第31話 彼女は高嶺の吸血鬼 ④

 右手の中に血を集めながら、王崎おうさきさんは須郷すごうに向かって声を投げる。


篠江しのえ先生の言ってた雷を操る生徒がいるっていうのは、あなたのことだね。大方、雨や雷や雪を操れるんだろうけれど……」


 そして彼女は吸血鬼らしからぬ――否、吸血鬼らしい血の通わないような表情でこう言い捨てる。

「――その程度でわたしに勝てると思う?」


 彼女のあまりの威圧感に、一瞬にして僕の全身から冷や汗が吹き出した。


 須郷のやつも、バックステップで王崎さんから一歩分距離を取る。

 それでも須郷は、王崎さんの方を向き続ける。彼が黒雲に向かって手をあげようとした瞬間。


「『紅涙の禍槍ブラッド・マッド・ハッド』」

 王崎さんの右手に、血を凝縮して生成された巨大な三叉槍さんさそうが握られた。

 彼女はその槍を須郷に向けようとしたが、彼の怯えたような表情を見て、やめる。

「ふぅん? あなたはこれで死ぬんだ。……じゃあ、殺すのはやめてあげる。その代わり、あなたじゃなくて


 そうして彼女は、そのくれないの三叉槍を空に向かって打ち上げた。


 吸血鬼である王崎さんの尋常でない腕力により放たれたその槍は、たった数秒で空に到達し、雷雲を巻き取り天上に消えていく。


 雲に穿たれた穴は瞬く間に広がり続け、東京の空に数分ぶりの青色を取り戻してくれた。

 久方ぶりの陽光に照らされながら、王崎さんは一度柏手かしわでを打つ。


「はい。これでもう、雨も雷も出せないね」

 僕は唖然としながら、王崎さんの肌が日に焼けてしまわないように、彼女の頭上に日傘を構える。


 須郷はといえば、あまりの王崎さんの破天荒ぶりに腰を抜かして立てなくなってしまったようだ。


「それとね、雨くらいならわたしも降らせられるから。わたしの場合は普通の雨じゃなくて、血の雨だけれど」


 王崎さんが空を指さし、それから須郷に向かって華麗に腕を振り下ろした。

 不意に、空の彼方に赤色の光が灯った。流星のようなそれは、少しずつ、だが確実に地上へと迫っている。


 その赤の星は分裂を繰り返しながら空の中を進む。やがて僕はその正体に思い至る。あれは、王崎さんが天空に放った血の槍の成れの果てだ。

 王崎さんの三叉槍は細かく分解を繰り返しながら振り落ちる。


「『紅血の涙雨ブラッド・マッド・サッド』」

 たったの数秒で東京の空を血の雨で埋め尽くした吸血鬼は、そう言い捨てた。

 数秒後、この場は王崎さんの血で深紅しんこうに染まることであろう。


「この辺りの空はわたしの血で覆った。この意味がわかる? 挑戦者さん。雷を落とせるあなただから、わかるよね?」


 王崎さんににじり寄られ、須郷は座ったままに一歩分退いた。

 王崎さんは、そんな彼のことを光の宿らない目で見下ろしている。


「わたしの血が頭上にある。それはつまり、わたしがあなたの喉元にナイフを突きつけているのと一緒なの」

「……ッ」

 力ない声が、須郷の喉で鳴った。


「雨ってさ、気付かないうちに鼻先に落ちてるよね。でも、わたしの雨はまだ降ってこない。なぜって? わたしが空中で止めてるから」

 思わず、空を仰ぐ。

 そこには、赤くて丸い世にも珍しい血の雨粒が浮かび、静止している。


「わたしの血の雨に体を貫かれたくなかったら、もう二度とわたしに挑んでこないで。無駄な力の誇示ももうしなくて大丈夫。残念ながらあなたは、最強ではないらしいから」


 そこまで言われ、須郷は捨て台詞の一つも吐かずにどこかへと去っていってしまった。

 完全に彼の背が見えなくなった辺りで、王崎さんが肩の力を抜いた。


「はぁ。疲れたぁ」

 彼女の威圧感が抜け、いつもの王崎さんの雰囲気が徐々に戻り始める。


「追わなくていいのか?」

「うん。あれだけ言ったら、もう向かってこないでしょ。……ちょっと、きつく言い過ぎたかな?」

「大丈夫だよ。これで彼も、もう人を無暗に傷つけようとはしないんじゃないかな」

「そうだね。まあ、また悪さをするようならわたしがとっちめるから。そのための調停ヰ者ホルダーだからね」

 それから、王崎さんは腕を組んでうなった。

「それにしても彼、かなり強かった」

 僕は、その言葉に目を皿にする。


「僕には、圧倒してたようにしか見えなかったけど」

「まあね。正確に言うと、圧倒しているように見せただけだけど」

「どういうこと?」

 王崎さんは横目で僕を捉えた。


「この場で雷なんて落とされたら、たまったものじゃないからね、炉一が」

「あ……」

 そこで僕は、彼女がなにを言わんとしているのかを察してしまう。


「わたしは雷じゃ死なないけれど、炉一はそうじゃないでしょ。わたしの血の盾で守るといっても限度があるからね。雨の中だと、特に。だからあいつに雷を落とさせる前に、一瞬で決める必要があったの」

 なにも、言葉を返すことができなかった。


 僕は、王崎さんに追いつくためになんとか頑張ってきたつもりだった。

 でも、王崎さんからしたら、僕はただ守るべき相手でしかないのだ。


「炉一? 大丈夫?」

 俯いて黙り込んでしまった僕を、困り眉の王崎さんが覗き込んでくる。

「大丈夫。なんでもない」


 僕が無理に笑顔を作ると、王崎さんのなにか物欲しそうな視線が僕に向いていた。

 僕はその顔に、見覚えがあった。彼女が僕になにかをねだるときは、あれしかない。


 もじもじとする王崎さんに、僕は首を傾け首筋を差し出す。

「どうぞ、王崎さん。頑張ってくれたご褒美」

「……ありがと」

 ――つぷり。

 常人よりも鋭い王崎さんの犬歯が僕の首筋に侵入する。その傷口から溢れ出た血液を、彼女は舌の先で丁寧に舐めとった。


「……んっ」

 どちらのものかわからない声が漏れる。

 自然と、体が密着する。

 お互いの鼓動を同時に感じることができる。

 次第に、二人の息が荒くなっていく。


 だが、淫靡な時間に酔いしれている暇はない。このままでは、確実に僕の病ヰが発動してしまう。


 王崎さんは血を飲むことに夢中で僕の首筋から舌をはなしてくれない。


 僕の病ヰが発動したところで王崎さんは死なないし、今は周りに人がいないから、危惧するべきは僕の病ヰの発動ではない。こんな往来で密着して吸血をしていることが問題なのだ。

 いや、そもそも、本当に僕ら以外に人はいないのか? 王崎さんが僕に密着しすぎて身動きがとれない。辺りを確認することができない。


「王崎さん。路上でそれ以上は――」

 本当に今更すぎるが、僕はそう言って王崎さんを引きはがそうと、彼女の肩に手を置こうとした。


 その瞬間。


 僕の背後で、なにかが地面に落ちるような音がした。

 僕は、弾かれたようにそちらに首を向ける。

 するとそこには。


「や、やっぱり……。二人、付き合ってる? ……んだよね……?」


 今しがた落としたであろう紙袋の隣に立つ、久玲奈くれなの姿があった。

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