第34話 うっ血女子とその母親、聖なる戦士の帰還

 母親はチホの顔を見るなりいてきた。

 「この前連れてきたあの男の子、もうお国へ帰っちゃったの?」


 チホが、うん、とっくに、と言うと、あら残念、すごく可愛い子だったわよね、と母親はさもなつかしそうに言った。


 チホは母親が麦茶を用意している間に部屋を観察した。

 前に来た時より何となくすっきりしている。


 アコーディオンカーテンを少し開いてキッチンものぞいてみた。

 いつか世良彌堂が言っていたマッドサイエンティストの実験室は小皿やガラス瓶が撤去されて普通のキッチンに戻されていた。


「お母さん。今日ね、病院のパンフを持って来た」

 母親が麦茶を持って来ると、チホは切り出した。

鴨川かもがわにSAS治療の第一人者がいるんだけど、知ってる?」


 母親は、でしょうと訂正した。

 渋い顔で、あなた本当に昔から英語がダメよねと余計な一言もつけ加えた。


 チホはちょっとカチンと来て、英語だけじゃないよ、ピアノもテニスも水泳もダメだったよと言った。

 母親は、あとお習字も、そうよ、あんなにやらせたお稽古けいこごと、すべて身につかなかったと情けない顔で娘を見詰めてなげいた。


「でも、ボートはげるようになったよ」チホは自慢げに言った。

「ボート? ボートはお父さんでしょう。あなたが漕いでどうするの」

 にべもなかった。


「お父さん、どうしてる? 何か変化あった?」

 チホはいた。


 母親と娘は奥の部屋へ向かった。

 窓を開け、中庭を見た。


 町内のSES患者は現在十一名。

 この前来た時は六名だったから、この二か月弱の間に倍近く増えていた。


 父親は生垣いけがきの前にダンボールを敷いてボートを漕いでいた。


「もしかして、前にみがいていた板が、あのオールになったの?」

「そうなのよ。立派でしょう。さすが職人よね」

「お父さん!」

 チホは漕ぎつづける父親に声をかけた。

「お父さん、チホよ!」

 母親も声をかけた。

「お父さん!!」

 二人で呼びかけると、オールをゆっくりと動かす手が止まり、首をかしげるような動きがあった。


「何か前よりも反応がいい」

 チホは興奮気味に言った。

「でもね、あれがやっとなの」と母親。

「もうこれ以上は恢復かいふくしないのかもね」


 父親はまたボート漕ぎ運動に戻っていった。

 どこへもたどり着かないボートを漕ぎつづける父親。


 ほか十名はSES患者特有の腕を前に伸ばした姿勢でゆっくりと動いていた。

 二人は鉄塔の下で思い思いの動きをつづける患者たちを見守った。


「この数年間で震災もあったし、パンデミックもあったわね。いろいろ大変だったけど、これが一番の問題よね」

 母親がしんみりと語る。

 すっかり忘れていたが、津波と原発事故、元首相の暗殺事件まであった。

 それらが忘れ去られるほど、人間社会ではSES土食症候群猛威もういを振るい、吸血社会でもイトマキ症が猖獗しょうけつを極めている。

「どこまで増えたら気が済むんだろう?」

 チホは溜め息をいた。

「よくわからないけど、いずれ、みんな、なっちゃうんじゃないかしらね。わたしもチホも」

 母親も溜め息を吐いた。

「でも、ここまで来るとそのほうが何か幸せに思えて来るのよね」

「えん……」

 縁起でもない、と言いかけてチホはやめた。

「そうかもね」


 二人が黙って窓の外を見ていると、父親がオールを地面に置いて立ち上がる体勢に入った。

 チホがじっと見詰める前で、父親は鉄塔の支柱に寄りかかるようにして立ち、ゆっくりと支柱に頭突きを始めた。


 ごーん、がーん、ごーん。


 チホは初めて見る光景に驚き、母親に、いいの? あれ、止めなくていいの? と慌てて言った。

「あれがお父さんの役目なの。見ていなさい」

 母親は動じなかった。

 するとほかの患者たちも四本の支柱にそれぞれ集まってきて、父親と同じ動作を開始するのだった。


 ごーん、がーん、ごーん。がーん、がーん。


 十一人が支柱に頭をぶつけて奏でる鐘の輪唱だった。

 一本の木に群がって一斉に鳴き始めたセミのようでもあった。


「皆さん、お腹がすいていたのね」

 母親はそう言って、昼の「土」の準備をし始めた。


 チホは、また見てはいけないものを見てしまった気がした。


 考えてみればこの半年、見てはいけないものを見て、知りたくないことを知るばかりの毎日だった。


 それは自分に限ったことではないのかもしれない。

 今まで信じていたものが目の前で崩れて、嘘偽うそいつわりがあらわになることに、人々はもう慣れっこになっているようだ。


 西日本では放射能の影響で新生児がミュータント化しているなどとネットで配信してアカウントが停止されたと騒いでいるが、この国自体がもうミュータント化しているのではないか。

 いや、これは、霧輿きりこし理事長が言っていた優しい嘘のヴェールが全部剥がれてしまった結果、世界の真の姿が見えているだけなのだろうか。


 ライフ・イズ・ブラッディーノーフューチャー……この口癖もいい加減飽きてきた。

 もっと気の利いたフレーズに変更したいものだ。


 父親の病気は治らないかもしれないが、鴨川の病院へ入院させるのが最善の道に思えた。

 母親はチホのすすめに、考えてみる、と答えた。


 千葉へ帰る時間になり、見送りの母親と一緒に表に出ると、通りの彼方から黒雲が降りてくるのが見えた。


「何か、夕立が来そうだよ。お母さん、傘貸して」


 チホが言うと、母親は、どこが? よく晴れているじゃない、と答えた。

 確かに空は晴れているのだが、低く黒い雲が迫っているのも本当だった。


「あの黒い雲だよ、見えないの?」

 チホが訊くと母親は、

「あれ、沼崎さんだ」と言った。


 巨大な土埃つちぼこりのような黒い雲を背負って、駅のほうから緩い坂道をこちらへ下って来る男がいた。


 男は小ざっぱりとした麻のスーツを着て旅行鞄をぶら下げていた。

 首でリズムを取りながら、鼻歌を歌っていた。


 チホは子供に返ったように母親のうしろへ回り込んでいた。

 母親の肩越しに恐々こわごわと男を見た。


 今まで見たことのない風景だった。

 沼崎が何か黒くて大きいものを連れてきた。

 一杯いすぎて何だかわからないのだ。


「チホ、うちの二階の沼崎さんよ。ちょっと、失礼じゃないの」

 母親はたしなめるが、チホは母親のうしろに隠れたまま無言でお辞儀じぎだけした。


「おおっと、これはこれは、大家さんの奥さん、それに娘さん。ご無沙汰してます。沼崎六一郎です。沼崎が故郷佐渡からただいま帰ってまいりました!」 


 沼崎は陽気だった。(注1)


「あなた と あたし 生存者 あなた と あたし 生存者……」


 沼崎はそのまま鼻歌のつづきをうなりながら、二人の前を通り過ぎ、〈にしはた荘〉の階段のほうへ歩いていった。(注2)


 そのうしろから黒い炎のような巨大な塊もついていく。


 沼崎が二階の部屋に入ると、黒い塊もアパートの中へ吸い込まれていった。


 一瞬アパート全体が燃え上るように、ボンッと黒い炎に包まれ、すぐに消えた。


 まるで 「サザエさん」のエンディングでサザエさん一家が家の中に納まって曲が終わった瞬間みたいな感じだった。


 今日、二回目だ。


 また見てはいけないものを見てしまった、とチホは思った。



(つづく)











(注1)

沼崎は帰りの新幹線の車中でエチゴビールの350ml缶を3本飲んでいた。


(注2)

この時、沼崎が口ずさんでいたのは、川本真琴「ギミーシェルター」。沼崎は京王線桜上水駅で下車してからアパートまでの間に同じく川本真琴「DNA」と「1/2」も口ずさんでいた。沼崎はかつてブログの中で川本の「ギミーシェルター」をサバイバリストのテーマ曲と絶賛したことがあった。

本作初出後に気づいたことだが、川本真琴は2012年9月に『川本真琴 and 幽霊』というユニットで同名のミニアルバムをリリースしていた。沼崎の帰還シーンに流れる曲を考えていた時、たまたまラジオから川本の曲が流れてきて取り入れたのだが、このユニットの存在は知らなかった。ミステリー作家の元祖エドガー・アラン・ポーは言った。「人生には驚異としか言いようのない偶然の一致が起こって、髪の毛が逆立つほどである」と。

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