曠野の聖母、あるいは純然たる悪人が信じた唯一の女の話

門戸

わくらばに逢へば

【注意】本作品の冒頭には、不可避の辛い展開があります。該当箇所は不自然な余白で挟んでありますので、どうぞご注意ください。具体的な直接表現は極力避けましたが、ご了承のうえで読んでいただけますと幸いです。(作者)



・ ・ ・ ・ ・ 


 むかし、女がいた。


 海から押された潮っぽい湿り気がしじゅう立ちこめ、それを冷たい風がひっかき回しては散りぢりにしている、曠野あらののまっただ中。


 くにの東の辺境まぢか、岬の集落をぐうっと外れたさびしい曠野のおんぼろ小家に、女がひとりった。



――ぷしゃん!



 乳のように濃いもや・・の中、井戸で水を汲みかけて、女はくしゃみをする。古びてめた青色毛織を巻きつけた身体が、ぶるっと震えた。


 冷えびえとした大気の中にはしかし、今朝は風もなくて静かである。


 まるで空気が、いいや女のまわりの世界すべてが、まどろんだように淀んでいた。



 落とした釣瓶つるべを鎖で巻き取りながら、ふん、ふん、と女は鼻息に力をこめる。


 つるべの水を木桶にうつして、……ふうう、とため息が女の唇さきを温めた。


 再び、女はつるべを井戸に落とす。まだ若いのに、どこもかしこも乾いたように硬くなってしまった肌。


 しわが寄って、そこだけ大柄な老婆の手先にみえる両手を使い、女は水をくみ上げる。


 青じろい顔の中心、眉のあいだには薄いしわが入ってしまって、ほぼ常に平らになることがない。


 女が母親の怒声に、あるいは子の泣き声につらさを感じる時、そのささやかな線はくっきりと濃くなる。


 今のように重いものを持ち上げる時。あんまり多すぎな荷を背負い、ついでに子を抱き上げて村との道を行き来する時にも、女の眉間の線は濃くなった。



――ふんッ。 ……ふうう。



 けれど女は、今まで一度も弱音というものを吐いたことがなかった。


 ……いいや。ひょっとしたら毎日毎晩、毎刻のように、女は泣きごとを胸の内に垂れ流しているのかもしれない。


 しかしとにかく、女の苦悩を知り得る人間はまったくいなかった。



 女は、母親や他の者たちのように話すことができない。


 生まれた時、女の声はみえない存在によって持っていかれてしまっていた。


 もちろん、妖精たちはただ女の声をとりっぱなしにはしなくて、代わりにかれら・・・の声を授けてはいったのだが。


 けれど他の人間に聞こえないその声では、女の想いは誰のもとにも伝わらない。


 そういう女を母親は【取り換え子】と呼び、何かにつけては叩き、蹴り、納屋の中に閉じ込めていた。



 どこの村からも遠い女の家は、石くれと曠野、わずかばかりの樹々と湿気に囲まれている。


 女の母親によれば、女の祖父……母親の父親という人が死んでからは、税の取り立てに来る官吏すらこの家を訪れなくなっていた。


 ごつごつ石のまじる曠野を四半刻も歩かなければ、隣人には会えない。


 しかしそこの老夫婦と姪が時々女の様子を見に来たり、母親の知らない仕事のやり方を教えてくれたから、女はどうにか人として生きのびることができていた。



 隣人の家のある側と反対方向にゆくと、女の知りうる≪地の果て≫がある。


 地の果てで女は、海に会うことができた。


 そこは小さな崖になっていて、両側は深いとげやぶに隔たれていたから、沿岸ぞいの道をゆく人もまず通らない場所だった。


 女は時々、そこにゆく。


 何をするでもない。ただ青黒くうねったり、すまして明るく凪いでいる海に会いにゆく。


 切り立った崖の下に降りることはできないから、女は海に触れることはできなかった。


 魚はたまに口にする。しかし大きな水のなか、そういった食べ物が生前どのように泳いでいたのかも、女は知らない。


 だいたい気だるげに、時に荒々しく、ごくまれにうららかに紡がれる海の歌に、女はつかのま耳をかたむける。


 そうして静かにため息をついてから、女はこわれそうな家に帰ってゆくのだった。



・ ・ ・



 女はその男を知らなかった。


 子をはらまされた以上は男に違いないのだけれど、女はそれが一体誰なのかを全く知らない。今でも、わからない。


 村の人だったのかもしれないし、通りすがりの旅人だったのかもしれない。とにかく、女は自分の子の父を知らない。









 薄明の中。鶏を小屋にしまう前に、誰もいないはずの樹々のあいまで用を足したあと、ふわりと前むきうつぶせに押し倒されていた。


 何が起きたのかわからなかった。首をひねろうとしたら大きな手のひらが目元に覆いかぶさって、女の視界を消してしまった。


 今まで経験したことのない、気持ちの悪すぎる違和感に女はうめき叫んだが、それは晩秋の荒い風にまぎれた。もとより、女の声を聞きつける人間はいない。


 頭がしびれたようになって、涙がにじむ。


 ひどい痛みをこらえてようやく女が身を起こした時、男の影が樹々のむこう、くらい曠野へ消えてゆくのがわずかに見えただけだった。











 何があったのかを理解できなかった女は、もちろん母にも隣人にも、それを伝えられなかった。


 だいぶ経った頃、前に張り出した女の腹と乳とを見て、母親は激高した。


 母親は女を打ちすえ、何度も殴り、あまりに怒り過ぎてそれまで以上に病みついた。



「あれほど男に寄るなと言ったのに! 呪われろ、ばか娘!!」



 その後、母親は女の顔を見るたびに、そう泣き叫ぶようになった。


 だからもう女は母親の寝室には寄らず、母親が深くねむっている間を見計らって、おまるを取り換え小卓の上に水と食べ物を置くようになった。


 母親は母親で、女が畑や野に出ている時だけ、寝室から出てくる。


 ふたつ間だけのちっぽけな家だから、母親の出てきたことは女にすぐ知れた。炉辺の戸棚にしまってある林檎りんご蒸留酒のびんが、時どき目減りしているから。


 女の出産を手伝ってくれたのは隣人の姪で、この中年女だけが女の母親と話すことができていた。



「自分のおっさんとおんなしへま・・をやって、できたその娘がまた自分のまねをしたってんなら、そりゃあ狂いたくもなるだろうさ」



 隣人の姪は悪人ではなかったが、善人でもなかった。


 自身も女に生まれついたことの不幸にばかり目を向けてきたから、そのまなざしはどよりと黄色く濁っていた。


 赤子を抱く女がすぐそばにいることをつい忘れ――そうひとちて、隣人の姪は何も思わなかったのである。



 小さな男の子はよく泣いた。


 どうしてなのかほとんど眠らず、朝から晩まで女に休む間を与えなかった。


 かんしゃくを起こした女の母親が、お前ら出ていけと寝室でどなる、壁をひっぱたく。


 火の気のない炉辺から、冷たい霧雨の降りしきる夕闇の中に出る。女はぼろ毛織とぼろ外套のうちに子を抱いて、歩き回った。


 疲れて足の感覚がうすくなり、えにしだにつまづいて転びそうになる頃に帰れば、やはり蒸留酒のびんが軽くなっていた。


 それが続いて今にいたる。



――ふんッ。 



 女はもう一度、井戸からつるべをくみ上げていた。


 苦しさだらけのこの生を、女が何とか生き延びられているのは、それはひとえに若さのおかげである。


 けれど子に命を分けたあと、女の姿は変わり果てていた。何十年もとしを食ってしまったかのように見える。


 髪、肌、爪、身体のいたるところからつやが抜け落ちてしわが寄った。どこもかしこも固くひび割れて、松の木の幹みたいになってしまっている。


 長引く腰の痛みをおして働いていたから、屈みがちになって後ろ姿まで年輩者のよう。


 さらに腕の中で育つ子の重みが、女をどんどん前かがみにしていった。



 それでも女は、ものを言わない。


 愚痴も弱音もいっさい口にせずに、歯をくいしばって歩いていった。


 夏の間は曠野あらののこけももやすぐり・・・の実を採って、村の蜜煮屋へと売りにゆく。秋の市では集めた松の実を売った。


 胸の中では、わめくばかりの母親や、顔も見せずに立ち去った男のことを呪っていたかもしれない。


 しかし、女の姿にそういった恨みがあらわれることは一切なかったのである。


 多少なりとも女のことを知っている近くの集落の人びとは、女のことを軽蔑し、嘲笑した。


 あるいは同情したりあわれんでおいてから、距離をとって目をそらした。


 結局なにを言ったところで、女は言葉を発さないのだ。


 代わりに女の抱く赤子がぎゃん泣きして、寄るものを遠ざけた。


 だからすぐりや松の実は買い取るが、それ以上の親切をおこなうのは誰もがためらった。


 売った金で、女は魚を買う時がある。


 市に出ていた漁師のかみさんは、はじめかわいそうに思ってあら・・を多くつけてやっていた。


 しかし女がにこりともせずに行ってしまうので、おまけをつけるのはやめた。


 女は、特に怒っている風には見えない。しかし重くなってはかえって迷惑だったかね、とかみさんは善意から思っている。



「妖精に声をとられて、生まれつきの気の毒な娘だが。あそこまで人相器量が落っこっちまっちゃあ、どうしょもねえわな」



 ぼろぼろの青い古外套を身体と赤子に巻き付けるようにして、ひょこひょこ遠ざかってゆく女の後ろ姿を見送りながら、年寄り客が苦々しく言った。


 漁師のかみさんは、いかつい両肩をきゅっとすくめる。



「生まれつきも何も。女に生まれたとあっちゃあ、もうどうしようもないさ」



・ ・ ・ ・ ・



 じきに冬になろうと言う、暗い日々のことだった。


 女の住む地に嵐がおっかぶさってきて、わび住まいを風ががたぴしと揺らしていた夜。


 扉の叩かれた音を聞いた気がして、小さく火のともる炉辺にいた女は、ふっと戸口の方を見た。


 ごうごう、と風が吹きすさんでいる。


 空耳だろうか、と女が思った瞬間。



 ぶあん!!



 何かが破裂するようなひどい音がして、扉が大きく開いた。


 どやどやどや……、人と嵐と水とが、乱暴な勢いで家の内に入ってくる。



「酒はあるか!!」



 巨大な、真っ黒い山みたいな男が、咆えるように大きく言った。


 何を言われたのかわからない女は、ぽかんとして炉辺の腰掛から立ち上がることもしなかった。



 ぎゃあーん!!



 しかし壁脇の寝籠に入っていた子どもが、驚いて起き、けたたましく泣く。


 女はそれには反応した。


 もう三つになる大きな子だが、さっと抱き上げへやの隅へと縮こまる。



「酒だよ、酒はないんかい」



 大男は、もっとずっとわかりやすい話し方で再度、女に呼びかけた。


 天井につくんじゃないかと心配になるほど上背のある男は、長くかさばる外套をびしょ濡れにして、長い長い棒を左手に持っている。


 その後ろには、がしりといかつい男が二人。年輩の男を両方の肩下から支えるようにして立っていた。


 年輩の男は血の気の失せた、青白い顔をうつむけがちにしている。



「仲間がけがをしたんだ。酒が要るんだよ」



 大男がそこまで言ってようやく、女は理解した。


 このでかい男は怒っているのではなくて、危機に瀕しているのだ、と。


 泣きわめき続ける子どもを片腕に抱えたまま、女は戸棚を探った。母親の林檎蒸留酒のびんを、大男に差し出す。



「ありがとう。わりいね」



 意外にやわらかく、大男は言う。


 女は腰掛や籠をとりのけて、炉辺の前に場所を作ってやった。


 二人の男がそこに、年輩の男を寝かせる。


 もともときれいな家でもないが、よごれ濡れそぼった男たちのせいで、古い石床はどこもかしこも泥水だらけになった。


 水のしたたる毛皮や革衣を、しかし男たちは全く気にしていないらしい。


 大男が、年輩男の口にびんの口をあてがった。



「しっかりしろ、マリュー」



 一瞬たってから、年輩男はぶへッと吹き出す。



「何じゃあこりゃあ、くそまずい酒だなッ!?」


「おおう! よかった、気が付いたなぁ」



 弾けるような朗らかな声で言うと、大男は年輩男のずぶ濡れ上っぱりを脱がせにかかる。


 上衣は肩に近い腕の袖が大きく裂けていて、その下部分の肉があかあかと傷口になっていた。


 子どもはまだ泣いていたが、女は鍋の煮え湯に布ぎれを浸し、男たちの間に入ってじじいの傷を洗う。



「ああ、いて、あんちくしょうッ」



 口ぎたなくののしり続けるじじいは恐ろしかったが、女は震えながら手当をてつだった。


 その間も、片腕の中で子どもはそっくり返って泣きわめき、むずがって女に身体をぶつけたり、小さな手で容赦なく叩いたりしている。



「……うるせえ餓鬼だな、何んとかなんねぇのかよ」


「耳が裂けそうだ」



 格下らしい二人の男は、不愉快そうに顔をしかめてぼそぼそと低く言った。一人は、声をあげて子をなだめない女にむけて、うさん臭そうな視線を投げる。


 だいぶ大きいのに赤子のように泣き暴れている子どもと、無言で耐えている女とをすばやく見比べて、格下の男二人は小首をかしげた。


 その時大男が、みずから口に含んだ酒をぷーと霧のようにして、じじいの傷にあてる。


 恐慌に陥った子どもは、とうとう女の上腕にがっぷりと噛みついてひいひい泣いていた。あいた手で女が再び戸棚の奥をさぐり、家にあったなけなしの新品さらしを腕に巻きつけたあたりで、老人は悪態をつく力も尽きたらしい。


 そのまま炉辺に転がって、けが人は眠ってしまったようである。


 大丈夫なのだろうかと女は不安をおぼえたが、大男は満足気な笑顔でうなづいていた。



「よかった、良かった。これで明日、帰り着くまではもつ・・な!」



 その後で、大男はくるっと女に笑顔を向ける。同時に、女が子どもに噛まれているのに気が付いて、目を丸くした。



「と言うわけで、すまんねぇ。夜明けまで、ちっとこの場を借りてもいいかい? ……坊主をこれ以上おどかさないよう、静かにしてるよ」



 いま大男のしゃべる言葉は、女にもよくわかる普通の言葉、村の人びとが話している言葉であって、しかも穏やかに平らかだった。


 女を見るまなざし、その左目のまぶたの上から頬にかけて、大きなやけどの跡が筋のように通っている。


 それに気づいた女は目を伏せ、男にうなづいた。


 大男ともう二人の男たちは、上衣を脱いで炉の前にかざす。自分たちの持ってきた長い棒に引っかけるようにしたのを見ると、大男の上っぱりはちょっと不思議な形である。


 たっぷりした両袖のところが、いつか森で見たももんがの飛膜みたいだと女には思えた。


 男たちはごつい皮の長靴も脱がず、年輩男のすぐそばにあぐらをかく。火の前に座って、それが彼らの休み方らしかった。


 女はまごついたが、夕方焼いておいた黒いふすまぱんのことを思い出し、切り分けて男たちに差し出す。彼らはほとんど何も言わずに食べ、水を飲んでやがてうなだれ押し黙った。外でうなる嵐にまじる、子どものぐずり声だけが騒がしい。


 子どもは寝籠の中に置かれても、意地のようになってぐずぐずと泣き続けていた。


 一向に静かにならない子どもを籠から抱き上げると、女は自分が唯一の寝具として使っている虫食いだらけの毛布にくるまり、男たちから一番はなれたところ……母親の寝室の戸口前に横になった。ふだんの場所は男たちにあげてしまったのだから、仕方がない。


 そして戸一枚へだてた向こうでは、母親が息をひそめて聞き耳をたてているだろうことも、女は知っていた。


 男たちがいる限り、母親は出てこない。けれど後になれば、明日のぱんをやってしまったこと、どころか酒を全部使われてしまったことを、母親は怒るはずだ。つんざくような金切り声をあげて女の名を呼びたて、ののしり、呪うだろうことを女は知っていた。


 予測して知りながら、女はその恐怖と不安に耐えている。


 やがて、ようやく泣き疲れて眠った子どもの身体から熱がうつってきて、女は束の間まどろむ。


 男たちのきついにおいと、男たちの連れてきた嵐のにおいとが、粗末な狭いへやの中に重くこもっていた。



・ ・ ・ ・ ・



 もそもそ、がたがた。


 動く気配がして、女はふいと目覚める。


 炉の火は熾火おきびになりかけていたから、室の中は暗闇に近い。けれど、がたりと開いた扉からわずかな明るみが床にさした。


 あの怪我をした年輩男を支えて、男のひとりが外へ出て行ったらしい。もう一人が続く。


 ふあーん、と室の中央に黒い膜のようなものが舞いあがった……。


 あの大男が、乾いたももんが上衣を羽織ったらしい。


 女は虫食い毛布に丸まったまま、そうっと大男の方をうかがう。


 薄闇の中から、大男のまなざしがはっきりと女を見つめ返してきた。



「ありがとよ、モイラ」



 低くひくく、大男はささやいた。ひとことも発せない女の名前を、正確に囁いた。


 女はどきりとして、思わず縮こまる。しかし大男はかまわず、むしろ朗らかな調子でささやき続ける。



「俺はギルダフってんだ。生きてられたら、そのうち礼にくるよ」



 二度三度うなづいて、……そうして大男は戸口をひょいとくぐり、外に出てゆく。


 女は粗末な寝床の中で、どくどくと心の臓を波うたせていた。少しためらった後、温かい子どもの身体からそうっと離れて起き上がる。


 戸口を開けてまだ暗い外に出てみれば、男たちの影は曠野あらのの中に消えゆくところだった。


 いちばん後ろを歩いているはずの、あの大男の巨大な影もやがて見えなくなる……。


 海のある方角にむけて。



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