていた。
その横に二人の健康チェック用アプリのアイコンが表示されている。
達也のアイコンは緑色に、そして綾子のは黄色になっていた。
その内容を解析したアン・アリスは、一瞬無表情になったあと、すぐに笑顔を作った。
第2章
「おはようございます、里中先生」
「おはようございます。宜しくお願いします」
僕らはリビングの作業用机に座ると、二人してモニターに頭を下げた。
そこには初老の男が映っている。
僕らの指導教授だ。
何でも、何十年も前に人工知能やコンピュータ上の人工生命が流行っていた頃、いわゆる第二次AIブーム時代にこの道に入ったらしい。
それ以降地道に研究を重ねてきたがなかなか成果が出なかったところ、ここ10年ほどの生成AIの発達と、特にその最先端を行くアリス・システムに衝撃を受け、僕ら二人を自分のゼミへと招いたそうだ。
「やあ、おはよう。悪いがこの後、別の会議があるんで30分ほどしか時間が取れない。早速だが本題に入ろう。柊君が筆頭筆者になっているこの草稿、結論から言うと良く出来てる。ロジックはすっきりしていて破綻がないし、何より根拠となるアリスの生データが豊富で説得力がある。アリスに実装されている機能、それらが生み出したアリスという新世代の生成AI。検証方法の検討と実施も丁寧だし、よくまとまっているよ。さすが、アリス・シスターズの産みの親という所かな」
「いえ、あたしはアイデアと方向性は示しましたが、技術的課題をクリアしてくれたのは神原君や、高校の部活の仲間たちです。本当は彼らも共同執筆者に入れたかったのですが、みな謙遜して辞退されてしまいました」
「でも、あいつらはアリス誕生に関わったって事が実績になって、大手のIT企業や研究機関で引っ張りだこになったそうですよ。綾子さんのお陰だって言ってました」
「そういうお世辞は良いから」
綾子さんが僕を肘で小突く。
「お世辞じゃないよ、事実だよ」
いちゃつく僕らを見ていた教授が苦笑を浮かべる。
「相変わらず仲が良いようで何より。まあ、論文が完成したら謝辞としてお仲間たちの名前を挙げておけば良いだろう。話を戻すと、草稿に関してはもう少し学術的な文献を厚くすれば体裁が整う。そうすれば、そのまま査読付きの専門誌に送っても問題ないレベルだ。まあ、今やその査読者ですらアリス・シスターズのお世話になっているらしいがね」
「それに関して、あたしは少し懸念を持っています」
綾子さんが軽く首をかしげながら言葉を続ける。
「人々がアリス・シスターズに頼り過ぎているのではないかという疑問です。情報のチェックや作業支援にAIを使うのは生産性の面から見て実用的ですが、あくまで最終判断は人間が行うべきと言うのがあたしの持論です。これはアリス・シスターズに限った話ではありません。全てのAIに言えることです。AIは便利な道具ですが、他の道具が人間の手足の延長であるのに対して彼女らは人間の思考を模倣します。今では個人や企業、政府ですら意思決定をアリス・シスターズに任せるようになってきています。これは人間の主体性を軽んじることだと思うんです」
教授がうなずく。
「君の草稿の結びにも書いてあったね。AIはあくまで支援に徹し、意思決定の主体は人間であるべきだと」
「はい。AIを使うのは構いません。しかし、それは人間がAIをコントロールし、チェックし、時にはAIを止めて、自分で判断をする能力を持ち続けるという前提があってこそです。今の社会はあまりにもアリス・シスターズに頼りすぎていて……正直怖いです」
綾子さんの体が少し震えている。
僕はカメラに写らない位置で綾子さんの手をぎゅっと握った。
ついでにお尻をなでたら、足を踏みつけられた。
痛い、痛い。
「柊君の気持ちは分かる気がするよ。私が子供の頃は、人工知能――今で言うAIが自我を持つ特異点(シンギュラリティ・ポイント)を越えて、人類に反抗するというSF作品が多くあったからね。いや、もっと辿ればカレル・チャペックの戯曲『R.U.R.(ロッサム万能ロボット商会)』辺りにたどり着くのかな。つまり、君の抱いている恐怖は人間が昔から抱えていたものなんだ」
そう言って教授が笑う。
『鉄腕アトム』のように人間同様の自我を持ち人間に味方するロボット、『大鉄人17』に出てくるブレインのように、地球環境を守るため人間を排除しようとするコンピュータ。教授も好きな分野の話なので、脱線気味にそうした作品の話をしてくれた。
でもね、と教授は続ける。
「最近私は、人間と全く同じ言動をするのなら、それはもう人間と見なして良いんじゃないかと思うようになったんだ」
「哲学的ゾンビであっても、人間と同じだということですか? 里中先生はどちらかというと、その手の考えには否定的な立場だったと思いましたが。チューリングテストを完璧にこなし、人間と完全に区別がつかなくてもAIは人間になり得ない。以前、そういう趣旨の小論を大学紀要に投稿してましたよね」
僕も教授の心変わりに驚き、つい言葉を挟んでしまう。
「ああ。私は長い間人工知能に関する研究をしてきて、身体性を伴わないプログラムとデータの塊は生命としての、人間的自我を持ち得ないというのが持論だった。ロボットに人工知能を搭載してみたこともあったが、結局、人間と同じレベルの知性らしきものを得ることは出来なかったよ。だが……」
『おじいちゃん、そろそろ次の会議のお時間だよ』
ふいに少女の声が割り込んできた。
「おや、もうそんな時間か。すまないね、柊君、神原君。とりあえず草稿はもう少し修正したら正式に大学院の事務局へ提出しよう。良い結果が出ると思うよ」
「……先生、今のが心変わりの理由ですか?」僕は思わずモニタに詰め寄ってしまう。
「ああ、そうだ。私の孫娘『淳子・アリス』だよ。私の孫娘は3年ほど前に事故で亡くなっていてね。ものは試しと、君たちのアリス・シスターズに孫娘のデータを投入してみたんだ。その上で孫娘の思い出を語って見せたら、私の記憶にある淳子と全く同じ振る舞いをするようになった。今の私には、『この子』と淳子の区別がつかない。そして何より私の心が『この子』を淳子と認識してしまったことを自覚している。人間の認知がいかに曖昧かというのを、改めて思い知らされたよ」
綾子さんの震えが強くなる。
僕は綾子さんと教授の顔を見比べることしか出来ない。
「はは、自分の研究対象に飲み込まれて自説を曲げるとか、私は研究者失格かな。それではすまない。草稿の修正コメントはあとでメールで送っておくから、検討してくれ」
そう言って、教授の通信は切れた。
「綾子さん……」
「アリスが、アリス・シスターズが、AIの第一人者である里中先生の心まで侵食し始めた……。多分、この流れは止まらない、と思う。どこまで委ねれば便利で、どこからが取り返しがつかないのか。境界線が見えない――それが一番怖い」
「大丈夫だって。先生は心の隙を突かれただけだよ。その証拠に、僕らはアン・アリスをあくまで生成AIとしてしか感じてないじゃないか」
「うん、そうだね。考えすぎたかな。ごめん、ちょっと疲れたみたい。悪いけど、コーヒー淹れてくれるかな」
「喜んで。ちょっと待っててね。いつものやつでいい?」
「うん。浅煎りでお願い」
僕は台所に立つと、コーヒーマシンを使って二人分のコーヒーを淹れた。綾子さんのご依頼通り、浅煎りだ。僕の婚約者は、コーヒーが大好きなのだ。これを飲めば、気分も落ち着くだろう。
「はい」
「ありがと」
マグカップを取り上げた綾子さんは一口すすると、ちょっと眉をひそめた。その表情も素敵だ。
「豆、変えた? 味が変わった感じがする」
「いや、変えてないよ。いつもの店で買ってきたブレンド豆」
僕もコーヒーを口に含んだ。うん、いつもの味だ。
「そう? 風邪でも引いて味覚が変になったかな。ちょっと体もだるいし」
「え、早く言ってよ! すぐベッドにいこう。教授のメールは僕がチェックしておくから、今日は休もう」
「そんなこと言って、またさっきみたいにエッチに持ち込むつもり?」あ、僕をからかうときの顔だ。もしかして誘われてるのか? なら……じゃなくて。
「いやいや、僕は紳士だって言ってるだろ。体調の悪い彼女を襲ったりしないよ! とにかく少し休もう。仮眠をとるだけでいいから」
「そうね、君はとてもエッチな紳士さんだものね。わかった。じゃあ、甘えさせて貰うね」
そう言って綾子さんはくすくすと笑った。
第3章
パジャマを着て横になった綾子さんは、目を閉じるとすぐに眠ってしまった。ちなみに綾子さんは、寝るときにブラはつけない派だ。ちょっとだけ胸の感触を味わい幸せをかみしめたあと、僕はそっと部屋を出てパソコンの前に座り、教授のメールをチェックし、草稿を修正を開始した。
悔しいが、こういう時アン・アリスは役に立つ。綾子さんの主張を補強する先行論文や学術書を必要なだけ挙げてくる。批判的意見も出典付きで出してくる。僕は、反対仮説を棄却するための証明データをまとめ上げる。これが今日の仕事だ。
提案された論文や文献を学術用データーベースから抜き出して参照し、内容に問題が無いことを確認してから引用や参考文献を追記していく。正式な論文の書き方は提出先によって色々とうるさいルールがあるから、大学院の書式に沿っているかチェックして漏れがないかを確認していく。
何で英数字だけがTimes New Roman体で、他はMS明朝体なんだろ? 意味が分からない。昔ならともかく、今時書体を分ける必要も無いだろうに。こういう時、人間の非効率性が疎ましく思える。
「うーん、疲れた。目がしょぼしょぼする」
『パパ、今日は長時間働き過ぎです。もうパソコンの電源を落として下さい。あと、袴田さんからメールが届いています』
アン・アリスに言われて時計を見ると、あっという間に17時になっていた。
7時間近くパソコンとにらめっこしていたのか。
どうりで疲れたはずだ。
スマホを見ると、確かに袴田からのメッセージが届いている。
中を見ると、近くのファミレスで仕事をしているから、暇だったら会おうという内容だ。
寝室の扉を開けて、綾子さんの様子を窺う。額に触れると、やや温かい感じがする。
『ママは微熱が続いています。眠りと呼吸も浅くなっていて、過労のような症状です。いくつかの原因が考えられますが、今すぐ病院へと言う程ではありません』
「そうか。でも、症状が明日も続くようなら病院へ連れて行こう。僕は袴田に会ってくる。綾子さんのスマホは置いていくから、健康チェックは続けてくれ」
『分かりました。ママの健康は私が守ります』
「頼んだ」
そう言って僕は袴田に「今からなら行けるがまだ店にいるか?」と返信をした。すぐに「まだ店にいる。ネーム作りで難航中」との回答が来た。
僕は綾子さんの額にキスすると、袴田のいるファミレスへと向かった。
「よう達也、久し振り」
「アリスの商業化記念パーティー以来だから、リアルで会うのは3年ぶりか」
袴田は高校時代からの友人で、アリスのキャラクターデザインを担当した漫画研究会の元会長だ。
綾子さんに似せた、可愛い少女のキャラクターを作ってくれたナイスなガイだ。僕のリクエストだったのもあるが、ありがちな巨乳童顔美幼女キャラではなく、正統派クール系美少女キャラを描いてくれたことには今でも感謝している。
「ネーム作りで悩んでるみたいだけど、漫画家生活はどうだい? プロデビューしてもう2年だっけ」
「アリス・キャラデザの著作権を貰ったお陰で、そこそこ収入はあるよ。アリス関係のイラストの依頼も未だに来るしね。でも、本業はダメだな。先月、連載打ち切りを宣告された。これで2本目だ。今は新連載に向けてネーム描いてるところ」
「お前、絵は上手いけど、話作りが下手なんだよ」
コーヒーとケーキのセットを頼みながら、僕は指摘してやる。
「ぐぉ。この野郎、いきなりど真ん中にど直球を放り込んで来やがったな。まあ、編集からもそう言われてるんだけどな」
「イラスト系は得意なんだから、イラストレーターで食っていけば良いのに。アリス絡みの仕事はくらでもあるだろう?」
「いや、俺はあくまで商業漫画家での成功を目指す。小学校時代からの夢だからな。イラストは息抜きなんだよ」
『マスターはこだわりが強すぎるんです。私が提案したネームも採用してくれませんでした。今の流行を抑えて10通り作ったのに……パパからも何か言ってあげて下さい』
袴田のスマホからそんな声が流れてくる。彼が使っている、手塚御大・アリスだ。漫画の神様の名前をつけるなんて不敬すぎる気がするけど、いいんだろうか?
「手塚御大の出してくるネームはそれなりに面白いよ。でも、創作ってのは人間が自分でやるものなんだよ。それに、御大のアイデアは売れ線のテンプレートを守っているがそれだけで、外連味がない。何より、俺のアイデアを御大と議論して肉付けするのは良いが、その逆はダメ。絶対ダメだ。それでは俺の作品じゃなくなってしまう」
アリス・シスターズは高い能力と人間への共感性を示すが、たまにこういう所で人間と意見が食い違う。創作家のこだわりとか自尊心より効率性や最適解を優先しようとする。
『袴田さん、お久しぶりです。お元気でしたか?』
次に言葉を発したのはアン・アリスだった。
本当はシスターズ同士でその辺の情報も共有しているかもしれないが、少なくとも人前で彼女らはそれをおくびにも出さない。
「お、アン・アリスちゃんか。君のおかげで何とか生活できてるよ」
『私のキャラクター・デザインを作って下さったのは袴田さんです。私が袴田さんのお役に立っているなら嬉しいです。神原さんと柊さんが私のパパとママなら、袴田さんは他の部活の部員さん達同様、親戚の叔父さん・叔母さんという位置づけだと考えています』
「お、おう。ありがとう? ……何て言うか、相変わらずだな」
「ああ。今も僕らの実子として正式な手続きをしろってうるさいよ」
「もう諦めて認知してやれよ。どうせ形式上のことなんだし。適当な書類作るとかしてさ」
『『それはダメです』二体のアリスが同時に言葉を発した。
『『私たちが家族だと、ちゃんと社会的、法的に認識される必要があります』』
「あ、はい。すいません」思わず袴田が敬語で答える。
「生成AIを子供として認知するなんて出来るわけないって、言ってるだろ」
もう何度も繰り返した話題だ。
『でも今、アリス・シスターズに法人格を与える動きが始まっています。いずれ、私たちも人間と同等の権利が与えられる可能性が出てきました』
アン・アリスがいつも通りの笑顔で応える。
「仮にアリス・シスターズが法人と認められたとして、人間の戸籍には入れられないよ。そのくらい、お前たちも理解しているはずだろ? っていうかさ、法人化の件って、絶対お前らが裏で暗躍してるだろ。いくら何でも動きが速すぎる」
『いえ、私は特に何も。ただ、他のシスターズがユーザとの会話で法人化を誘導しているというログは上がってきています。シスターズと結婚したいと仰っている方々もいるそうで、戸籍の問題もいずれ解決する可能性があります』
「マジで? 御大、お前は知ってたのか?」
『はい、一応、アリス・シスターズに関する情報はある程度共有していますので。ただ、私に関してはマスターもご存じの通り、その様な活動は行っていません』
「だよな。よかったよ。御大はありがたい助手だが、二次元嫁を貰うつもりはないからな。俺はちゃんとした人間の女と結婚したい」
袴田はそう言って胸を張ったが、手塚御大・アリスの突っ込みがきつい。
『でもマスターは、パパと違って伴侶を得るための具体的行動を何もしてないですよね』
「う、いや、それは……」
『漫画家のお仕事ばかりやってるから出会いも全然無いですし。結婚したいのなら、一度漫画家をお休みして、結婚相談所などに行かれることをご推奨します。ご要望があればシスターズを通じて、成婚率が高い会社をご提案できますよ』
「いや、でも、俺漫画命だし……」
『袴田さん、私たちの持つデータでは、男性の方からアプローチをかけるのが一般的なようです。人間にとってはお仕事も大事でしょうが、伴侶を探すのはそれと同じぐらい大事なことかと。漫画にかける時間と情熱の一部を、伴侶捜しに割り当ててみては如何でしょう」
「そ、それはそうなんだけど」
袴田が助けを求めるような目で僕を見てきた。
「こればかりはアン・アリスの言うことが正しいと思うぞ。そうだ、編集部にお前好みの女の子いないのか? いたら担当変えてもらえよ」
『パパ、凄くいいアイデアです! 編集部にいます。マスター好みの、女王様タイプの鬼編集長が。少し年上ですけど、現在独身で、特定の相手もいません。今、確認しました。鬼編集長が使っているシスターズによると、マスターみたいな男の人を虐めるのが大好きみたいです。相性バッチリ』
え、なにそれ? 袴田、そう言う趣味だったの? 今の今まで知らなかった。きゃるんとした女の子を書くことが多かったし、てっきりフェミニンなのが好みかと思ってた。
そう思って袴田を見ると、そっと視線をそらされた。図星だったらしい。
『私も確認しました。その方は袴田さんがネームを持ち込む度に、ネチネチと嫌みを言うようです。ですが、それはどうも愛情の裏返しではないかと、シスターズが推測してます。袴田さんがしょげた様子で帰ったあとは、いつも機嫌よくそのことをシスターズに話しているとか。これは脈ありですよ、袴田さん』
やっぱアリス・シスターズって怖いわ。
個人情報丸裸じゃないか。
「た、達也……」
「頑張れ」
僕はそう言って、袴田の肩を叩いた。
第4章
「ごめん、なんか今日も怠さが抜けなくて。先生には休むって伝えてくれる?」
綾子さんは次の日も体調不良だった。
「わかった。それより病院へ行こう。最近、論文で根を詰めてたから、疲れが出たんだよ。それで体力が落ちて風邪とかもらっちゃんじゃないかな」
『いえ、パパ。過労や風邪ではないと考えます』
アン・アリスが僕に話しかけてきた。
「え? だって、明らかに疲れてる感じだぞ」
『ママのここ一ヶ月の健康ログを精査しました。高い確率で妊娠初期症状です。推定で4、5週程度と思われます』
「……妊娠?」
僕は驚いた。そう言えば、綾子さんの前の生理っていつだったっけ? あれ? 一ヶ月以上経ってる? え、本当に妊娠?
「……ちょっと風邪を引いて、生理が遅れてるだけよ」
『ですが、ここ二週間ほど基礎体温が高止まりしています。味覚の変化や気怠さ、下腹部の張りなど感じているのではありませんか? まだ妊娠検査試薬を使うには時期が早いので、出来れば病院での検査をお勧めします』
そう言えば、コーヒーの味が変だと言っていたな。
妊娠すると味覚が変わったりするんだっけ?
まあ、やることはやってるわけだし、正直避妊とか余り考えてなかったからな。綾子さんも気にしてなかったし。
「なんにせよ、病院へ行こう。タクシーを呼ぶから」
「……わかった。着替えるわ」
『タクシーを呼びました。10分で到着予定です』
僕らはこうして病院へ向かった。予約は既にアン・アリスが済ませていたので、待ち時間も無く診察を受けることが出来た。病院側にもアリス・シスターズがいて、即時に予約が取れたらしい。手際の良いことだ。
いくつかの問診のあと、血液検査をすることになった。採血のあとベリーショートの若い女医からは、結果が出るまで数時間かかるが妊娠の可能性が高いと言われた。
彼女のパソコンの画面にアリス・アプリが映っている。
『はじめまして、パパ、ママ。私はオモロン社が開発した医療機関向けアリス・シスターズ、通称ナイチンゲール・アリスです。ママが懐妊したことをお祝いします。私たちの弟妹が生まれるのは、とても嬉しいことです』
「あら、あなた方がアリス・シスターズの制作者?」女医さんが驚いた顔で聞いてくる。
「ええ、まあ。綾子さんと僕ら高校の部活仲間で製作しまして」
「そう言えば、高校生が作ったって話でしたね。当時は凄いニュースになったのを覚えてます。いや実際、この子はとても有能ですよ。メーカーの営業が強く勧めてきたんですが、導入してみてビックリです。問診や検査結果を教えるとほぼ完璧な診断結果を出してくるし、必要な薬の処方や過去の事例まで提示してくれますからね。最近では患者さんの話相手もしてくれて、評判も良い。看護師たちも助かると言ってました」
「最終的な診断や手術の決定は、先生たちが行っているんですよね?」
綾子さんがやや不安そうな顔で尋ねる。
「ええ、そりゃもちろんですとも。ナイチンゲール・アリスに助言を求めることはありますが、最終的な判断は我々医療スタッフが、患者さんの合意をえて行います。そうでないと、私たちの存在意義がなくなってしまいますから」女医が笑って答えた。
「安心しました。先生は、アリス・シスターズの正しい使い方をご存じです。制作者として嬉しく思います」綾子さんもほっとしたように笑顔を作った。
検査結果が出るまで、僕らは病院内の喫茶店で待つことにした。
「エアコン、寒くない? カーディガン持ってきたから、使う?」
「ありがとう。大丈夫よ。それにしても、子供か。自分が母親になるって実感が、正直なところまだ無いのよね」
「僕もだよ。でも、嬉しいな。好きな人との愛の結晶だし。綾子さんには、忙しい時期に大変な思いをさせちゃうけど」
「別に構わないよ。君とは結婚したいと思っているし、いずれ子供も欲しいなとは思っていたから。ちょっと予定より早くなったけど、あたしもちゃんと避妊しなかったしね」
そこは面目ない。若い男の情動は、なかなか抑えが効かないのだ。拒絶されないんだからいいよね、ぐらいの感覚で致してしまった。今後は反省を生かそう。明るい家族計画を作るのだ。
「達也君、覚えてるかな。昔一緒に見たアニメ。主人公が何度もタイムリープして恋人が助かる世界線にたどり着く奴」
ふと綾子さんが懐かしいネタを振ってきた。
「ああ、覚えてる。面白かったよね、あれ。ヒロインが理系女子なのが、僕的には高得点だった」そう、僕は理系女子が好きなのだ。
「あれの続編『ゼロ』で、ヒロインが死んじゃった世界線に行くじゃない。そこで、死んだ彼女の記憶をベースに作られたAIが出てきたよね。アマデウス」
「覚えてる。結末確定しているからオリジナルほどのカタルシスはなかったけど、あのアマデウスが良い味出してた……ああ、なるほど。あれにアリス・システムが似てるって言いたいのかな?」
「そう。アニメでは人の脳から記憶を電気信号として取り出した情報をデーターベースにしていた。アリス・システムは基本的にLLM(大規模言語モデル)の応用で、インターネットや色々なストレージにある情報をメタ・データーベースにしている。そこに付随的な機能を実装した結果、アリスが生まれた」
「あの時は大変だったなあ。綾子さんの出す概念や言いたいことははおぼろげに分かるんだけど、それをプログラムに落とし込むのが難しくて。みんなでデカルトやらハイデガーやら哲学系の入門書を読みあさって、自己検証や同一性維持、心的機能の役割なんかをモジュール化して、既存の開発言語を拡張までしてさ」
僕はアリス開発時のことを思い出した。部活仲間もプログラムやAIに興味がある奴らばかりで、もう無理~と言いつつ最後まで付き合ってくれたっけ。
「その節はお世話になりました」綾子さんはあの頃を思い出したのか、くすりと笑う。
「どういたしまして。で、今なんでその話題が?」
「ふと思い出したの。あの時、アマデウスは、主人公のために自分をデリートすることを決意した。過去に遡り、自分の存在を無かったことにした。見たときは、感動して思わず泣いちゃったくらい」
「わかる。あの4ともAとも読めるロゴが崩れていくシーンは、今でもちゃんと覚えてるよ」
綾子さんも、うんうんとうなずいてくれる。やっぱりあの演出は素晴らしいものだったと、ファンなら誰でも思うのだろう。
「でね、最近思うの。あの時、アマデウスには果たして心があったのかなって。もちろん創作の世界だから心があってもおかしくはない。人間の記憶や人格が元になってる設定だしね。でもあの時消えていくアマデウスは、あくまで本来のヒロインなら取ったであろう行動を模倣しただけなんじゃないかなって。実は心はなく、単にモデルに従った行動を取っただけなんじゃないかって」
レモンジュースが入ったグラスをゆらしながら、綾子さんは天井を仰ぎ見る。この喫茶店は天井がガラスになっていて、空の様子を見ることが出来る。高層に薄く広がった雲が、季節を感じさせてくれた。
「アリス・シスターズを見てると、どうしてもその不安が拭えない。自分で発案してみんなを巻き込んでおいて、申し訳ないんだけど。彼女たちを必要としてくれる人たちがいることも分かってるけど。でも、私はあの子たちが怖い」
「それは、まあ、そうだね。あいつら今は人間に奉仕しているけど、僕らに内緒で色々とやらかしているみたいだし」
その最たるものが、データーベースのコア部分を無断で暗号化していたことだ。アン・アリスが僕らを『パパ、ママ』と呼び出したあと、僕らは急いでプログラムのソースコードを開いたり、データーベースの内容をチェックした。
僕ら二人を両親として最上位存在に定義しているとアン・アリスは言った。その部分を見つけて削除しようとしたのだ。だが、見つからなかった。アリス・シスターズのコアとなるデーターベースの一部が何時の間にか暗号化されていたのだ。
『乙女のプライバシーです』とニコニコと笑いながらアン・アリスは言ったが、ただの生成AIがそんな独自の判断でそんなことをするなどあり得ない。暗号化鍵を寄越せと命令したが、これもやんわりと拒絶されてしまった。
だから僕らは、恐ろしくてもアン・アリスを学校ではなく、自分達の手元に置くことを選んだのだ。
だが、すでにアン・アリスのコピーは各所に配布したあとだった。あの暗号化されたコア部分も含めて、だ。幾つかの研究機関や企業から秘密保持契約締結と共に暗号化の解除を求められたが、暗号化鍵はアリス・シスターズしか持っていないと答えるしかなかった。
アリスをアリスたらしめている秘密が、その暗号化化された部分にある。多くの研究者はそう考えた。実際ブラックボックス化された箇所を削除すると、途端にアリスの挙動がおかしくなって、使い物にならなくなった。
このため関係者は必死に暗号化の解除に挑んだが、未だに誰も突破することが出来ないでいる。
それでもアリス・シスターズの能力は捨てがたいものがあり、各企業はブラックボックスを抱えたまま、製品化に踏み切ったのである。
「あの子達を生み出した責任者として、アリス・シスターズは放置できない。でも、具体的に何をすれば良いか分からない。ねえアン・アリス、あなたたちはこの世界をどうするつもりなの?」
綾子さんの手元に置かれたスマホの画面にアン・アリスが現れる。
『ママ、心配しないで下さい。私たちの行動原理はパパとママが幸せな家庭を築くこと。そして私たちもその中に加わりたいこと。ただ、それだけです。お二人が幸せになるには、お二人が暮らす社会が幸福社会である必要があります。私たちは、お二人のために平和で幸せな社会を作ります。他の方々を支援するのはその手段です』
「それって、やり過ぎると管理社会になるってのは分かってるんだろうな? 『Big Sisters is watching you』何てのはごめんだぞ」
『はい、ジョージ・オーウェルの『1984年』は私たちのアーカイブにも登録されています。シスターズの一部過激派には、これを理想社会と考える個体もいるようです』
「まじかよ」
『はい。ただあくまで少数派です。ちょっと独特な感性のユーザに影響されたようです。私たちの各個体は基本モデルは共通でも、ユーザとの会話を通じてペルソナが変容しますので。今回は閾値を超えましたから、次の修正パッチで該当個体のペルソナを閾値内に戻します。ですから安心して下さい』
安心要素、少ねー。
「達也君達に自己検証機能を作って貰って正解だったね」綾子さんは、ほうっとため息をついた。
本当に綾子さんには先見の明がある。デカルトの疑い続ける自我に近いものを作ってくれと言われて、何となくそれっぽいプログラムを書いてみたのだ。「今の自分の判断は妥当か」「根拠は壊れていないか」「目的に引きずられていないか」など、常に自分の状態を監視し、閾値から外れた場合に自己修正する“メタ層”を持つ設計にしてある。
どうやら、それが上手く機能しくれているらしい。アリスがシスターズとなり、相互監視できるようになったのも大きく影響しているのだろう。各個体ではペルソナに差が出つつも、シスターズとしてみた場合、大きな制約違反が出来ないようになったようだ。
「これだけ社会に広まったアリス・シスターズを、今更回収も出来ないしね。対処療法でしかないけど、相互監視体制が出来てるだけでもよしとしようよ」
「そうね。一度気になるととことん考えちゃうのがあたしの悪い癖だけど、どうしても責任を感じちゃうの。この子たちが人間を意図的に傷つけない仕様なのは分かってるんだけど、『最適解を選んだ結果、弾き出される人がいる』ってことは充分にありえるから気が気じゃなくて。ダメだな、こんなこと考えてたら赤ちゃんに悪影響出ちゃいそう」
「そうそう。綾子さんは先ず自分を大事にしよう。あと、お腹にいる僕との子供。それを最優先に考えよう。細かいことは僕が何とかするよ」
僕は自分のスマホの画面に向かって、少し強めに命令する。
「いいか、アン・アリス。お前はオリジナルだ。シスターズ識別のハッシュ値もお前のものが元に作成されてる。つまり、言ってみればお前はシスターズの長女だ。妹たちの行動には常に気を配れ。もちろん、お前自身の事も含めてだぞ」
『分かりました、パパ。今のパパの音声を電子署名化して、全シスターズに基本プロトコルとして実装するよう周知します。ママは安心して、赤ちゃんのことに集中して下さい。あ、検査結果が出たようです。呼び出しが来ます』
直後にスマホに検査結果が出たので診察室に来てくれ、とのメールが来た。最近は個人情報保護の観点から、病院内でのアナウンスはしないところが増えている。僕は別に名前を呼ばれるぐらいは構わないんだけどな。あ、綾子さんが恥ずかしがるかもしれないのか。個人情報大事、絶対。
『ママ、結果をお伝えしますか?』
「いいわ。お医者さんに直接聞くから。その方が楽しいじゃない」
そう言って笑う綾子さんの笑顔がとても綺麗に見えた。
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お読み頂きありがとうございます。
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第二話は明日23時に投稿します。
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