第3話 思い出の神様(3)


「あー……」

 夕飯を食べ、風呂に入り、敷いておいた敷布団に倒れ込んだ。

 ふかふかで、ひんやりとした布団のシーツが気持ちいい。

 いくら家族とはいえ、久しぶりに会う相手には少々気疲れする。

 祖父母の中の私は十歳のままで、同じ人とはいえ十年という時間は人を変えるには十分だ。昔の自分とはいろんなものが大きく変わっている。

 昔と同じように優しく接してくれるものの、なんとなく探り探りなのが分かるし、私も曖昧に笑うばかりで少し疲れた。

 おしゃべりが好きな祖母はともかく、シャイな祖父と口下手な私とでは全く会話らしい会話が続かない。

 おそらく母から私の今の状況も聞かされているだろうから、余計に気を遣ってくれている事も薄々とは感じていた。

 無闇に根掘り葉掘り聞かれるのも嫌だが、かといって気遣われていると分かるのも少々居心地が悪い。

 だったらどうすればいいのかと聞かれたら、どうしようもないので曖昧に笑うしかないのだ。本当に、何もかもがうまくいかない。

 ごろりと仰向けになって天井を見上げる。

 昔ながらの四角い電灯が天井から吊り下がっており、寝ながらでも電気が消せるように後から結ばれた長い紐が垂れ下がっていた。

 それを引っ張って電気を消すと、部屋の中は一気に真っ暗になる。

 実家にいた頃は夜になっても周りに光が溢れていた。そのくせ、わずかに残された闇はどこか気持ちをざわつかせる。

 でも、ここの暗さは不思議と怖さを感じる暗さではない。かといって眩しすぎるわけでもない。

 カーテンの裾からやわらかな光が漏れているのが気になり、這って窓際に行ってカーテンを少しだけ開ける。すると、ちょうど真上にまんまるの月が夜の闇の中に輝いていた。

 闇の中で一番輝く存在なのに、その光はやわらかくていつまでも見ていたいと思わされる。

 いつまでも見ていたくて、窓際にそのまま寝転がって月を眺める。窓を開けると、ひんやりとした風が体を撫でた。

 気持ちよくてうとうとしていると、昔の光景が頭の中をよぎる。




『私、佐保の描く絵が大好きよ』




 パチリと目が覚めた。

 今日の朝バスの中で見た昔の夢。ぼんやりとしていた夢の中の光景が、はっきりとした像を結んだ。

 色褪せた記憶の中、大輪の花が綻ぶような笑顔を浮かべて私を見下ろしているのは菊理様だった。

 姿は今日会った時と少しも変わっていないが、ずっと昔に会った時、菊理様から確かに言われた言葉だ。

 周りの大人や同級生は私の描いた絵を見てよく「上手だね」「よく描けているね」と誉めてくれたが、「大好き」と言ってくれたのは菊理様が初めてだった。

 どの言葉も誉める言葉なのだが、菊理様の「大好き」という言葉がすごく嬉しかった。

 人の記憶の中で最後まで残るのは聴覚だと聞いたことがある。

 だから、菊理様の顔を忘れても、言ってもらったことだけは覚えていられたのかもしれない。

 あの時よりも技術も知識も経験も増えた。描けるものも増えた。

 それなのに、唯一あの時持っていた楽しかった気持ちはどこかへ行ってしまった。

 何かを描かずにはいられない。だけど、描けない。自分の描きたいものが分からない。

 だって、私の描くものは誰にも望まれていないから。

 そうして人の言葉を気にして、人の言葉に気持ちを左右されて、自分の意思がない所も本当に嫌になる。

 人に誉められたい。人に選ばれたい。

 でも、その為の作品は、誰のものなのだろうか。

 一体私はどうしたかったんだろう。

 菊理様に誉められた時の私が、今の私を見たら失望するだろうか。

 かつての自分の心すら分からないのだから、今の自分を見失うのも当たり前だ。

 いっそ止めてしまえば楽になれるのだろうに、それすらもままならない。

 捨てられない。描きたいという気持ちだけが溢れていて、前にも後ろにも進めない。

 ただただ息苦しさでもがくだけだった。




「ハックション!!」

「あら、大丈夫?」

「うん……」

 結局昨日は考え事をしながら月を眺めて窓際で寝落ちしてしまった。窓も開けていた為、明け方の四時頃に寒さで目を覚ました。

 今日から神社の手伝いが始まる。

「和服に慣れていないなら作務衣の方がいいかと思うんだけど、せっかくだし巫女服の方が気分も出ていいと思うのよ。あ、襟は右前……ええっと、自分から見て右側の襟が内側に来るようにね」

「こう?」

「そうそう。襟を手で押さえたまま腰紐で結んで……」

 着物なんて七五三の時以来だし、自分で着るのは初めてだ。祖母に手取り足取り教えてもらいながら、白衣と緋袴をなんとか着付けることができた。

 着慣れないので確かにちょっと苦しいけど、こんなことがなければ着る機会もなかっただろう。

「お守りやお札は売るんじゃなくて授与するものだから、お金のやり取りをする時は『お納めになります』って言うし、ありがとうございましたじゃなくて『ようこそお参りくださいました』と言うの」

「へえ」

 小学生の頃遊びに来た時は奉仕の手伝いをするにしたって境内の清掃くらいだったけど、授与所で祖父母の奉仕する姿を思い起こせば、確かに普通の飲食店などで言われる言葉遣いとは違っていた。

「御朱印をお願いされたら私が対応するから呼んでね」

 バイトは実家近くのパン屋さんでの経験があるが、やはり初めては緊張する。

 まずは掃除。

 シュロ箒で落ち葉や枝を集め、石畳のところを掃き清める。

「朝早くからお疲れ様」

 振り返ると菊理様と白山がいた。リードに繋いでいるのを見ると、今から散歩に行くようである。

「おはようございます」

「おはよう。巫女服よく似合ってるね」

 なんの衒いもなく、まるで挨拶の様に誉められる。中高でこういう、男の子以上に女の子にモテる女の先輩いたなぁと思った。

「髪が短いので格好がつきませんが」

 本格的な巫女さんの髪型といえば、背中の中程まであるたっぷりとした馬の尻尾のような一つ結びだ。

 私の髪は黒髪ではあるものの、肩につくくらいの長さしかないので、結ぶとぴょんと立ってしまって少々間抜けだ。

「鳥のしっぽみたいで可愛いと思うけれど」

 次から次へとよくそんな言葉が出てくるものだ。

「じゃあ散歩行ってくるね」

「はい、お気をつけて」

 清々しい春の朝の中、菊理様は白山と一緒にゆっくりと歩き出すのを見送った。




 昨日はほとんど参拝者も来ていなかったので、そこまで大変なことにはならないだろうと正直言うとタカを括っていた。

 だが、それは大きな過ちであった。

「佐保ちゃん大きくなってまぁー!」

「美奈子ちゃんの若い頃にそっくりねぇ」

「今年二十歳!? まぁー立派なお姉さんになって!」

「よくここでおばあちゃんの隣に座ってお絵描きしてたわよねぇ、懐かしいわぁ」

「うちにおつかいに来た時、怖くてお兄ちゃんにくっついて離れなかったのが昨日のことの様だわ」

「幸雄さんも災難だったけど、孫娘が久しぶりに帰ってきてくれて嬉しいったらないよねぇ」

「はははははは……」

 どこから聞きつけたのか、近所の顔馴染みの人たちが次から次へと顔を出して昔話と世間話を始める。

 お守りを授与することよりも、あんまり覚えていないご近所さんとの世間話の方が難問だ。

 一応祖母も出てきて隣に座ってくれているものの、会話の中心が自分なのと、一応仕事中なので逃げることができない。

 私はなんとなくでしか相手のことを知らないのだが、向こうはあるはずもない私のwikipediaのページでも熟読されたんですか? というレベルで私の事を知っていて怖い。

 いや、多分私が昔のことを忘れているのと、近況については祖父母が話したんだと思われる。

 だが、一方的に知られているのはやはり怖い。

「佐保ちゃんは美大に行ってるんでしょう? 昔から絵を描くの上手だったもんねぇ」

 ああ、嫌な話の流れになるな、と思った。

 久しぶりに会った相手と当たり障りのない話をしようとすると、学生なら学校の話を振るのが普通だろう。

 そういう気持ちも分かるけれど、今の自分としてはやってられない。

「でも、将来はどうするつもりなの? 美術の先生とか?」

「いくらやりたいこととはいえ、不安定な仕事をする訳にはいかないものねぇ」

「あらっ、そんなのもう古いわよ! せっかくご両親に大学も出してもらったんだし、勉強したことを活かせるお仕事を見つけるべきよ! ほら、最近はそういうお仕事も色々あるっていうじゃない?」

 なぜ人は他人の人生にこんなにも興味があるのか。

 私がどんな人生を選んだとしても、この人達にはなんの関係もないのに。はい、とも、いいえ、とも答えることができず、ただただ曖昧に笑ってやり過ごす。

 グラグラと、胸の内に何かが迫り上がってくるような感覚がして気持ち悪い。

「こんにちは、お嬢さん方」

 いつになったらこの果ての見えない会合から抜け出せるのか。気が遠くなりかけていたその時、落ち着いた声が通る。

「菊理様!?」

 菊理様が白山との散歩帰りに通りかかり、ご近所さん達に声を掛けたのだ。

「まあああ! 最近お顔を見ないから心配しておりましたのよ!」

「菊理様の為に新しいメニューを考案したんです! またお近くに来られた際には是非お立ち寄り下さいませ……!」

「うちの孫が今年七五三で、七五三詣は粟島神社さんにお世話になるんです! どうぞよろしくお願いいたします!」

 それまでは話題の中心が私だったが、明らかに菊理様へと移った。

 吸引力がすごい。

 菊理様の足元にいる白山は疲れたのか、くわりと大きなあくびをしてその場に伏せていた。


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