第28話 うっ血女子と血色わるい王子⑪

 試してみましょうか、と言って吉井はナイフを取り出した。


 チホが軽く身構えると、吉井は手を上げて他意がないことを示した。


 テーブルの上にあったウィスキーでナイフの先を消毒すると、吉井は平然と左手の指先に切っ先を突き刺した。


 無表情の吉井が指先を二人の前に差し出すと、小さな切傷から透明なジェル状の物質が染み出してきた。


「これは線虫が出す粘液です。ぼくの体の中には毎朝飲む血液のほかに血は一滴もありません。代わりにこの粘液が充満しており、その中をミクロな線虫たちが泳ぎ回っているというわけです。即ちぼくは線虫たちにとって〝歩く市営プール〟なのです」


「上手いこと言ってるんじゃないわよ。そんな重大なことを軽く言わないでよ」


 チホは吉井の胸倉むなぐらつかみそうになった。

 その手が右手であることに気づくと、こぶしをぎゅっとにぎって耐えた。


「おいかりはごもっともですが、これがこの世の真実なのですよ」

 吉井はいつか理事長室で見せた謝罪モードで受け流した。


「何で今まで隠してたのよ。みんな困ってるのに。まゆになっちゃった人たちに何て言うつもり?」


「真実とは残酷なものです。知ったからといってどうなるものでもない。それなら、知らないほうがいい。知らなくていいことを目の前から隠してあげるのも、優しさというものではないでしょうか」

 吉井は悪びれる様子もなかった。


「話にならない……ちょっと、彌堂君も何か言ってやってよ」


チホは促すが、世良彌堂の〈万物を丸裸にする目セラミッド・アイ〉は一点に注がれたまま微動もしなかった。

 吉井の指先を睨む世良彌堂の顔はどこかさびしげだ。

 きっとメグミンさんのことを思い出してしまったのだとチホはさっした。


 吉井によれば、若い女性の場合は月経で確かめられる。

 それ以外は採血してみるしかない。

 病気にならない吸血者が自分の血を見る機会はまれだ。


「確かにおれは小学生以来、自分の血を見たことがない」

 世良彌堂は寂しげな表情のまま言った。

「だが、何故なぜ言い切れる? おれも貴様と同じ状態にあると」

「顔ですよ」

「顔?」

「鏡をごらんなさい、気がつきませんか? 陶器とうきのような肌、というものじゃない。君の肌はもはや青磁せいじ白磁はくじの部類。その目はサファイアで作った義眼ですか? 君の造型はもう人間離れしています。萩尾望都はぎおもと先生のイラストの美少年のように完璧です」(注1)


 吉井によれば、肉体が線虫に完全に乗っ取られた吸血者は典型化、単純化、大衆化の道を歩む。

 表情も行動も下手な役者の演技のように極端なものになっていく。

 余計な要素が消されて、本質が最適化していく。

 線虫がローコストで維持し易い人物へと精錬せいれんされるのだという。


「おかげでぼくも、絵に描いたような不良中年のちょいワルオヤジというわけです。これも、もう死語ですかな。前はもっと陰影の濃い深みのある人物だったのですがね……」


 人体組織と入れ替えが完了したμ吸血線虫の群体に人間の意識は必要ないはずだ。

 μ吸血線虫が完全に人体を乗っ取ってしまわないのは、そこに彼らの利益があるからだ。

 μ吸血線虫は宿主しゅくしゅの「人間性」を利用しているのかもしれない。


「例えば、赤十字社と吸血者協会という「人道的」で巧妙な搾取さくしゅのシステムで人類から広く薄く血液を集めさせるとかね」(注2)


「その変な虫が血を吸うための道具なの? わたしたちって……」

 チホはまだ信じたくなかった。


「そうなりましょうな。吸血者は人類に寄生し、μ線虫は吸血者に寄生する。そして、人類も地球に寄生してその養分を吸っている。マンガ『寄生獣きせいじゅう』の広川市長も、確かそんなことを言っていましたね」(注3)

 吉井はつづけた。

「その地球も宇宙の何かに寄生しているのかもしれない。何者かに寄生し何者かに寄生される。持ちつ持たれつではなく、奪い奪われどこまでも、それが救いのない残酷な宇宙の真理なのかもしれませんね」


 そう言う吉井の表情は、どこか晴れ晴れとしていた。

 秘密を暴露ばくろしてさっぱりしたのだろうか。


「おれがすでに死んでいる? シロアリに食われた樹木のように、おれの体はすでに線虫どもに乗っ取られていて、おれの意識のみが残されている?」

 世良彌堂も納得がいかないようだ。

「まるで幽霊ではないか……そんな馬鹿な」


「その意識も糸を吐くまでの命です。今回のイトマキ症の大流行は過去二回とは規模が違います。これも仮説ですが、μ吸血線虫の生存戦略に何らかの方針転換が起きた可能性があります。このまま人類と共にあっても先がないと判断したのでしょうか。仮説が正解でないことを祈るばかりです」

 吉井のさわやかな笑顔に、その祈りは見えなかった。


「もはやどうでもいいことだが、一応いておく」

 世良彌堂が力を振り絞るようにして吉井をにらんだ。

「貴様が繭を集めているのは何故なぜだ? まさか金もうけのためとも思えんが」


「もちろん、金ではありません。むしろ、逆です。繭で金儲けをたくらむやつらが今後必ず出てきます。繭を原料に医薬品、高級化粧品、サプリメント、オーガニックTシャツ、何でも出来ますからね。先手を打ったのです。繭を集めて保管する財団が間もなく発足ほっそくします。また赤十字と協会のような、世界的ないい仕組みができますよ。μ吸血線虫が小躍りして大喜びするような「人間味」のあるシステムがね」


「貴様はクソ線虫どもの奴隷どれいだな」

 世良彌堂は吐き捨てた。


「せめて、優秀な、をつけてくださいよ」

 ちょいワルの面目めんぼくが立ったとばかり、不敵に微笑ほほえむ吉井。

「ぼくに言わせるなら君だって、単独で吸血システムを構築してしまった驚嘆きょうたんすべき奴隷の一人です」


 チホは睨み合う世良彌堂と吉井友実をぼんやりと見ていた。


 今まで曖昧あいまいにしていたことがこれではっきりしてしまった。

 理科斜架リカシャカ蜘蛛網クモアミ姉妹のことだ。


 二人の病気をパソコンの更新になぞらえるのもプリンターの目詰まりで説明するのももう通用しない。

 線虫によって最適化され、線虫に乗り捨てられてしまった二人の生命はすでに燃え尽きているのだ。


 真実を隠すことが優しさだと言う吉井は欺瞞ぎまんに満ちた男だが、真実を求めながらどこかで直面することを避けたかったのはチホも同じだ。


 この三か月間、駆け回って結局手の中に残ったのは羽化することのない二つの繭だけだった。


 真実を告げる役目を終えた吉井はデッキチェアに戻って次のビールを開けていた。


「ああ、一つ言い忘れていました」

 何気なく吉井が言った。

「間もなく、ここへ、シカクが来ます」

 

「何が来るって?」

 世良彌堂が声を荒げた。


「し・か・く・です。四角じゃなくて刺客。刺客が来ます」

「何だと……貴様、おれたちを殺す気か?」

「殺されるのは、主にぼくです。ぼくがぼくを殺すのです。協会理事長、霧輿龍次郎きりこしりゅうじろうとして、トップシークレットを口外した吉井友実よしいともざねは殺さざるをえません。お二人も早く逃げないと、おや……遅かったかな」


 吉井はデッキチェアの上に乗って、額に手をあて背伸びをした。


「おお、来た来た」


 世良彌堂も湖岸へ目をやった。

 ボートを出した船着き場の方角だ。

 チホもそちらを見たが、木々にはばまれて何も見えない。


「小型のリバーカヤックだな……あれでこちらへ上陸する気か……背負っている長いものは刀剣か…… 何者だ? 中学生くらいにしか見えんが」


 日本吸血者協会公認のプロの暗殺者アサシンの一人だという。

 吸血者協会及び赤十字にとって望ましくない人物はこうして駆除されるらしい。


「ほら、何と言ったか、あの女優。映画監督と結婚したバレリーナの……ほら! 役所広司やくしょこうじの『Shall weシャル・ウィ ダンス?』のヒロイン役の……ほら!」


 珍しくど忘れしている世良彌堂。

 バレエダンサー・草刈民代くさかりたみよが、若返った感じのきりりとした少女が刀を背負ってこの島へ向かってくると言いたいようだ。


「妙だな……あの女、カマキリみたいな目で、おれをにらんでいる……この距離で目が合うわけがないのだが……」


 湖に浮かぶ少女から木々の隙間を通して木漏れ日のように鋭い視線と殺気が伝わってくるという。


「彼女、君ほどではないが、人間にしては目はいいですよ。フィジカルもすごい。五歳から小刀で近所の犬猫を斬り始め、小学生時代はオンラインゲームのチャットで呼び寄せた変態どもを辻斬り、今では立派な趣味と実益を兼ねた殺し屋稼業、殺人マニアのサイコパスです。面影おもかげが坂本君の永遠の許嫁いいなずけ千葉さな子殿にちょっと似ているでしょう? ぼくを殺すのに相応ふさわしいプロですよ」


「何だか知らないけど、その依頼ってキャンセルできないの?」

 チホは吉井に言った。


「無理ですね。契約についてはゴルゴ13サーティーンと同じ、一度引き受けた依頼は絶対です。すいません。もう助かりません。本当にすいません。この島にいる者は皆殺しです」

 笑顔で答える吉井。


 スマホを取り出し、110番通報しようとするチホ。


「また警察か。おまえには自己解決、自力救済という発想がない」

 世良彌堂が呆れたように言った。

 

「もしや、千葉県警ですか? あそこはダメですよ。通報すれば一応動くでしょうが、至極しごくゆっくりやって来るでしょうね。パトカーが着いた頃には、すべて終わっていますよ。ここだけの話ですが、県警も彼女のお得意さんなのです。面倒な事件は逮捕して起訴きそするより殺したほうが早いですから」


「何よ。他人事ひとごとみたいに」

 そう言いながら、チホもどこか他人事みたいな気がしていた。

 理科斜架と蜘蛛網をもうこちら側へ連れ戻せないとわかった以上、自分もこちらにいようとあちらへ行こうと同じような気がしていた。

 生きることにあまり執着がないのは吸血者の特徴の一つかもしれない。


「お二人には悪いが、ぼくはとても満足です。これでやっと肩の荷が降ろせます。ぼくの明治維新、吸血者革命が完結です」

 吉井友実はサングラスをかけ直し、デッキチェアに寝そべってまたキリンの一番しぼりを飲み始めた。


「罪なやつさ あぁァ~パシフィック 碧く燃える海 どうやら おれの 負けだぜぇェ~……」


 ラジカセから流れる曲はいつしか矢沢永吉やざわえいきち「時間よ止まれ」に変わっていた。


「勝手に自己完結していろ! この、クソオヤジ」

 世良彌堂が怒鳴どなった。

「そうやって国産ビールを飲みながら司馬遼太郎しばりょうたろうの日本昔話でも読みふけってろ!」


「幻で かまわない 時間よぉ 止まれぇ~ いのちの めまいの なかでぇ~」

 吉井は気持ちよさげにサビを歌い上げている。


「彌堂君……」


 世良彌堂の小さな体が大股でチホの元から離れていく。


 元来た湖岸へ戻るようだ。


 チホは追いかけた。

「どうするの? ボートで逃げるの?」


「いや、闘うのだ」

「闘う? 殺し屋と?」


「そうだ。やつを波打ち際で、むかつ!!」



(つづく)











(注1)萩尾望都(1949~) 漫画家。天才。

吸血鬼の一族を年代記風に描いた『ポーの一族』が有名。


(注2)

皇室は日本赤十字社に設立当初から今日まで深く関わってきた事実がある。それが何を意味するのか、非常に興味深いテーマではあるが、ジャーナリズムがまったくと言っていいほど触れないこともまた興味深い事実である。


(注3)マンガ『寄生獣』

作者は岩明均。人類と寄生生物の闘争と共生を描いた大傑作。

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