第23話 ep7 メッシュ


第23話 メッシュ


 夜は深く、街全体が冷たい霧に覆われていた。

 噴水の下の地下回廊での戦闘を終え、逃げ延びたメッシュ――いや、今は一人きりでいるその男は、重い足取りで建物の影に腰を下ろしていた。黒い鉄兜はすでに脱ぎ捨て、荒く乱れた髪が湿気を帯びて額にはりついている。


 その瞳には、まだ消えぬ光景が焼き付いていた。血に濡れた実験室、悪魔の断末魔、兵たちの冷たい手際。

 そして、彼が何よりも忘れられない声。


「……メシアさん」


 誰もいないはずの闇の中、はっきりと耳に届いた。

 その名は、決して表の世界で呼ばれてはならないものだった。


 メッシュは反射的に顔を上げる。

「……ディスア?」


 そこに立っていたのは、あの実験室で最後に力尽きたはずの悪魔の姿。だが輪郭はぼやけ、霧のように揺らめいている。生きているわけではない、魔力の残滓が作り出した幻影だ。


「やっぱり……お前はまだ、俺の前に現れるのか」

 メッシュはかすれた声で笑った。


 ディスアは虚ろな目をしながらも、真っすぐ彼を見つめる。

「メシアさん……任務は、まだ……終わっていません」


「終わっていない、だと? お前は……あんな目に遭って、それでもまだ俺に“任務”を言うのか」


「……魔力は、もう残っていません。でも……これだけは……」


 幻影の手が動き、どこからともなく箱を差し出した。

 不気味な箱だった。表面にはびっしりと目玉のような紋様が刻まれ、まるで意思を持つかのようにギョロギョロと動いている。


 メッシュは無意識に拳を震わせる。

「それを……俺に託すつもりか」


「……はい。これが……私の、最後の役目です」


 ディスアの輪郭が急速に薄れていく。

 彼は最後に、ふっと穏やかな笑みを浮かべた。

「メシアさん……どうか、必ず……」


「ディスアぁぁぁッ!」


 メッシュは叫び、箱を抱きしめた。しかしすでにそこに仲間の姿はなく、残されたのは冷たい現実だけだった。


 ――胸の奥に、どうしようもない喪失感が広がる。

 彼は歯を食いしばり、唇から血が滲むほど噛み締める。


 そうして、重苦しい沈黙を裂くように背後から声がした。


「……今の、誰と話してた?」


 心臓が跳ね上がる。振り返れば、そこに立っていたのはアダだった。

 彼は表情を硬くしながらも、目を逸らさずにこちらを見ている。


「……お前……聞いていたのか」

「全部じゃない。けど……“メシア”って、そう呼ばれてただろ」


 空気が凍りついた。

 メッシュはしばらく口を開けず、ただアダを見返していた。

 やがて観念したように目を伏せる。


「……俺の名はメッシュじゃない。本当の名は――メシア」

 低く、だがはっきりと吐き出す。

「魔王軍四天王の一人。人と悪魔の混血……魔人だ」




 メシアは嘲笑するように肩を揺らした。

「どうした? 恐ろしくなったか? 俺を討つか? 人間ならそう考えるだろう」


 しかしアダはゆっくりと首を横に振った。

「いや……俺はお前を殺す気なんてない」


「……なに?」

「お前が四天王だからって、俺にとっては関係ない。ただ……お前がどう生きて、どう戦うのか。それだけが俺には大事だ」


 その言葉に、メシアの瞳がわずかに揺れる。

 人と悪魔の血を引く自分を“普通に”受け止めた人間が、過去にいただろうか。


「……お前は、本当に……変わった奴だな」

 メシアはかすかに笑った。だがその笑みの奥には、深い哀しみが宿っていた。



---


 しばらく沈黙が流れた後、アダが口を開く。

「さっき見たんだ。正教会の実験場……悪魔を切り刻み、子供を使って能力を注ぎ込む……あれは、なんなんだ」


 メシアの目が鋭く細められる。


「あいつらはな、軍事力を求めている。表向きは“民のため”“神の加護”なんて言ってるが、実際は違う。下の街から子供をさらい、悪魔の血を注ぐ実験を繰り返している。成功すれば“聖騎士”と称して兵に組み込み、失敗すれば……ただの屍だ」


 アダの拳が自然と握りしめられた。

「……そんな……胸糞悪いことが……」


 メシアは目を閉じ、思い出すように言葉を続けた。

「ディスアも、あの地獄に囚われた。俺は探していたんだ、ずっと……。だが見つけた時には、もう……」


 声が震える。

 魔王軍四天王と恐れられる男の心の奥から、剥き出しの痛みが零れ落ちていた。


 アダは息を呑む。

「……メシア。お前……」


「言ったろ? 俺は魔人だ。血も心も、二つの世界に引き裂かれている。だが一つだけ誓ったことがある。仲間を……部下を……決して見捨てないって」


 その言葉は、重く、真実だった。



---


 長い沈黙が再び訪れる。

 やがてアダが静かに言った。


「……俺は、この事実をどうするべきか、まだ決められない。正教会に逆らえば、送迎士の仕事も失うだろう。でも……こんなこと、見過ごしていいはずがない」


 メシアはゆっくりとアダの肩に手を置いた。

「無理に決めなくていい。お前はお前のやり方で生きろ。ただ……俺と同じで、“嫌だ”と思ったことを胸に押し込むな。それだけで十分だ」


 しばしの沈黙。

 アダはただ、隣に立つしかなかった。

 慰めの言葉も、同情も、この場にはふさわしくなかった。


 ――やがて、メシアはゆっくりと振り返った。

「アダ。……俺はもう、誤魔化すのをやめる。」

 その瞳は人間のものではなかった。血のように赤く輝き、角がわずかに覗く。

「俺の名はメッシュじゃない。メシア。魔王軍四天王のひとり……魔人だ。」


 地下の空気が張り詰める。

 アダは驚愕しつつも、一歩も退かない。

「……そうか。けど、それがどうした。」

「なに……?」

「お前が魔王軍だろうが、四天王だろうが、俺には関係ない。俺は送迎士で……そして、ここまで一緒に戦ってきた仲間だ。それ以上でも、それ以下でもない。」


 その言葉に、メシアは目を伏せ、苦笑のような、泣き笑いのような顔をした。

「……お前は、変わってるな。普通なら、ここで剣を抜いて俺を討とうとするはずだ。」

「俺は剣士じゃない。契約者だ。」

 アダは静かに告げた。その声は、揺るぎない意志を含んでいた。



---


 二人はさらに奥へ進む。

 空気は次第に重くなり、鉄と血の匂いが濃くなっていく。

 扉を抜けるごとに、悲鳴や呻き声が混じり、それがやがて――光に包まれた巨大な空間に出た。


 そこは、地下に造られた聖堂だった。

 白い大理石の柱、金色の装飾、そして中央には創造神アファリズを模した像。



 その時、静かな拍手が響いた。

 聖堂の奥、豪奢な椅子に腰掛けたひとりの男。

 白と金の法衣を纏い、威厳をまとった姿――正教会の頂点、大司教グリデウスであった。


「よく来たな、異邦の契約者。そして、我が可愛い実験体どもよ。」

 彼の周りには、美しく着飾った女たちが侍り、葡萄酒を注いでいる。

 その光景は、神聖さとは正反対の、堕落そのものだった。


「……お前が、この惨劇の首謀者か。」

 アダの声は震えていた。怒りか、恐怖か、己でもわからない。

「首謀者? 違うな。これは“救い”だ。下層の乞食どもを選び、力を与え、死ぬならそれも神の御業。残った者は聖騎士として、魔王軍を討つ。完璧だろう?」

 グリデウスは笑った。白い歯を見せ、まるで愚民をあざ笑うように。


 その一言一言が、アダの心に杭を打つ。

 この男は――心の底から、人を“駒”としか見ていない。

 救いを口にしながら、女を侍らせ、子供を実験に使い捨てる、最低の外道だった。


 メシアの拳が震える。だが彼は動かない。

 アダが一歩、前へ踏み出した。


「……大司教グリデウス。

 俺は送迎士だ。宗教にも、権力にも関わるつもりはなかった。

 だが――ここまで見せられて、黙って引き下がることなんてできない。」


 その瞬間、グリデウスの目が細められる。

 そして、不気味な笑みを浮かべながら立ち上がった。

「……面白い。契約者よ、ならば見せてみろ。お前の“正義”とやらを。」


 アダは背筋を伸ばし、はっきりと言った。

「いいだろう。――答えは、ここで確かめる。」


 聖堂の空気が凍りつく。

 次の瞬間、大司教グリデウスを中心に、狂気の戦いの幕が上がろうとしていた――。



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